小松秀樹「医療崩壊」(番外・その2)高橋源一郎「ニッポンの小説」その2


 続きである。
 なんだか訳がわからなくなってきたので整理する。小松氏の「医療崩壊」を読んでいろいろ感想などを書いている間に、たまたま高橋氏の「ニッポンの小説」を読んだ。「ニッポンの小説」はその題名の通り、ニッポンの小説につき論じているのであるが、《ニッポンの小説の機能は死者の代弁である》ということを言っているために、わたくしにはまるで医療論であるかのように読めた。それでこの「ニッポンの小説」を、医療という観点から読んでみようと思った。それであるなら、本書を独立して論ずればいいのであるが、医療論であるなら、医療ということの参照枠が何か必要となる。その参照枠として小松氏の論が一番手近にあるので、それを利用しようと思った。
 そこで問題がおきる。それは、小松氏の「医療崩壊」が、日本の医療批判と医療界擁護の二つの側面をもっているということである。慈恵医大青戸病院事件といった事件がおきるのは日本の医療の体質に問題があるとして医療界を批判する。しかし、たとえば大学病院の体質が問題であるのだから、事件をおこした個人の責任を問うべきではないとして、この問題へのマスコミや警察への対応を批判し、患者側をふくめた日本のほとんどすべての人々の医療行為への無理解をも批判する、そういう側面も持つ。
 わたくしは、この「医療崩壊」についていろいろと考えているうちに、小松氏が医療を擁護するために用いている論法が、そのままマスコミが医療を批判する論法としても使えてしまうのではないか、という気がし始めた。つまり小松氏の論が正しいなら、マスコミの論調もまた正しいということになってしまうのではないか、ということである。マスコミや患者さんの側には、あまりにも素朴というしかないうような「医学=科学」への過大な期待があるのだが、その過大な期待を「科学的」でないとして批判するというのが小松氏の姿勢である。患者さんからの批判は、《ろくに準備もしないで取り組んだ、まだ開発段階の手術の失敗による医療ミス》という観点からである。しかし、小松氏はそれは《輸血の遅れ》による死であるとする。それは病院のシステムの不備であり、システムを整備することによって、今後は予防しうるとする。
 どちらも「あらゆることには対策があるはずだ」とする論という点では同じなのではないか、という気が段々とし始めた。マスコミは完璧な医師像を要求する。一方、「医療崩壊」や「慈恵医大青戸病院事件」を読むと、小松氏自身が本当に腕のいい手術の上手い外科医であり、なおかつ真摯な人柄であるという、きわめて稀有な人であるように思える。時々、腕のいい外科医には人格が壊れた人がいるが、決してそういう人ではない。しかし、あらゆる医者が小松氏のような人ばかりではないだろうと思う。
 「アメリカの医療くらい金がかかるようになると、自然な反応としては、だれか――保険屋か、民間病院の院長か、製薬会社か――が私腹を肥やしているにちがいないってことになる。そして疑問の余地なく、医療業界には不当に値をつりあげていたり、システムを悪用している人間はいるよ。だってさ、医療はアメリカ経済の13%を占めてて、直接間接に最低でも1400万人を雇ってるんだもん、そりゃ最高から最低まで、ありとあらゆる種類の人間行動が出てくるわな。」 クルーグマン教授はいう。そうはいっても、「医療は巨大産業ではあるけれど、ほかの産業とはちょっとちがう。医者や看護婦は毎日のように生死に関わる決断をする。だからかれらを仕切る倫理コードは、単に利潤を最大化するよりは高級なプロ意識を要求するわけだよね。医者もしょせんは商売よ、と斜にかまえるのは簡単だけど、でもみんな、医療関係者は平均すれば、まあ中古車業者よりはましな行動をとるのが当然だと思ってる」(「クルーグマン教授の経済入門」主婦の友社 1998年)のではあるが。
 上記の文章を読んで中古車業界の人が怒らないだろうか、とは思うけれども、クルーグマンさんがいうとおりで、人間に過大な期待を抱くということ自体が間違っているのだと、わたくしも思う。
 患者さんの側も、また小松氏も、人間に過大な期待を持ちすぎているのではないだかろうか? それは人間の能力への過信であり、それが科学への過剰な期待をも生んでいるのではないだろうか? 一言でいえば、患者さんの側の論も、また小松氏の側の論も、天気晴朗な伊豆の海での論であるような気がするのである。
 出血によってあっという間に術野が血の海になり、動転してしまい、あとから考えるとどうしてそんなことをしたのかわからない行動をしてしまうというようなことが人間にはあるのではないだろうか? そういう人間は外科の医者になるな!というのは正論である。だから最近外科医のなり手がどんどんと減っているのではあるが、小松氏の本を読んでもまた、「済みません。わたくしそこまで根性ありません。外科やめます」という人がたくさん出てきそうな気がする。
 ということで(何が?)、小松氏は日本の医療界での間違いないアウトサイダーなのではあるが、それでも外から見ればインサイダーであろうということで、高橋氏の本を論じる場合の医療の参照枠として小松氏の本を使うことは正当化されると思うということへの弁明を終る。
 ようやく本論。
 「それは、文学ではありません」の章で高橋氏は、内田樹さんの「他者と死者」(海鳥社 2004年)から、次の文章を引用する。

