小松秀樹「医療崩壊」(3) Ⅱ 警察介入の問題

 
 小松氏によれば、警察は本質的に暴力装置であるのだから(同じく暴力装置という側面を持つ外科手術と同様に)、その活動についてはメリットとデメリットを常に考えなければならない。しかし警察官は医療について、一般の患者と同様の認識しかもっておあらずメリットとデメリットを判断するための知識をもたない。それにもかかわらず、2002年ごろより、警察が医療現場に踏み込むことが多くなった。そのため、従来であれば民事事件でおわったはずの紛争が、簡単に刑事事件になるようになってきている。その過程でのメディアの報道はほとんど(医師に対する)人格攻撃であり、送検前に実質的に罰をうけたのと同じ状態になる。医療行為は普通のまじめな医療従事者にとっても危険なものになってきてしまっている。
 しかし小松氏は同時に、民事裁判は立証責任や訴訟費用などの問題で、患者側からは敷居が高いのだから、行き場のない患者が警察に訴えるようになったのは、当然でもあり、こういう患者の行動は理解もできるし、必然的でもあるという。
 また小松氏によれば、以前は警察は患者からの医療にかかわる訴えをほどんどとりあげなかったのだそうである。それが変ったのは桶川のストーカー事件で警察が怠慢であると非難されたためであり、それ以降は市民からの訴えを多くとりあげるようになったのだという。
 さて、よくわからないのが、警察は医療について十分な認識をもっていないことを自覚しているので本当は患者からの訴えをとりあげたくないのだが、それにもかかわらず、警察は怠慢であるという世間からの圧力があるため、いやいや医療にも介入しているのか、それとも前から医療の問題もとりあげたくて仕方がなかったのだが、世間からの圧力という味方ができたので、勇んで医療に介入してきているのだろうかというということである。
 小松氏も患者さんの側が医療行為について疑問を感じたときに、訴え出る場所が必要であることはみとめている。ただ、それが警察であるのが適当かということに疑問を投げかけているわけである。
 もしも、以前は警察が訴えをほとんどとりあげていなかったとすれば、以前は患者さんの側は、泣き寝入りになっていたということなのではないだろうか? 民事訴訟によって、従来も紛争はうまく解決されていたというのであればいいのだが、民事裁判は立証責任や訴訟費用などの問題で、患者さんの側からは敷居が高いのであるとすれば、警察が介入してくることは患者さんの側には少なくとも、今までよりはベターである情況なのではないだろうか?
 医者にとっては警察の介入はあきらかにマイナスである。医療行為が普通のまじめな医療従事者にとっても危険なものになってきてしまっていることは、医者はみんな感じている。しかし、それにもかかわらず、医者および医療関係者の士気をそぐということが、医療への警察介入に反対する正当な理由とはならないのではないかと思う。
 さらに医師法第21条の問題がある。これは死体あるいは死産児をみたときに、それが自然死ではない可能性があると思われた(異常があると認めた)ときは、警察にとどけなければいけないというものである。これは誰がみても犯罪の可能性がある時はとどけろというものであるが、あるとき日本法医学会が「異常死」の中に診療行為をふくめると定義したのだそうである。当初、これは誰も問題にしなかったのだそうであるが、都立広尾病院でのナースが消毒液を間違えて静脈注射したことによっておきた死亡事件において、そのことを医師法第21条に則って警察に届けなかったこともまた犯罪とされたことから、その後、病院から多数の「異常死」の報告がさなれるようになったという経過なのだそうである。そうすると「異常死」が疑われる場合には病理解剖ではなく、司法解剖がなされることになる。その問題点として本書でとりあげられているのが、三宿病院事件といわれるもので、これは医療者の側からみれば、本当にひどい話である。
