橋本治「小林秀雄の恵み」(9)山本七平「小林秀雄の生活」

 
 「新潮」1983年4月臨時増刊「小林秀雄追悼記念号」を20年以上の年月を経て、とりだしてきたみた。まだその全部をみたわけではないが、一番面白かったのは山本七平の「小林秀雄の生活」であった。(あとはやはり福田恆存の「『本居宣長』を読む」であろうか?) この山本七平の論は雑誌で30ページ弱、最近入手した文庫本「小林秀雄の流儀」で冒頭の第一章の40ページ強の、力の入った論である。
 この追悼号をみていると、小林秀雄の作品ではなく、小林氏の人となりを論じているひとが多いのに気づく。追悼号という性格がそうさせるのかもしれないが、小林秀雄の影響力というのは作品よりも文体、文体よりも人間であったようにも思える。文体にしても、その強引な断定、ひとによってははったりというであろう言い切り、そういうものも、ほとんど小林秀雄の生き方と同一視されていたのではないかと思う。小林氏の作品にしても、作品よりも作者を論じる傾きがあったことは明瞭である。
 しかし、作品よりも作者に関心をもつというのは、日本の自然主義文学の根本のようなものであり、小林氏も志賀直哉の流派の小説から文学に入ったわけである。
 わたくしが小林秀雄にかんして抱く一番大きな疑問は、氏は本当に文学が好きだったのだろうか、ということにある。文芸評論家として日本の文学者のひとつの規範となったにもかかわらず、文学好きというイメージがあまりない、むしろ文学嫌いであったのではないかと思われるくらいである。(わたくしが思い描く文学大好き人間とは、たとえば丸谷才一氏。)
 篠沢秀夫氏が「篠沢フランス文学講義?」で、小林秀雄ランボー訳の滅茶苦茶を指摘している。
 Je disais adieu au monde dans une aspece de romance.(aspese の真ん中の e にアクサン)
 を、小林秀雄は、「おれは物語の一種としての世界に別れを告げたのだ」という風に訳していたらしい。これは「一種の恋歌の中で、わたしはこの世に別れを告げたのだ」というだけの意味なのにと篠沢氏はいう。アテネフランセに一年通っただけのわたくしが見てもそう思うのだから、この頃の東大仏文科というのはひどかったわけである。『小林秀雄さんという人は、普通のフランス語はまるきり話せないし、聞いてもわからない。そういう人が多かったですね、あのころの東大の仏文というのは。』『なまじっか若いときにフランスに行っちゃうと、だめなんですね。つまり、向こうのフランス人と若いときから接触してると、ああいうふうには読めないんです。つまり普通のことを言っているのに、特別な意味を小林秀雄さんは見ちゃうわけですね。熟語なんてバラバラに、単語ごとにバラしちゃって考えるから、非常に意味を付けて考えちゃうわけね。・・(フランス人も)日本人と同じですね。結局、悪い人はいますし、いじわるな人はいますし、いい人もいるし、ばかもいるわけですね。何でもいるわけです。ところが、フランス文学のこういう最高峰みたいな作品しか読まない。フランス文学というと、それしかイメージが浮かばないというのが、戦前のフランス文学を勉強している人の世界です。』
 『普通のことを言っているのに、特別な意味を小林秀雄さんは見ちゃうわけですね』というのは痛烈な皮肉で、小林秀雄の深刻趣味の急所をついていると思う。小林秀雄は二流三流の文学などというのはまず読んでいなかったのではないかと思う。文学好きというのは、文字で書かれたものなら何でも読まずにいられない人で、そういう人が、たくさん読むうちにいいもの悪いものの区別がついてくる、それでも文字で書かれたものはどんなつまらないものでもやはり読んでしまう、そういうようなものなのではないかと思う。文学を一流と二流以下を分けること、そして一流しか読まないことというのは、橋本治のいう『日本の知的社会の「いやなもの」』の発生源のひとつではあるだろう。本を読んで、わくわく、どきどきしたりするのではなくて、作者との真剣勝負みたいなことになるのはおかしいということである。
 吉田健一の「文学の楽み」から少し引用してみる。