 旧石器時代に、死者を埋葬する儀礼を持ったことによって、人類は類人猿と分岐した。「葬制を持つ」ということは、言い換えれば「死者の発揮する恐るべき力能」を知ったということである。誤解を恐れずに言えば、それが「人間になった」ということである。

 ここに医療の問題のすべてがあるよう気がする。だが「こういうことを言って、誤解されないわけはないではないか! 内田さん!」という気もする。内田氏のような言いかたをすると、どこからか神様がでてきてしまうのである。幽霊がでてくるのである。「魂」などというようなものが、どこからかふわふわと浮かびでてくるのである。三段論法によって、《「医療を持つ」ということ、それが「人間になった」ということである》なんてことになると、われわれは非常に困るのである。医療行為への途方もない買いかぶりだからである。
 さらに内田氏からの引用。

 戦後のヨーロッパの知識人は、たとえ個人的には大戦中にどれほど勇敢にファシズムと戦ったにせよ、広義での「共犯者」であることをまぬかれない。というのは、その「抑圧的体制」は、ドイツでもイタリアでも、フランスでも、ヨーロッパの最深部から這い出してきたものだからである。ヨーロッパの知識人は、かりに個人的には潔癖であったとしても、この抑圧的な制度とそのイデオロギーに対して異議申し立てを試みるときに、「ヨーロッパの風土に根を持つ」倫理や形而上学や神学の語法を使うことを自制しなければならない。「何か間違ったもの」(something wrong)が「文明の基盤」に潜んでいたからである。

 そしてさらに、これをうけて高橋氏は、こういうとんでもないことを言い出すのである。

 わたしの考えでは、この「何か間違ったもの」(something wrong)は「ヨーロッパの基盤」にだけではなく、人間というものが言葉を持つようになって以来、宿命のように、存在しています。

 高橋さんはそういうけれども、わたくしから見れば、something wrong とはキリスト教的な何かであり、それがもたらした原罪意識というだけのことではないかと思うのだが、違うであろうか。しかし、どうも内田氏は、そして高橋氏は、科学をもたらした何かというものをそこに置いているように読めるのである。自分があり外界がある。自分がいて他人がいる。そういう二元論的な思考、それが something wrong であるとしているような気がする。言葉というものが自分と外界を区別する。それが二元論を導く。その二元論を濃縮したものが科学の世界である。だから、二元論的見方は言葉を持つ人間が背負わされている原罪であると同時に、ひろくわれわれの世界を覆っている科学的な見方にそれが濃縮されてでてくる、というよう論理である。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きていたら
どんなによかったか (田村隆一「帰途」部分 田村隆一詩集 思潮社 1968年)

鳥の目は邪悪そのもの
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は破壊するが建設しない
彼は再創造するが創造しない
彼は断片 断片の中の断片
彼には気嚢はあるが空虚な心はない
彼の目と舌は邪悪そのものだが彼は邪悪ではない
燃えろ 鳥
燃えろ鳥 あらゆる鳥
燃えろ鳥 鳥 小動物 あらゆる小動物
燃えろ 死と生殖
燃えろ 死と生殖の道
燃えろ (田村隆一「言葉のない世界」10 同上)

