上野千鶴子 三浦展「消費社会から格差社会へ 中流団塊と下流ジュニアの未来」

  河出書房新社 2007年4月
  
 本書を読んでみる気になったのは、赤木智弘氏の「若者を見殺しにする国」を読んで今ひとつすっきりしない点が残ったためである。赤木氏の議論では、絶対的な貧困と相対的な貧困が充分に区別されていないように思えた。絶対的な貧困とは「飢えて生きていけない」ということであり、相対的な貧困とは「尊厳がなくみじめである」ということである。
 赤木氏は「いまでこそフリーターは、私のように親元で生活できている人も多く、生死の問題とまで考えられていないのですが、親が働けなくなったり死んだりすれば、確実に生死の問題となります。それまでの生活水準を維持できないのは当然として、フリーターの給料では自分ひとりですら生きていけるかが怪しく、ホームレスになるか自殺するかの二者択一になる可能性が高いのです。すくなくとも家が資産家でもなんでもない私は、その二択を迫られるでしょう。/ ちなみに私は、どうせホームレスを続けていたって、そこから社会復帰などできる可能性はまったくないのだから、二択を迫られる状況になったら死んでしまおうと考えています」という。ここで氏がいっている社会復帰とは社会から何とか受容されること、最低限の尊厳をもって生きられることであるように思う。とすれば、氏は尊厳のない生よりは死を選ぶといっているように思えるのだが、親が死んだら死ぬしかないというような書きかたをしばしばするので、絶対的貧困がそこに生じるといっているようにも読めてしまう。
 それが問題になるのは、社会保障という制度で可能なのは「絶対的貧困」をなくすことまであり、飢えて生きていけなくなるひとをなくすることではできても、あらゆるひとに尊厳ある生を保障することは、どのように制度を整えても実現が困難な無理難題かもしれないからである。赤木氏が「希望は、戦争!」というのは、そういう「尊厳ある」社会を作り上げることの困難を身をもって実感していて、可能なのは破壊だけと思っているからかもしれない。
 「希望は、戦争」論が話題になったときに鶴見俊輔氏に上野千鶴子氏が「それはわれわれの責任です」といったことが「若者を見殺しにする国」で紹介されている。どのような文脈で語られたのかはわからないが、上野氏は以前からオタク問題で「コミュニケーションスキルを磨け」ということを主張しているひとなので、コミュニケーション能力の低下がフリーター問題の根源にあるとしているのかな?というようなことを感じた。それでサブタイトルから見て、いかにも赤木氏と同じ問題を論じているようにように見える本書を読んでみることにした。
 対談である。上野氏の相手の三浦氏は以前「下流社会」(2005年)という本がベストセラーになったひとである(わたしは読んでいなかったが、このたび買ってきてみた。まだよく読んでいないが、図表がやたらと多い本である。一見、社会学論文風なのだが、自分で「この本で紹介したアンケート調査はサンプル数が少なく、統計学的有意性は乏しい」などと自認しているのだから、まじめに議論していいのか迷う不思議な本である。数字で煙に巻いた単なるエッセイかもしれない。なお「下流社会 第2章」(2007年9月)は、20歳代のニートだけでもサンプル数572人ということで、n=3などという信じられないようなサンプル数のデータも掲げられている「下流社会」にくらべれば、ある程度は信頼性のあるものかもしれない。この上野氏との対談で三浦氏が言っていることは、この「下流社会 第2章」で示されているデータによるもののようである)。
 上野氏は1948年生まれだからわたくしと同じ団塊の世代、三浦氏は1958年生まれで、ちょうど10歳下、バブル時代に社会に出た人である。パルコにつとめマーケティングの仕事をしたあと三菱総研に転職、いまは「カルチャースタディーズ研究所」を主宰とある。ちなみに上野氏は1987年ごろ、セゾングループ25年史の社史の仕事をしていたのだそうである(「女の使い方があんなにうまい企業は、当時なかったですからね」)。セゾン・パルコというバブル時代の消費ブームの象徴あるいは牽引役のように思えた企業に、二人とも関係していたわけである。
 赤木氏を目覚めさせた本だという「若者殺しの時代」で堀井憲一郎氏は、1983年の「anan」でのクリスマス特集が「若者からの搾取のはじまり」とするのであるが、対談に付されている、「裸を見るな。裸になれ。」(パルコ 1975年)、「モデルだって顔だけじゃダメなんだ」(同)、「じぶん、新発見。」(西武百貨店 1980年)などのポスターを見ると、消費時代というのはもうすでにその前からはじまっていたのだなと痛感する。これらのポスターをみると、この頃はなんとおしゃれな時代だったのだろうと思う。ちなみに「じぶん、新発見」は糸井重里のコピーらしい。そして1981年「不思議、大好き。」、1982〜83年「おいしい生活」もまた糸井氏のものである。現在、糸井氏が「ほぼ日」などというものをやっているのは、そのときのバブル参加への贖罪なのではないかと思う。
