J・コンラッド「闇の奥」
岩波文庫 1958年
この本は少し前に買ってあったのだが、読まずにおいてあった。読んでみようと思ったのは、最近、西洋近代とはとか、反近代とはいう本を読んでいて、その中でT・S・エリオットが反近代思想の首魁の一人であるらしいことを改めて認識して、そのエリオットの詩「うつろな人々」の頭に「闇の奥」の「クルツさん、死んだよ」(Mistah Kurtz - he dead )が掲げられているのを思い出したためかもしれない。この詩の頭にこの引用がされているのも意味深長で、小説の主人公であるクルツもまた「うつろな人」であるということなのだろうか? それとも少しは「うつろを脱した人」なのだろうか? この小説でクルツはほかの西洋人とは何か違った存在として描写されているのだが。「うつろ」を脱しようとして「うつろ」のままで死んだ人間?
この小説は多様な解釈を許す小説であって、19世紀末のアフリカという未開の地においてある西洋人が「神」としてふるまうという話からは、どのような教訓をも引き出すことが可能であろう。これがコッポラの「地獄の黙示録」として映画化されたことはよく知られているが、未開(=闇)というものへの西洋の人間の両価的な感情がこの小説をつねに気になるものとさせ続けるのであろう。「闇の奥」ではパリは「墓場のような都会」である。その都会で成功できなかった人間がアフリカに来る。そこでは「神」としてふるまえる。アレントは「全体主義の起源2」において、あるアフリカへの植民者が、「自分は賎民の一人とみなされることにうんざりして、支配民族の一員になろうとしたのだ」といっているのを紹介している。この小説で原住民は小銃には驚かないのに、蒸気船の汽笛の音に驚いて逃げてしまう。
文化人類学から見れば、そのような原住民の生活にも「野生の思考」があり、きわめて複雑な体系のもとに生きているのであろう。しかし、そこには都市は生じなかった。文明とは都市の産物であるのだとすると、そこには文明はなかったことになる。そしてあらゆる腐敗もまた文明に必然的にともなう。そしてその腐敗を嫌悪して未開を憧憬する思想も都市から生まれてくる。
唐突であるが、鹿島茂氏は「情念戦争」(集英社インターナショナル 2003年)で、ルイ14世の死後、15世の成人まで摂政となったオルレアン公の快楽政治?を紹介している。鹿島氏はこういう話になるととても熱が入る。
オルレアン公は、自分だけが官能の歓びを独占するのではなく、だれもが官能の歓びを追及するべきであると考えた。オルレアン公によってヴェルサイユからパリのパレ・ロワイヤルに移された宮廷では、今日でいうところの乱交パーティーが開かれ、これに出席を拒んだり、妻や愛人の同伴を拒否した者は出世をあきらめなければならなかった。(中略)
夕食会が終わると、つぎはいよいよ、お待ちかねの狂宴である。オルレアン公が「各人、奮闘努力せよ」といった内容の合図を送ると同時に、全裸の男女が入り乱れてのくんずほぐれつが始まる。もちろん、乱交パーティーといっても、十八世紀のそれは優雅さをけっして失わなかったから、楽隊や給仕が控えていて、音楽を奏で、シャンパンをグラスに注いで回った。高貴な人間にとって、目下の者は犬と同じだったから、羞恥心はまったくなかったのである。
吉田健一は十八世紀の優雅と十九世紀の野蛮ということをいうが、十八世紀の優雅といってもこういうこともあるわけである。この狂宴から優雅を抜ければ、そこには腐臭が残るだけなのかもしれない。都市は「本気にすることができない都会 Unreal City 」(T・S・エリオット「荒地」 吉田健一)となってしまう。墓場のような都会である。
わたくしが小さい時には偉人伝の絵本があってリヴィングストンとかスタンリーとかが英雄的に描かれていた。なにしろ「暗黒大陸の探検者」である。今なら植民地主義の手先ということでとてもこんな英雄あつかいはできないであろう。クルツもまた象牙商人である。
クルツが死ぬときの言葉は「地獄だ! 地獄だ!」(中野好夫訳)となっているが、原文は Horror! Horror! のようである。「地獄の黙示録」ではどうなっていたであろうか?
ヨーロッパ近代はさまざまな悪をなしたわけで、「闇の奥」はそれを告発したものであるという側面もあるのであろうし、それにもかかわらずヨーロッパ人のエスノセントリズムを露呈した本ということになるのであろう。最近そのような点を論じた「「闇の奥」の奥」という本がでているらしい。
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