 高橋氏がいうのは、国木田独歩が完成させた言文一致体という(一見?)中立的な散文が諸悪の根源である。というものである。(その散文が示すものは)「「透明で叡智的な『主体』、どのような歴史的出来事によっても汚されることのない、冷ややかで中立的な観想的知」そのものです。それは「ニッポンの小説」の主人公でもあったのです」ということになる。こういう批判を読んでいると、科学的説明という(一見?)客観的な説明こそが諸悪の根源であるという、一時流行したニュー・エイジ・サイエンスの言説を思い出す。「冷ややかで中立的な」な科学!。
 高橋氏は、ニッポンの小説は「『私』の『外部』にある何らかの実体に『悪』を凝集させ、それと『戦う』主体として『私』を立ち上げるという物語」ばかりなのだという。悪いのは私ではありません、悪と戦う私は無垢なのです、という論理である。そこにあるのは、「『私』が『私』として存在することを自然で自明な出発点とする根源的な『無反省性』」なのだという。その《我戦う故に我あり》という『無反省性』を許さないものとして立ちあらわれてきたのが、第二次大戦での死者であったのだという。
 ここの内田=高橋の論理は腑に落ちるとは必ずしもいえないものなのだが、悪はナチスドイツだ!、という論理は許されないということであり、ナチスドイツを生んだのはわれわれである、ということである。われわれの中にある何か something wrong がそれを生んだのであるという論理である。その辺りの論理は、中井英夫氏の「虚無への供物」ともつながるように思う。
 高橋氏は内田氏の論を援用して、カミュの「異邦人」はその「死者をして死なしめる」ことを主題としているという主張をする。。それは《「死を世俗の用語法で語ることを拒絶し、死の無意味性を、その無意味性を毀損することなく維持しようとする》主人公を描いたのだという。主人公は《死を「公共的な出来事」にすること、それが「公式的な様子」をまとうことを拒否する》のだという。「主人公にとって、母の死を正しく弔うことは、そこからすべての存在論的な意味を剥ぎ取り、死の純粋な無意味性を毀損することなく保持することにあった」のだという。
 もしも、『旧石器時代に、死者を埋葬する儀礼を持ったことによって、人類は類人猿と分岐した』のであり、『「葬制を持つ」ということは、言い換えれば「死者の発揮する恐るべき力能」を知ったということである』のであり、『誤解を恐れずに言えば、それが「人間になった」ということである』のだとしたら、《死は無意味ではない》のはないだろうか? それとも死は無意味であるのだが、死者は意味をもつのだろうか?
 「死の無意味性」というのは「神は死んだ」の一つのヴァリエーションであるとしか、わたくしには思えない。死者を弔うとは、ほとんど「宗教の誕生」そのものであるように思う。ムルソーの母の死に対する態度は「神様なんかいないよ」ということであり、それを告発する側の論理は、そんなことを言ったらわれわれの道徳の基盤ががたがたになってしまうぞということなのではないだろうか?
 随分ともってまわった言葉が用いられているが、「死の無意味性」とは、われわれに道徳をあたえた創造主などというものはいない、ということであり、そうだとしたら、それでも「死者」がわれわれを拘束するのは何故か、つまり何らかの宗教的感情とでもいうべきものをわれわれが持つのは何故かという問いなのである。
 「死者」がわれわれを拘束するのであれば、それはその「死者」が生きている時に、生きていることに意味を求めたからなのではないだおうか? もちろん、《「死は無意味」であるのだから、死者はわれわれを拘束しない》という立場もあり、《死者がわれわれを拘束する以上は「死は無意味」ではありえない、》という立場も、ともにあるうるわけであるが。
 「死の無意味性」ということを考えていると、頭に浮かんでくるのが、阿川弘之氏の「暗い波濤」の一節である。随分前に読んだこの阿川氏の小説で、この一節だけが奇妙に記憶に残っている。実は今回読み返してみて、細部については随分と記憶違いをしていたことが解ったが。