 問題は、文学を恐しく真面目に取れば、どういふことになるかといふことなのである。例へば、「荒地」であつて、この詩が褒められ、今でも褒められてゐるのは、そこに神があるとか、ないとか、現代人の絶望がそこに窺へるとか、現代そのものの姿がそこにあるとかいふ点でである。つまり、ここでもこの詩の対象、或は材料が議論の中心になつてゐる訳であるが、もし神がゐるから、或はゐないから、或は現代人の絶望が窺へるからこの詩が特異であるのならば、やはりさういふことが言える別な作者の作品が他に幾らもあり、その中には「荒地」と正反対の性格のものもあつて、さうすると「荒地」といふ作品そのものはどういうことになるのか。・・更に厳密に言へば、神のゐることの証明が欲しいのならば、「荒地」を読むなどといふ廻りくどいことをするのは止めて自分で信仰を得る他ないのである。或はそんなことよりも、具体的な例をもう一つ挙げると、もしダンテの「神曲」が天国と地獄を扱つてゐるから大したものならば、ダンテとブレイクの区別さへも付かなくなる。・・
 文学は学問ではない。そこの所が大事である。・・戦後の風潮が真面目であるといふのは文学界に限られたことではないかとも思へるが、大学でも、町でも、活字の上でも、文学は鹿爪らしく研究したり、鑑賞したりするものになつて、言葉のやうな生きものはこれに恐れをなして死(ぬ)・・
 人間が尊いのが、人間が何かの役に立つといふ理由からではない筈である。その本当の所は、人間が温く呼吸するものであり、優雅に振舞ふものである、或は少くとも、それが出来るものだからではないだらうか。・・
 生きてゐるといふのがこちこちなものではないこと、乾いてゐることが大流行の昨今でも、湿気がなければ、或は、太古に遡つて、海といふものがなかつたならば、生命は存在し得ないこともここで合せて思ひ出していい。

 日本の文学界を大真面目なものにした張本人の一人は小林秀雄であるように思う。小林秀雄は真面目な人で、ユーモアを解さない人だったのではないだろうか? そしてこの真面目というのも、『日本の知的社会の「いやなもの」』の一つであろう。ここで吉田健一はエリオットを例に出しているわけだから、これは日本に限らず、20世紀の知的社会にあった(そして今でもある?)「いやなもの」、さらに言えば「知的」であることに、どこにでもついてまわる「いやなもの」であるのかもしれないけれども。
 
 この山本七平の「小林秀雄の生活」もまた、その題名の通り、小林秀雄の作品ではなく、生活、生き方を論じたものである。山本氏によれば、小林秀雄は「自分に関心のあることにしか目を向けず、言いたいことしか言わず、書きたいことだけ書いて現実に生活していけたら」ということを実現した人間であった。ここで「現実に生きていけたら」ということを山本氏は「破綻なき生活者」とも言い換えている。そのような生き方の秘伝を探ろうとして「創元社版」の小林秀雄全集をすべて読破したという。徹底的に読み、暗記するまで読んだのだという。
 わたくしは山本七平の本はかなり読んできたと思うけれども、氏が小林秀雄に傾倒したひとであったことを知り意外に思った。砲兵という日本軍隊の中での例外的な合理主義者(司馬遼太郎が戦車部隊であったのと同じように)として日本の社会の不合理の仕組みを解明することで生涯つらぬいたひとだと思っていたので、明らかに非合理への傾斜をもつ小林秀雄に傾倒したというのが意外だったのである。
 小林秀雄は断固たる超一流の生活者であったのだとして、その根底にあったものとして山本氏がとりだすのが「一身一頭人間」という言葉である。これは「一身両頭人間」と対比されるもので、小林秀雄福沢諭吉を論じた「天といふ言葉」(『考へるヒント』)からの山本氏の造語である。諭吉の「文明論之概略」の緒言にある「恰も一身にして二生を経る」とかかわるもので、諭吉が生きた幕末から明治、あるいは小林秀雄が生きた戦前から戦後という大変動期には、しばしば「一身にして両頭あるが如」き知識人が氾濫するのだという。それの対になるのが「一身一頭人間」で、思索とは「一身一頭で、二生を経る」ことなのである、と山本氏はいう。そして小林秀雄こそは徹底した一身一頭人間だったという。