 その概要は、高齢の女性が大腸癌検査の前処置の下剤の服用によって、腸管破裂をおこして死亡した、というものである。通常はそのようなことがおきれば、強い腹痛が生じるものであるが、そういう目立つ症状がでないうちに血圧が低下して死亡したらしい(高齢者では肺炎で熱がでないなど、いろいろな反応がでにくい側面がある)。病院としては死因がわからなかったので「異常死」として届けたため、司法解剖がおこなわれた。その結果、腸管破裂という診断が確定したのであるが、この司法解剖の結果は医療者の側には知らされないのだそうである。病院としては、そのため死因がわからないまま、家族に推定される死因などについて説明したが、病院の対応は妥当であり、過失はなかったと判断しているというような説明をしたらしい。一方、司法解剖の結果は患者さんの家族には伝えられる。そうすると、病院が診断を誤っていたし、診断を誤ったがために対応も遅れたとの印象をあたえることになる。どういうわけか患者さんの死亡から3年後に刑事事件として本格的捜査が開始され、8ヶ月の捜査の間、事件がメディアに大々的に報じられることになったのだそうである。院長は辞任、主治医と看護師2名が業務上過失致死、院長と事故調査委員長は虚偽有印公文書作成と行使で書類送検されたのだそうである。
 これは誤診というよりも診断がつかなかったケースであろうと思う。われわれは日常、診断がつかないケースにはしばしば遭遇する。病理解剖というのはそのための制度であって、患者さんが亡くなった後の解剖ではじめて正しい診断が得られることは少なくない。正しい診断ができなかったからといって業務上過失致死であるとか、虚偽有印公文書作成と行使などといわれたのでは、たまったものではない、というのがわたくしをふくめた多くの医療者の感想であろう。
 ここからは感想であるが、このケースで一番問題なのは、家族に、病院の対応は妥当であり、過失はなかったというような説明をしている点であるのかもしれないと思う。たぶん、このケースは医療者の側でも何がなんだかわからないうちに患者さんが亡くなってしまったケースなのではないかと思う。だから医療者も死因はわからないというのが本当のはずである。病院の対応は妥当であり、過失はなかったといいきることはできない情況ではないかと思う。それを妥当であり、過失はなかったといってしまったというところに問題があるのではないかと思う。そして、医療者の側がそのような行動をとる原因としては、この連載の最初に紹介した、ポパーのいう「古い職業倫理」、『知識人にとっての古い命令は、権威たれ、この領域における一切を知れ、というものです。(中略)わたくしが叙述している古い倫理は誤りを犯すことを禁じています。誤りは絶対に許されないことになります』というところに帰着するのではないかと思う。小松氏は、医療は不完全な行為であり、われわれはしばしば過つものであり、誤診はありえ、診療は試行錯誤の連続であるとみるのであり、医者はそのことをつねに患者さんの側に啓蒙すべきであるとしているのであるから、この医療者の側の最初の説明のやりかたは医者としてとるべき対応としては満足なものとはいえないということを指摘しなくてはいけないように思うのだが、本書を読む限りそこのところははっきりとはしない。
 軽々しい推測は慎むべきであるけれども、医療者の側の説明に、何か隠しているところがあるような雰囲気、嘘をいっているといえばいい過ぎであるけれども、何かうしろめたいような雰囲気を患者さんの家族の側が感じたことが、この紛争の出発点にあるかもしれないと思う。つまり、医療者の側の対応に、どこかで何かを失敗したとしてあわてふためいているようなものを感じ、それにもかかわらず、自分達の行為は正しかった、過失はないといいはった点に不信感をもったということははないだろうか?