 ブレーキを離すと、一式陸攻は爆音を轟かせ、短い滑走路を北に向けて猛烈な勢ひで走り出した。滑走路の北端すれすれで、機体は辛うじて宙に浮かんだ。
 それまで緊張で口をきかなかつた搭乗員たちの間から、期せずして、
「やつたやつた、やつた」
「上つた」
 と、歓声がわいた。
 下島主操は得意げに、ちよつと右手を挙げて見せた。
 主脚の車輪が、クルクル廻つてゐるのが見えた。
「脚上げェ」
左旋回しまァす」
 山をかはして、大きく翼を傾け、機は洋上に向けて旋回を始めた。
「やれやれ」と栗原は思つた。「任務を果せず残念だつたが、どうやらこれで、今夜は洋子といつしよに飯が食へさうだ。もし三航艦で足どめを食つたら、洋子を木更津へ呼び寄せてやらう」
 其の時、誰かの「ああッ」といふ声が聞えた。
 飛行機は旋回態勢のまま突然失速状態に入つてゐた。山を避けようとして、速度計を確認せずに操縦桿を強く引いたらしかつた。
 メインとサブが懸命にスティックを押へてコントロールを取戻さうとしたが、舵は軽く、もう手応えが無かつた。陸攻は其のまま沈みこみ、翼の線に沿うて斜めに流れるかたちになつた。
 基地の隊員たちは、栗原機が島の波打際に突つこんで砂浜に激突するのを見た。右舷のエンヂンが吹き飛んだ。
 火が出、陸攻はたちまちガソリンの赤い焔に包まれてしまつた。
 救援隊が駆けつけた時には、もはや手の施しやうが無かつた。飛行機は黒煙を天空高く上げながら燃えつづけた。
 約二時間後、火勢がをさまるのを待つて、救難隊員が焼き尽された残骸の中から、ほとんど識別困難な、折り重なつた炭の棒のやうなものを八つ運び出して来た。
 焦げた半長靴の一つに、「栗原中尉」といふ文字がかすかに読み取れた。栗原の遺体は黒い唇が分厚く、顔もまつ黒で、炭化した手足を硬直させ、身体全体ではげしい苦悶と無念を訴へてゐるやうに見えた。(「暗い波濤」新潮社 1974年)

 主人公の一人、栗原中尉は数々の戦闘を強運に生き延びてきて、そして、ようやく内地に帰ろうとして、このあっけない死をむかえる。この小説で、ここの部分だけを異様によく覚えていたのは、その不条理さの故であったろうが、もっと根源的には小説という形式において、作者が死んだと書くと登場人物が死んでしまうというということのやりきれなさみたいなものを感じたためではないかと思う。なんだか読者は作者に引きずり廻されて、いいように翻弄されているだけなのではないかというような、後味の悪い感じがしたことをよく覚えている。リアリズムという形式で書かれた小説への不信感というようなものが、それ以来ずっとあって、小説というものには、「これは作り物なのですよ。本当のことではないのですよ」という作者の姿勢があることが、読者への礼儀として必要なのではないかということをずっと考えてきている。
 それはここではいいとして、この「暗い波濤」が日本海軍への碑として書かれたであろうことは間違いない。吉田満氏は「われわれネーヴィー仲間の間では、圧倒的な人気をもって読まれている」と書いている。「奇妙なことだが、戦争経験者にとって、戦争そのものを描いた文学作品は、逆に安心して読めないような違和感がある。自分の体験とくいちがう描写が、いつ飛びだしてくるのではないかという不安に絶えずつきまとわれる。はげしい戦争行為と戦場での死が、なにか特別に劇的な事件であったり、逆に自分の不運を呪い悲運を訴えかけるだけの対象であったりすると、それが詳細な描写であればるほど、偽者の匂いを嗅ぎあてたような気持になる。実のところ戦争行動は、日常茶飯事そのままにまことに無造作なさりげない偶然の連続であり、戦争の死には予感も予告もない。そのような意味で、「暗い波濤」は、誇張や歪曲に妨げられずに、戦争体験者が安心して読み通すことのできる数少ない戦争記録なのである。」(「戦中派はなにを為しえたか 阿川弘之「暗い波濤」をめぐって」 「吉田満著作集 下巻 文藝春秋社 1986年 所収)
 戦争における死は劇的なものでは決してなく、日常茶飯の偶発的なものなのである。無意味なものを、その無意味なままで淡々と描きつくすこと、それが阿川氏のめざしたのであるのかもしれない。そのように描くことが碑を作ることなのであると、氏は信じたのであろう。
 高橋氏は、死を死者を道具的に利用するような「権力の語法」を用いないことを目指すことが肝要なのだという。「権力の語法」とは、言葉を何かを支配しようために用いるやりかたであり、さらに言えば、言葉というものには、本来それを使うものに何かを支配しようと無意識に思わせてしまう魔力があるのだという。
 死というのは生物である人間におきる日常茶飯の出来事である。しかし、動物の中で言葉を持つのは人間だけである。あるいは、物語を持つのは人間だけである。言葉というのはそれを使うものに、自分を特別な存在であると思わせる力を持つ。だから、「劇的」ということが問題になる。