 その「一身一頭」を表すものとして、例の「僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいゝぢやないか。」 あるいは宮本武蔵の「我事に於て後悔せず」が挙げられる。それの根本は「私立」なのであるという(小林秀雄福沢諭吉」(『考へるヒント』))。
 実は、この「私立」というのがよくわからない。小林秀雄は『「私立」とは「痩我慢」である』という。諭吉の「痩我慢の説」の痩我慢であり、いわば「武士は食わねど高楊枝」である。そうであるなら、プライドあるいは自尊である。小林秀雄は、『「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は「私立」の内を腐らせる』ともいう。
 この「私立」を「個人」と置き換えたい誘惑にかられる。『「士道」は「個人」の外を犯したが、「民主主義」は「個人」の内を腐らせる』 あるいは、「国家権力は個人を弾圧したが、そういう外圧が消失すると、個人は自ら腐敗していく」、とか。小林秀雄は外から犯すものよりも、内から腐らせるものの方を嫌うのだと思う。
 「私立」した人間の対極にあるのが「不平家」である、とされる。『不平家とは、自分自身と折合ひの決して附かぬ人間』である。とすれば、「私立」したひととは、自分と折合いのついたひとということになるのだが、どうもそれはわたくしのは消極的なイメージに思えて、「立」という言葉があたえる積極的なイメージとは結びつかない。
 山本氏は、「戦後民主主義」とは「私立」を犯しそうなものをすべて排除することを目指したのだという。しかし、それが「私立」を内から腐らせたことには一向に気がついていないのだという。こういう言い方なら「私立」とは「自分」である。自分が第一、国などは自分のためにあるに過ぎない。それなら、「戦後民主主義者」が不平家集団となるのは当然ということになる。
 「私立」とは「自立」なのだろうか? 「天地の間に、己れ一人生きてあると思ふべし」であるなら、それは「下克上」でもあり「デモクラシイ」でもある。しかし『「民主主義」は「私立」の内を腐らせる』のである。とすると「民主主義」と「デモクラシイ=下克上」は別のものなのである。なんだか、この「民主主義」はほとんど「戦後民主主義」である。
 「一身一頭人間」は、福沢諭吉のことでもあり小林秀雄のことでもでもある。それは山本七平の思い描くあるべき人間像なのだが、福沢諭吉大好き人間には、また丸山真男もいる。戦後民主主義の旗手、戦後民主主義の虚妄に賭ける丸山真男である。それなら丸山真男は「一身両頭人間」なのか? 『ともかく福沢を読みはじめると、猛烈に面白くてたまらない。面白いというより、痛快々々という感じです。・・とくに『学問のすゝめ』と、この『文明論之概略』は、一行一行がまさに私の生きている時代への痛烈な批判のように読めて、痛快の連続でした。・・ともかく、少なくとも戦争が終わるときまでに、日本の思想家のなかで自分なりに本当によく勉強したなあと思えるのは、荻生徂徠とこの福沢諭吉だったというわけです。』(『「文明論之概略」を読む』(岩波新書 1986年))なのだから、丸山真男もまた戦前戦後で変わっていないわけで、「反省する悧巧な奴」ではないのである。
 小林秀雄のいう「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙つて処した。それについて今は何の後悔もしてゐない。大事変が終つた時には、必ず若しもかくかくだつたら事変は起らなかつたらう、事変はこんな風にはならなかつたらうといふ議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起つたか。それさへなければ、起らなかつたか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性といふものをもつと恐ろしいものと考へてゐる。僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいゝぢやないか」で問題なのは、『歴史の必然性』という言葉である。