 本書は赤木氏の「希望は、戦争」論文のあとに発行されているが、「下流」といういい方をされている人たちが絶対的な貧困にあるという認識はまったく示されていない。問題にされているのは、他人に置いていかれる不安、自分だけが転落する不安である。
 三浦氏は、自分たちが《「テキトーにアルバイトして、クレジットカードでバンバン買い物すれば、楽しく暮せちゃうよ」って人を増やしましたよね。そういう若者をねらって、それこそ私も含めた企業が食い物にしてきた部分はあると思います。だから若い人たちにしてみれば、まさに時流に乗って「子どもの頃から消費者になってきただけで、今さら働けと言われても、よくわからん」みたいな状態になっている気もします》という。《若い人は正社員なんかになりたいと思っていませんから》というのが三浦氏の認識である。「中高年が既得権益をむさぼっているから、自分たちには就職先がない」と若者が思っているのはみとめるのだが、正社員志向があるのは非正規雇用の半分以下だろうという。なぜなら、正社員だって残業・過労死と背中あわせだからである。もっとも赤木氏は、「過労死は無念だろうけれども」、夫の遺影の前で泣いている奥さんがいるだけ増しではないか。(過労死した)かれは「結婚しているし、こうやって見取ってくれる人もいるんだから、それにくらべて私たちは結婚なんかできないし、見取ってくれる人もいないし・・・」という。
 上野氏は90年代の教育行政ででてきた「個性化」は格差を正当化するイデオロギーで、「格差」を「多様化」といいくるめて、「まんまでオッケー!」というメッセージを自覚的に送り出していたのだという。「自己決定・自己責任」で分相応に生きろ、として階層社会に不満をもたないような人間を育てようとしたのだ、と。日本は移民を受け入れる国ではないから、ワーキンング・プアはアメリカの不法移民の代用として存在するようになっている、という。
 セゾン・パルコ的な消費文化に対する上野氏のスタンスは微妙である。それは女性の経済力と社会的地位の向上の反映なので“ウエルカム”である、という。しかし選択肢の多様化という形で「自己決定・自己責任」イデオロギーが女性にも浸透していったのではないかという懸念も表明する。ここで上野氏はパルコよりも雑誌「Hanako」のほうを問題にする。日本の女の自己実現が生産ではなく消費の場にむかってしまったということである。ヨーロッパでもアメリカでも、消費による自己実現などという話は通じない、と。パワーは生産にしかやどらないというのが、西欧の常識であるという。現代の宗教は消費であると上野氏はいう。
 上野氏はワーキングプアは社会的公正に反するという。階層社会であれば貧乏人もそれを不満に思わない。そういうワーキングプアが「平和に滅びていってくれれば」というが上野氏のシナリオなのであるが・・・。
 三浦氏のいう少子化対策は「女性の社会進出を遅らせてでも男性の正社員を増やして給料を上げる」というものである。すでにこれはノーベル経済学賞のベッカーがいっていることらしい。上野氏は男性にそこまで給料をだす余裕が企業にはないから、そうはうまくいかないというのであるが。
 上野氏は、現在では単なるコミュニケーション能力だけでなく、「やる気」や「意欲」といった人格的ハイパー・コミュニケーション力が要求されるという。
 上野氏は信田さよ子氏との対談で、「仕事というのは生計の方便」であるといい、「見すぎ世すぎ」と「好きなこと」が一致するはずだという村上龍13歳のハローワーク的方向を幻想として切りすてているらしい。「あんたのやったことに他人がなんでゼニ出してくれると思う? その人の役に立つことをやったから、他人の財布からカネ出してもらえるんでしょ? だったら少しは人の役に立つスキルを身につけろよ。マッサージでも、語学力でも、人の役に立つからゼニもらえるんだ。自分が好きなことしてゼニもらえるとと思うな。自分が好きなことは持ち出しでやるんだ、バカヤロ」と、いっているのだそうである。なんだか、怖い(笑)。上野氏はそんなスキルはその気になれば誰でも身につけられると思っている。スキルは正社員のOJTでしか身につかないとしている赤木氏とは対照的である。
 上野氏は「不当な差別や行き過ぎた格差さえなければ、多様化・個別化は賛成」であるという。「ボトムにいる人々の生活が成り立つ水準で」、と。
 現在、格差が問題にされるようになったのは、それが男の問題になったからで、男女格差が歴然とあった時代でも男性間の格差がそれほどではなかった時代には、それはあまり問題にもされなかった、と上野氏はいう。