 私たちが真の求めてゐるものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起つてゐるといふことだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさなければならぬことをしてゐるというふ実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してゐない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する―ほしいのは、さういふ実感だ。(福田恆存「人間・この劇的なるもの」 福田恆存評論集 2 新潮社 1966年)

 格好いい文章である。二十歳過ぎにこれを読んでしびれた。

 二つの錯覚がある。人生は自分の意思ではどうにもならぬといふ諦めと、人生を自分の意思によつてどうにもで切り盛りできるといふ楽観と。老年の自己欺瞞と青年の自己欺瞞と、あるひは失敗者の自己欺瞞と成功者の自己欺瞞と。ただそれだけの差でしかない。それが自己欺瞞である以上、私たちはそれによって、いづれのばあひにせよ、いちおう、さゝやかな幸福を身につけることができる。だからこそ、自己欺瞞なのである。(同)

 惚れ惚れするようなレトリックである。しかし、実は福田氏がここで論敵として想定しているのはプロテスタンティズムなのではないかということを段々と感じるようになった。そしてインテリの世界にはプロテスタンティズムが深く浸透していたので、福田氏の刀は滅法よく切れたのである。プロテスタンティズムと対立するものとしてカトリックの論理が密かに裏から知らない内に導入されてくる。だが、プロテスタンティズムが間違っていたらカソリックが正しいことになる、というのは一見、論理的であるがいうまでもなく無茶な論理である。
 神が密輸入されてはならないのである。「神がいないとわれわれは不幸である」だから「神はいるはずだ」というのは、あまりにも論外な言い方であるが、実に広くわれわれの世界に行き渡っている思考法となっている。肉体のことは医療に、魂のことは宗教へ。だから、医療への過剰な期待が生まれるし、魂をあつかえない医療への軽蔑も生じる。可哀そうなのが精神医学で、それは脳という肉体の一部の病気を扱う通常の医療の一部でもあり、また通常医療を超えた魂の変調でもあるのだ、という訳のわからない位置づけを強いられて、迷路に入りこんでしまっている。
 「人が死んでいくことは、当たり前のことで、そう悪いことではない」と小松氏はいう。「人が死んでいくことは、当たり前のこと」というのはまったく問題がない。人間もまた生物である、というだけのことである。しかし「そう悪いことではない」というのは前段からはまったく論理的には導入されえない文章である。「人が死んでいくことは、当たり前のことではあるが、人間はそれを当たり前とは決してうけとることのできない生物なのである」という文章だって、成立するであろう。というか、おそらく医療という行為が人間に存在しているのは、後者の文が人間に説得的であるからなのではないだろうか?
 「人が死んでいくことは、当たり前のことで、そう悪いことではない」というのであれば、おそらく医療は必要とされないであろうと思う。もちろん、医療がなければならないということはない。医療のために世界があるのではなく、世界のために医療がある、のであるから。少なくとも誰かが医療を必要としているというところから医療ははじまる。
 平均寿命の延びというのは多くの人からはいいこととされているようである。医者の中にはそう思わない人も多いかもしれないが、そうかといって医者が患者さんに、「あんた、まだ生きたいの? 一体、何歳まで生きれば気が済むの?」なんてことを言ってはいけないのである。小松氏の文章を読むと、なんだかそう言っているようにも聞こえてしまうのは、わたくしの根性がひねくれているからであろうか?
 ながながと書いているうちになにがいいたいのか自分でもわからなくなってきた。「ニッポンの小説」にはまだ「ちからが足りなくて」と「エピローグ」が残っているが、これはあまり医療とは関係ない気がするので、それは割愛して、「ニッポンの小説」はの寄り道はこれで終ることとして、小松氏の本の次の章である「立ち去り型サボタージュ」に戻っていくこととしたい。