上野千鶴子さん(続)

 もの好き&ミーハーなものだから上野さん騒ぎはその後どうなっているのかな?と思って見て見たら、以外な展開になっていた。
 上野さんの結婚相手は色川大吉さんという学者さんだったらしい。色川氏が学者さんということだけは知っていたが、それ以上は何も知らなかったが、歴史学者、それも左系の人だったようでもあるが、小田実さんなどとも組んだりしている。よくわからん人である。上野さんはもっと過激な左のひとだと思っていたのだが、思想的に共存できたのだろうか?
 既婚者の色川氏に惚れて不倫関係となったのは上野氏が積極的にアタックしたことによるようで、色川氏の奥さんが亡くなったあとは公然と二人で生活していたらしいが、入籍したのは、2021年に96歳でなくなった色川氏の死の数時間前で、それは色川氏の財産の処理をスムースに運ぶためだった、というようなことを上野氏は言っているようである。財産??
 結婚とは法的な契約であり、だからこそ様々な権利も束縛も伴うのだが、そのような束縛ゆえに愛情がなくても籍を抜けないひともたくさんいるわけで、上野氏らが結婚という制度に反対していたのも、そのような束縛を厭うためという点も大きかったのではないだろうかと思うのだが・・・
 上野さんらの主張によれば結婚という制度はそのような愛情以外の様々な世間的なしがらみをともなうものであり、それ故に不純なものであるということだったのではないだろうか?
 いずれにしても惚れて略奪したのは上野氏のほうであったようで、色川氏の死の際の上野氏の憔悴ぶりは傍でみていても心配なほどであったのだとか? 何だかフェミニズムの闘士のイメージにそぐわない。上野氏は、存外とても純情なひとなのではないかと思う。

 山崎正和氏の戯曲「おう エロイーズ!」(新潮社1972)で朗読者が「ときに、1118年。この年はまた、人間の心の歴史にとっては記念すべき年だったといえるかもしれない。なぜなら人類はこのアベラールとエロイーズによって、初めて純粋な男女の愛というものを知ったと考えられるからである。男と女の愛。女と男の愛。これを口実にしてひとは社会に叛き、親子を裏切り、ときに夫婦のきずなをたってなお良心の咎めを免れる。この不思議な言葉を人類が知ったのが、思えば一一一八年であった。」といっている。

 何だか上野さんはかなり古典的な恋愛をしたように感じる。しかし、そのような誰かを独占しようとする恋愛は醜い自己中心主義であり、もっと開かれた男女関係、原理的には万人が万人の恋愛あるいは性愛の対象でありうるような男女関係(あるいは男男関係、女女関係もふくめ)こそがその運動が理想とする開かれた人間関係ということになるのではなかったのだろうか? 生物学的にはヒトは一夫一婦制と完全な乱婚の中間に位置する生き物らしい。だから婚姻という制度は生物学的には不自然な制度である。
 上野氏に小倉千加子氏と富岡多恵子氏が加わった「男流文学論」という本がある。その島尾敏雄の項に、上野さんと小倉氏が演じる「出発は遂に訪れず」ごっこ?がある。上野氏はミホに憑依して「私はあなたを愛した」「あなたは私の愛にふさわしい高貴なお方だった」と熱演している。ちょっと意味深? 完全に覚めている富岡 氏とは対照的である。上野氏には、ロマンチック・ラブを完全には否定しきれていないところがあるように感じる。
 
 上野氏は父君の介護も献身的にしたようなことをきいたこともある。色川氏の場合も相当な年齢差であるから最後は介護に尽くしたようである。現在の介護保険制度が出来た時、介護が家庭内の私的な行為ではなく、社会が責任を持つべき公的なものであることを明示した点で画期的な制度であると上野氏が絶賛していた記憶があるのだが・・。
 現在の上野氏がフェミから介護のほうに舵を切っているように見えることとそれは関係しているのだろうか?     わたくしはもっとラディカルなフェミから攻撃されるようになって逃げだしたのだと思っていたのだが(議論だけならより過激な論のほうが絶対に有利である)。
 今あるフェミニズム運動というのは所詮子供の遊びであるようにわたくしは思うが、介護はさしせまった現実の問題で、その方が重要と思うようになったのだろうか? しかし日本の社会における女性差別というのは実にひどいもので、それは学者社会でも会社社会でも、どこにおいてもそうである。日本のフェミニズム運動はその一番大事な問題から逃げて、恋愛などという重要性の低い問題に逃げ込んでいるのだろうか? それともフェミの陣営の人から見るとセックスの自由という問題以上に大事な問題はこの世には存在しないのだろうか?
 そうすると上野氏が唱えてきたフェミニズムはどういう位置づけになるのだろう? 単なる学問上の論? もちろん人は自分の抱く「論」とは異なる行動をすることはしばしばあるわけで、それこそが人間の人間たる由縁なのだとは思うけど・・。
 それにしても、フェミニズムの理論?によれば一人の人間に惚れるなどというのは自己の自由の放棄であり、愚の骨頂ということになるようにも思うのだが・・

 お七が火をつけた
 お小姓吉三に逢ひたさに
 われとわが家に火をつけた

 あれは大事な気持です
 忘れてならない気持です
 (「お七の火」 堀口大學