 団塊の世代は親の生きかたから何も受けつがなかった。だから自分の子どもにも何も伝えるべきものをもたない。「自分たちも同じように自由な生き方をしてきたし」、という。上野氏は団塊の世代は子育てに失敗したという。私的領域が公的領域を侵食していったために、子どもに公共的な価値を教えることができなかった。「のびのび育てる」とかいってきたつけがまわってきたのだ、と。
 三浦氏は、本当に人と違いたいと思うなら、孤独に耐えられなければならないのは当然という。上野氏は最近の若い子たちは、ノイズの発生をすごくいやがるという。だから異文化体験ができないし、男は女というノイズからも逃げる。なにしろ、女は男が期待するジェンダー役割を期待通りに演じることはしなくなっているから。そうであるなら最大のノイズである子育てはいうまでもない、と。グローバリゼーションの中では、予想できないノイズにどう対応できるかというスキルの有無が問われる。
 上野氏は、女は35歳までは「出会った男次第で、私はどうなるかわからない」と思い続けているのだという。35歳を過ぎるころ、はじめて自分のライフプランを決めなければならないことに気づき、自分に何の蓄積もなかったことに気がつくのだ、と。また親はパラサイトをしている娘を本気で追い出す気がない。なぜなら自分の将来の介護を娘に期待しているから、と。
 上野氏は団塊ジュニアは「前倒しの年金生活者」だという。親のフトコロという年金による年金生活者なのだ、と。
 上野氏は、階層というのは男の属性であって、女の属性ではないうという。女の階層帰属は男に所属することによって、二次的にあたえられることになっている(理論的には)という。
 上野氏によれば、最近の学生は、他人から否定的に評価されることに異常な恐怖心をもち、本当に打たれ弱く、ストレス耐性が著しく低くなっているのだという。それで就職活動がトリッガーになって、病気が表面化するケースが多い、と。面接に失敗すると自分の全人格が否定されたように思ってしまう。そういう学生はコミュニケーションスキルが低く、上野氏が面接官でも落とすだろうというのだが。
 日本の消費社会の誇るべき達成はコンビニとファミレスで、コミュニケーションスキルがないひとでも生きられるインフラを作ったのは凄い、と上野氏はいう。東大生と10年近くつきあったが、はっきり感じる変化は学生の幼児化であると。生理年齢の七掛けが社会年齢だと(三浦氏は六掛けではないですかというが)。
 最後の方の上野氏の言葉、「残念ながら共産主義は、もう未来永劫きませんよ。共産主義はポスト資本主義ではなかった。統制と計画に対する市場原理の優位は証明されてしまいましたからね。」
 
 本書の二人とも最近の若いひとに冷たいなと思う。何の同情もない感じである。
 特に上野氏はつくづくと弱いひとが嫌いなのだと思う。うじうじしている人間はいやでいやで仕方がない様子である。しかし、そういう若者を作ったのは団塊の世代の親たちでもある。結婚せず、子どもも作らなかった上野氏には、何の責任もないことになる。もういいたい放題である。
 上野氏がいっているように「個性化」というのは、せまりくる格差社会を隠蔽するために国家プロジェクトとして導入された標語なのだろうか? わたくしにはお役人がそんな先見の明があるとは思えない。古くは学校群制度から最近での医療制度まで、全然別のことを意図して、結果としてまったく予想外のことがおきてしまったということなのではないだろうか? 教育関係の人たちは本気で、どうやれば「生きる力」を教育によって与えられるかいうことを考えていたのだと思う。しかし出てきたのが「やる気」がなく「意欲」がなく、ノイズに弱く、打たれ弱く、自己の評価にとても過敏な若者たちなのである。それを上野氏は自民党経団連の思惑が過剰に達成されてしまったのだと苦々しく指摘するのであるが、若者というのはいつだって、ノイズに弱く、打たれ弱く、自己の評価にとても過敏なのではないだろうか? そういう人たちでさえサラリーマンとして何とか生きられてしまったのが高度成長からバブルにかけての時代だったのだと思う。だから親たちは、こんな自分でもなんとかなったのだから、子どももまた何とかなるさと思ったのである。 上野氏は、女は35歳までは「出会った男次第で、私はどうなるかわからない」と思い続けているのだというが、団塊の世代の男は、どんな男でも永久就職することができ、その会社次第で、自分でもしらないうちに最低限の仕事のスキルは獲得できたので、「自分のライフプランを決める」などということを一切しないで人生を過ごすことが可能だったのである。
