宮台真司 北田暁大 「限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学」

 双風舎 2005年10月


 宮台氏の名前は、氏が「制服少女たちの選択」でブルセラとか援助交際とかを論じていることから知っていたが、奇をてらった偽悪系の人なのであろうと思っていた。そして最近では天皇とかアジアとかに右旋回しているというので叩かれているようなこともきいていた。宮台氏の著書はまだ読んだことはなかったが、宮崎哲弥氏との対談本「M2 われらの時代に」(朝日文庫 2004年6月)だけは読んでいた。なんだか仲良しクラブ的な和気藹々たる対談で、緊張感のない本という印象だけが残っていた。本書はそれにくらべればずっと緊張した対談である。東浩紀氏の本を読んだことが、本書を手にとってみようと思った動機である。
 そこでの、宮台氏の発言。

 当時は知識がないから、「なぜ、自分は共産党やそのフロントの民青が大嫌いで、新左翼が好きか」を、やはり十五歳から三五歳ぐらいまでよく考えていました。ぼんやり思ったのは、「いい社会になれば、人びとは幸せになる、だからいい社会をつくろう」というビジョンには反吐がでる、ということなんですね。敏感な方はこれでピンとくるはずです。

 本当にそうで、とすればわたくしは敏感ということになるのかもしれないが、とにかく「共産党は“浅い”ぜ! 人間はもっと“深い”ものだぜ!」というようなことであったように思う。そして、その後だんだんと、“深い”方向への探求というものも何か怪しげだぞ、と思うようになってきている、というのがわたくしの現在までの生き方の大きなくくりであるように思う。それともう一つ、医療というのは、「いい社会になれば、人びとは幸せになる、だからいい社会をつくろう」という発想とどこかで通じているようにも思っていて(《命と暮らしを守る》というような共産党のスローガンを聞くと、よく恥かしくもなく、そんなことを言える、それなら命をとるぞ、と脅かされたら、なんら恥じることなく、自説を撤回するのか、とか悪態をつきたくなってしまう)、そうだとすれば、医療が男子一生の仕事に値するのであろうか?などと思っているうちに、うかうかとこの歳になってしまったということもあるように思う。
 宮台氏は、「超越系」と「内在系」ということをいう。《「ここではないどこか」を志向せざるを得ない者が「超越系」、志向しなくてもすむ者が「内在系」なのだそうだが、その昔、わたくしもまた、新左翼を「超越系」、民青を「内在系」なのだと思ったのである。しかし、「「内在系」とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮せれば、幸せになれる者のこと、(中略)「超越系」とは、仕事が認められ、糧に困らず。家族仲よく暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのか煩悶する者のこと」というのはあんまりな定義ではないだろうか?
 宮台氏は別に「超越系」を肯定するわけではなくて、彼らの持つ「全体性への問い」(宮台氏のいう「子宮回帰願望」)は危険なアブナイものなのであり、それを無害な場所に着地させることが大事としているようである。
 別のところで、宮台氏は《「独仏系のアイロニズム」と「欧米系のユーモア」の違い》ということを言っている。《前者はオブセッションの匂いがするが、後者は耽溺を嫌う》という。《英米系の意味論からすれば、全体性への配慮を断念できないのが未熟さのあらわれ》だが、《独仏系の意味論から見ると、人権や主体や個人性をベタに信じること自体が未熟さのあわられ》ということなのだが、欧米系は《人権や主体や個人性をベタに信じ》ているだろうか? 少なくとも《欧》においては、人権や主体や個人性などはすべてて仮託されたものとしてあるに過ぎないのではないだろうか? それをベタに信じるているように見える《米》が、異常なのではないだろうか?
 どうも、宮台氏は、人間の大部分は「内在系」か、頭の悪い「超越系」であって、それらを善導するのが頭のいい「超越系」の使命であると思っているようなのである。それでバカを相手にしてもしょうがないから、体制のトップを変えることが肝要であるということで、自説を一生懸命に民主党の議員あたりに売り込んでいるらしい。なんだか誇大妄想に取りつかれているようにも思うけれども、とにかくまだ知識人が世界を動かせると思っているようなのである。
 ポパーの「寛容と知的責任」(「よりよき世界を求めて」 未来社 1995年)に、

 なぜわたくしは、われわれ知識人は助けることができる、と考えるのでしょうか。
 単純です。われわれ知識人は何千年来となく身の毛のよだつような害悪をなしてきたからです。理念、説教、理論の名のもとでの大虐殺―これがわれわれの仕事、われわれの発明、つまり知識人の発明でした。人々が相互に迫害しあう―しばしば最良の意図をもってなされているわけですが―ことがやむならば、それだけでも確かに多くのことが獲得されるでしょう。

 とある。宮台氏の説もまた、理念と説教にささやかな追加をしているだけのように思える。
 わたくしのことをふりかえって見ると、独仏系の「超越系」から、英国系の何かへと動いてきているように思う。それで英国系の何かとは、ここで「超越系」と対立させられている「内在系」とは異なるものであると思う。うまく言えないけれど「飛躍しない人間像」とでもいうのだろうか? 「命がけの跳躍」とかいうのと対立するような何かである。とにかく宮台氏のいうことをきいていると自分以外はみんなバカである。そんなバカばかりの中で生きていて何が面白いのだろうと思うが、だからこそ「天皇」や「アジア」がでてくるのかもしれない。《「つまらないから、おもしろく生きよう」 おもしろく生きるためには、全体性へと―〈世界〉の根源的未決定性へと―開かれている必要がある》ということなのだそうであるが、最初の《つまらないから》がおかしいのではないだろうか? 生きることを《つまらない》とか《おもしろい》という次元で考えるのがすでに違っているように思う。《つまらない》でも《おもしろい》でもない、ただ生きているということがまずあり、それが充実しているかどうかということである。《つまらない》とか《おもしろい》とか考えるのは、充実していないからなのではないかと思う。あるいは《つまらない》とか《おもしろい》とか考えるのは、頭であり、充実していると感じるのは体なのかもしれない。宮台氏は頭の人なのであり、抜きん出た頭の人である氏は、他のみんながバカに見えるのだと思うが、氏がバカにしている人の中に、氏よりもずっと充実している《体の人》がたくさんいるのではないかという気もする。

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

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