 死は人間にとって当たり前のものであり、そう悪いことではない、という認識が患者さんの側に共有されていないことが、今日の医療の問題を引きおこしていると小松氏はいうのであるが、それは医療者にとっても当たり前の認識とはなっていないのではないだろうか? だから、死という事実を前にして、失敗した、なにかまずいことが起きたと思い、うろたえてしまい、自分たちの対応は間違っていなかったと無理に強弁することになってしまうのではないだろうか? さりとて、こういう事態を前にして、人はだれでも死ぬものです、当たり前のことがおきただけです、などといえば、張り倒されることは必定であるが。
 次が、脳動脈瘤カテーテル治療でのガイドワイアでの脳動脈瘤破裂事故での死亡の話である。事前に十分に適応を説明し、リスクとベネフットについて説明し、治療の危険性について説明しておいたにもかかわらず、、家族が警察に届け出たため担当医が、取調べをうけ、その担当医はショックのためしばらく勤務ができなくなったという話である。この場合は取り調べだけであり、送検されたわけではないにもかかわらずそうなったということである。ここにはただ事実が書かれているだけなのだが、読んでいるひとは、だから警察には届けるべきではない、と読むひともいるかもしれないと思う。しかし、訴えた側は、むしろ担当医にショックを受けさせたくて届け出たのではないだろうか? ショックを受けたのを見て、ようやく反省したか、などと思っているかもしれない。身内が急に死んだ人間の気持ちにもなってみろ、とか思っているかもしれない。警察に届け出るということは、何か納得できないものがそこにあるからだろうと思う。
 このような医療でのアクシデントは臨床においては避けがたいものである。しかし、そのことは事前に十分に説明してあるのだから、相手も納得するべきである、あるいは納得してほしいというのは、医療者の側としては当然の切なる気持ちではあるのだが、それを相手が受けいれないからといって相手が悪いとはいえなだろうと思う。人の死を、論理だけで受けいれるということは、多くの場合、期待できないのであり、そこに感情がかかわってくることもまた避けがたいのである。
 さて、そこからメディアへの批判がはじまる。小松氏が慈恵医大青戸病院の事件にかんしてメディアに意見を言おうとしたときに、「その意見は以前にもいったひとがいるか、誰か同じ意見の人がいるか」ということを盛んに確認され、「もし以前にそれをいったひとがいるのであれば、その人の意見の引用として述べてくれ」というようなことを言われたらしいのである。世論がそうであると確認した上で、それに同調する意見はたやすく言えるが、そうでない意見は発表することさえ容易ではないそうなのである。なぜ、そうなるのか、それはメディアとは、自立した個人が自分の理性で責任をもってする判断を示す場所ではなく、その時々に流通している通念にしたがうことを最大の目標としている場であるからだという。
 そして、メディアが増幅した「世間」の感情をなだめ慰撫することが警察の行動の大きな目標となってしまっているのだという。つまり日本の警察はポピュリズムに支配されているという。「理性的な判断の裏打ちがないと、警察の正当性が傷つきかねない。現在、私が知る多くの医療関係者が警察の行動をにがにがしくみている」と小松氏はいう。
 これを読んでいて、思い出したのが山口昌男氏の「知の遠近法」(岩波現代文庫 2004年)に収められた「噂がひとを襲うとき」という文章である。ここでとりあげられている「東京女子大教授の女子学生暴行事件」は1975年ごろのものであり、その当時のことを覚えているひとはほとんどいないであろうが、わたくしにとっては忘れることのできないものである。山口氏も書いているように、東京女子大の大学院生を暴行したとされたS教授が、「当事者の一人のS氏が、私が麻布中学で教鞭をとっていた頃、私の最も敬愛する若手の研究者としての同僚であった」とあるように、わたくしが麻布中学高校時代に、教わった先生であったからである。そのS先生は、わたくしに文学の面白さを教えてくれ、また同時にわたくしにはまったく文学の才能がないことを悟らせてくれた先生でもあるので、わたくしの生き方に大きな影響をあたえた人である(ということで、当然、山口氏にも教わったのであるが(日本史)、氏がこんな有名人になるとは当時はまったく思わなかった)。
 山口氏とともに、わたくしもS先生の無実を信じるものであるが、無実であろうとなかろうと、メディアにこういう記事がでれば、そのことにより社会的に葬りさられてしまうのである。山口氏は無署名記事の卑劣をいう(自立した個人がする自分の理性で責任をもってする判断の欠如)。山口氏がいうように「煽情的な文章の持つ効果は、それが中途半端な正義感を代表している時には、奴を殺せという最終解決に人をけしかけることによって、日常生活における個々人の鬱積した憤怒の情念に形を与える役割を果たす」のであり、マス・ヒステリーに火をつけるものである。「ルサンチマンを、一見強そうに見える非力の者に向けて言論のリンチを加えるのが一番汚いのだ」ということである。