 そしてバブルのころ、日本に夢の共産社会が出現したと錯覚したひとがたくさんでたのだと思う。「もはやあくせくと働かなくてもいい時代がきた、自分がしたいことをして生きていいのだ」というメッセージがいろいろなところから発信された。文部省からも、パルコ・セゾンからも、そして浅田彰氏からも。「逃走論」などというのは、まさにそういうことだったのではないだろうか? 「男たちが逃げ出した。家庭から、あるいは女から。どっちにしたってステキじゃないか。女たちや子どもたちも、ヘタなひきとめ工作なんかしてる暇があったら、とり残されるより先に逃げたほうがいい。行先なんて知ったことか。とにかく、逃げろや逃げろ、どこまでも、だ。」(「逃走する文明」) これが1983年の「ブルータス」に発表されている。「ブルータス」に浅田氏が書くというのが、今から思うと、感無量であるが。「こういうことを言うと、すぐパラノ・モラリストが現れて、家庭の崩壊を嘆いてみせたりする。そういうひとってのは、たいてい、妻を性的に独占することを主体としての自己の存立基盤にしているようなひとなのね。そういえば、人が主とかいて住とよむ、なんて文句があったけど、主体ってのはまさしくパラノ型の《住むひと》なのである。」 大したアジテーターである。そして上野千鶴子氏もまた浅田氏と伴走していたのではないだろうか? 上野氏の処女作(喪失作@上野千鶴子)の「セクシィ・ギャルの大研究」が1982年である。「もう食べるほうは大丈夫だ。あとはどう生きるかだ!」ということになっていたように思う。上野千鶴子氏が「それはわれわれの責任です」というのもそのことなのだと思う。
 本書で上野氏が自認しているように、上野氏の立場は現実を観察する社会学者と、あるべき世界を提示するフェミニストに分裂している。
 階層というのは男の属性であって、女の属性ではなく、女は自分ではなくどんな男に所属するかによって評価されるというのは、女性にとって耐え難いことであるに違いない。だからフェミニズムには、自分を自分の能力によって評価してくれ!という志向がある。とすれば、能力主義社会への親和性は高い。そうであるなら、上野氏が小泉改革路線にどのようなスタンスでいるのかがよくわからない。上野氏が嫌いなのは、愛国心などといって旧来の村社会的家父長的家族主義価値観をふりまわす「抵抗勢力」のほうであって、だから安倍晋三は嫌いでも小泉純一郎には両価的なのではないだろうか? セーフティネットさえ張ればあとは個人の実力次第という世界は嫌いではないように思う。
 しかし上野氏のように強くもなく能力もない女性にも、男に依存して生きるという別の選択肢は残されていた。選択の多様性である。フェミニズムという運動に問題があったとすれば、男性依存という生きかたをする女性に後ろめたさを持たせたことになったことにあるのかもしれない。それも立派な生きかたであるのだとすれば、赤木氏のように女性に依存して生きたいというのは、男女同権からも当然の主張なのである。実際「下流社会 第2章」には、これは赤木氏の特異な主張ではなく、年収の低い若い男は自分よりも年収の高い女性をもとめる傾向があると書いてある。もはや自分の会社が永遠に存続するなどとは信じられないので、妻の収入という保険をかけるのだという。しかし、それは会社勤めの場合であり、フリーターの男性では、妻に年収がなくてもいいという割合が五割近くにも達しているとも書かれている。
 わたくしにわからないのが従来のジェンダー役割というものには生物学的な基礎があるのではないかということで、それはフェミニズム陣営が絶対にみとめないことであるが、最近の進化遺伝学の知見をふまえれば、それを否定するのは愚かなことなのではないかと思う。「妻を性的に独占することを主体としての自己の存立基盤にする」のだって、進化的な背景があるのかもしれない。
 わたくしからみれば、上野氏というのは女性としてはずいぶんと男性的なひとで、権力への志向が強く、多婚的な傾向ももっているのではないかと思う。わたくしが生きて来た時代というのは家父長的な価値観の急激な崩壊がおきた時代なのであり、その崩壊に上野氏もなにがしかの力を貸したのではないかと思う。
 だから氏が、「私的領域が公的領域を侵食した」とか、「「のびのびと育てる」とか言いながら野放図に躾もしなかった」とかいうのをみると、なんだかなあ、と思う。日本で何がしか公的なものは家父長的なものと繋がっていたのであるから、家父長的なものを否定して公的なものをまもるというのは至難のことであろう。本書でいわれているように団塊の世代の一人であるわたくしもまた自分は子育てに失敗したと思うけれども、では成功した子育てというものがどういうものなのか、まったくイメージできない。成功した子育てというような単線的な図式がないのが現代なのだと思う。わたくしが思うのは、子どもがとにかく自分でメシを食べていけるようになればいいということだけである(それを自立というのであれば、とにかく自立することであろうか?)。上野氏のいうように、子どもというのは最大のノイズ発生源なのであり、自分の思うようにならないものの最右翼なのであるから、そもそもある方向に子育てをするということができるものなのだろうか?
 わたくしのまわりをみても、上野氏がいうような「高学歴カップルの子どもたちほど、文科系おたくのフリーターになっていく例が多い。売れないバンドをやったりね」というのに近い実例をたくさん見ている。「子どもの自主性にまかせる」などといっていると大概そうなるようである。かろうじて子どもが正道?にとどまっているのは、超教育パパママの子どもたちだけのようである。それが正道であるのか、明日はわからないが・・。
 わたくしは長男であるが、家父長的な圧力を感じたことはほとんどない。であるから、何の規範もなく生きてきた。それでも、25歳ごろには、なぜか結婚するのが当然、相手は専業主婦になるのが当然と思っていた。なぜなのだろう? そのころ三島由紀夫倉橋由美子に凝っていて、新しがりやの進歩的文化人というのが大嫌いで、古めかしく生きるのが新しいなどと思っていた。なんと馬鹿で軽薄なことを考えていたのかと思うが、ほとんど人生経験ゼロで本ばかり読んでいたのである。
 コミュニケーション・スキルがほとんどゼロの人間の人間なので、サラリーマンにはなれないと思って医者になったのだが、医者になりたてのころは、患者さんのところに回診にいったり、顔もしらないひとに電話をかけたりするのが苦痛で仕方がなかった。とにかくひとと話をするのが大の苦手であった。よく今日まで生きのびてこられたと思う。
 本書の三浦氏もまた絶対にサラリーマンになれないという自覚から今の道を選んだ人らしい。わたくしが若いころ、あるいは三浦氏の若いころにも、自分がサラリーマン適性がないと自覚すると、なんらかの覚悟をする必要があったのかもしれない。赤木氏のころには、サラリーマン適性がなくても、コミュニケーション・スキルがなくても「人間には多様な生きかたがある」、今はどうにでも生きられるといった情報が充ちていたのだろうと思う。それは自民党経団連電通などと結託して流通させた陰謀情報なのであるのかもしれないが、企業だって正社員にひ弱な人間が増えて困っているわけである。そうそう都合よく陰謀が機能するはずもない(「世界でひとつだけの花」とかいうような歌があったが、それもまた自民党の陰謀だったのだろうか?)。
 赤木氏は運が悪かったのだと思う。運が悪いなどというのは何の慰めにもならないが、悪い時代に生まれてしまったのだと思う。なにしろ上野氏のようなひとまでが、「残念ながら共産主義は、もう未来永劫きませんよ。共産主義はポスト資本主義ではなかった。統制と計画に対する市場原理の優位は証明されてしまいましたからね」という時代になってしまったわけである。競争の時代に、ひよわな人間はつらい。時代は一方で競争の時代へとむかい、他方では、ひよわな人間を育てる方向にも向いている。そのような時代をつくることにおいて、上野氏も三浦氏も何がしかの影響力をもった可能性がある。
 赤木氏は上野氏や三浦氏にくらべれば弱いひとであるが、それでも本を出して主張をする意欲を持つひとである。なんの主張ももたず、時代をこんなものと思って現状を容認してしまっているフリーターではない。そういう中間にいるひとが一番つらいのだと思う。
 本書の上野氏はとても偉そうであるので、赤木氏が読んだら腹がたつだろうなと思う。本当に「いまどきの若いものは!」という感じである。「おひとりさまの老後」を書いた謙虚なひとと同一人物であるとは、にわかには信じがたい。若いひとはもはや自分の読者ではないと思って、筆を(口を?)抑えることをやめたのであろうか? あるいは若者を悪くいうことが現在の自分の読者層に歓迎されるというような事情があるのだろうか? 上野氏も結構、「自分探し」の路線を煽ったほうではないかと思うので、「人の役に立つからゼニもらえるんだ。自分が好きなことしてゼニもらえるとと思うな。自分が好きなことは持ち出しでやるんだ」なんて啖呵をきって、ばちがあたらないのだろうか?とも思う。

 

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

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