 博識な山口氏は、リリアン・ヘルマンの戯曲「子供の時間」から、モランの「オルレアンの噂」などさまざまな類似の事例を紹介しているが、もっとも印象的なのは、ロスコー・アーバックルという喜劇俳優の事件である。1921年のハリウッドでことであり、詳細は山口氏の本であたっていくこととして、一番印象的なのは大衆の反応である。マス・ヒステリーというものがどういうものか、慄然とさせられる。
 山口氏は、「それが起こったか、起こらなかったかというのは大きな問題ではない。仮に起こったとしても別にどうということではない」という乾いた姿勢が大事なのだという。だが、おそらく、こういうことがおきるのは湿った日本に限ったことではなく、フランスでもアメリカでもおこるのであり、人間の根っこの部分にひそむ何かがそういうものを起こさせているのである。たまたま現在の日本の医療はそういう強い風の中にいるということであろうが、その風向きが、医療の本質を啓蒙したり、科学的な理解を普及させたりすることで変るとは思えない。新たなマス・ヒステリーの対象が見つけられることにより、風が別の方向へ去っていることがいずれおきるというだけであろう。今、不二家の関係者はいろいろといいたいこともあるであろうが、何もいえないであろう。政治家たちだって、事務所がどうのこうのというマスコミに「もう少し勉強しろ」と思っているのではないかとも思う。
 山本七平氏の「「空気」の研究」(山本七平ライブラリー① 文藝春秋 1997年)に、山本氏が、日本の道徳とは「現に自分が行なっていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、“口にしたということが不道徳行為”と見なされる。したがってそれを絶対に口にしてはいけない」というものである」というと、それをきいたある雑誌記者が「そんなことを言ったら大変なことになります」という場面がある。
 山本氏がよく例にあげるのが戦艦大和の出撃である。だれがどう考えてもそれは暴挙であり、愚挙であった。当事者たちが何よりもよくそれを知っていた。理性による判断ではそういう結論に当然なるしかない。しかし、その最高責任者は、後にいっている。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏しようと思わない。」 たぶん、不二家の責任者もそういうのであろうと思う。あとから思うと異常なことがその渦中においては当然と思われることはしばしばあるのである。
 日本は「空気」の支配する国であり、それに対抗する手段は「水をさす」ことしかないと山本氏はいう。山本氏は、ある時期、公害問題についてはまったく理性的な科学的な議論はできなかったという。カドミウムによるとされているイタイタイ病は実際にはそうではないのだという論は根強くあるらしいが、そういう議論は一切できない時期があったらしい。イタイイタイ病患者の悲惨な病状がすべてであり、その患者さんたち救済に有効に働くものは善、それを阻害するものは悪という「空気」ができているところでは、科学的議論、理性的な議論などは一顧だにされないのである。
 今、医療ミスのために悲惨な状態になっている患者さんが目の前にいるとすれば、医療の限界・人間の能力の限界からいってそういう事態はある確率の上で避けれられない、などという議論が通用することは期待できないとわたくしは思っている。その患者さんの救済に役立つことが善、それを阻害するすることは悪なのであって、それが「空気」である。それに水をさせるものは何か? それがわたくしは「医療崩壊」なのではないかと思っている。医療がある程度、本当に崩壊しないと、現在の医療を取巻いている「空気」はなかなか変らないのではないかと思っている。
 というか、事実としては、医療は本当に崩壊をはじめているのであり、だから「空気」は少しづつ変りつつあるのではないかと感じている。それの何よりの証拠は、この「医療崩壊」が朝日新聞社から出版されているということである。こういう本の出版元になることで、自分では口にできないことを、小松氏に代弁してもらって、自社の「空気」の変化を満天下に知らしめようとしているのだろうと思う。《それを口にすれば、たとえそれが事実でも、“口にしたということが不道徳行為”と見なされる》のであるから、誰かに代弁してもらうしかないのであろう。

知の遠近法 (岩波現代文庫)

知の遠近法 (岩波現代文庫)

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)