 丸山真男の「日本の思想」でいえば、小林秀雄は徹底して『である』思想の側にいるのであり、『する』側にはない。もちろん、丸山真男は『する』側である。そこから見れば両者は完全に対立することになる。『歴史の必然性』を受け入れるならば、自分はつねに連続したものであり、変わるなどということはありえない。「一身一頭人間」しかありえないことになる。
 橋本治によれば、近世とは『である』の時代であり、近代とは『する』の時代である。しかし小林秀雄は『する』を認めない。人間が何かをできるなどと思うのは、「賢しら」であり、「驕り」である。
 中江藤樹は近世の人間で、士農工商という身分はあるかもしれないが、それでも考えることは誰がしてもいいのだとした。士農工商という身分の別がおかしいといったのではない。それなのに小林秀雄は、近世を近代であるかのごとくにみている、それが「本居宣長」の破綻を生んだというのが橋本治説であった。中江藤樹に「賢しら」はあるのか? ないというのが小林秀雄説である。小林秀雄は「賢しら」を否定し、橋本治は肯定する。
 『歴史の必然性』をいう小林秀雄は、どう考えても『である』のひとである。歴史がああでもありえた、こうでもありえたとするのは、現在を濃密に生きることをせず、夢想の中に逃避する生き方なのであるとする。
 わたくしは『歴史の必然』という言葉をきくとなんとなくラブラスの魔を想起してしまう。『歴史の必然』なとというと、《自由意志は存在しうるか》という哲学の問題を呼び出してしまうように思う。
 わたくしが昔から頭のいい人ならみなわかっているのだろうなと思っていて、実はまだ誰もわかっていないのかなとも最近思うようになったことに、「思う」→「行動」ということがある。たとえばいまわたくしがコンピュータの前でこの文章を打っている。あるいは小林秀雄が、『言ふまでもなく、福沢諭吉は、わが国の精神史が、漢学から洋学に転向する時の勢ひを、最も早く見て取つた人だが、この人の本当の豪さは、新学問の明敏な理解者解説者たるところにはなかつたのであり、・・』と書き出す、その時生じる、「思う」あるいは「考える」ということが物理化学的現象としてはどのようなものなのだろうか、ということである。
 脳内でおきるある物理化学的な過程が「思い」をつくるのであれば、「思い」は物理化学的過程の結果である。もしも「思い」が物理化学的過程に介入できるのであれば、それは物理化学的法則を壊す。だが、もしも「思い」が物理化学的過程の結果として生じるのであれば、われわれの思考は物理化学的過程の奴隷であって、そこに自由はない。
 有名なリベットの実験がある。われわれが実際にある動作をする約200ミリ秒前にその動作をしようという意図を持つが、動作の約550ミリ秒前には脳内の準備電位が生じているとするものである。つまりまず脳内の活動があり、その約350ミリ秒後にわれわれは、その活動を自分の意思としておこなおうと思う、ということである。
 とすれば、われわれが意図だと思っていることは、脳にわれわれの意思とは無関係に生じた物理化学的過程の追認に過ぎないことになる。しかし、われわれは自分が考えていると思っている。「イヌが歩くときは、この動物が足を動かすが、ウニが歩くときは、その足がこの動物を動かす」(ユクスキュル)とするわけである。われわれは脳をもつ以上は、自分で自分がなにをするかを決めることができると思っている。
 中枢神経系の有無で何かが逆転するのである。この問題が現代の脳科学で、あるいは哲学でどう考えられているのかは知らない。知らないけれども、『歴史の必然』などというあまりに曖昧な言葉で議論するくらいなら、脳科学の方にいったほうがまだ増しなのではないかと思う。わたくしはベルグソンをまったく読んでいないけれども、自然科学を哲学にくりこもうとしたひとという印象をもっている。小林秀雄ベルグソンを師としてそういうアプローチを試み、結局、それを放棄したのではないかと思う。
 『歴史の必然』をいうことは、われわれが中枢神経系を持つことの否定なのだろうか? われわれは、自分で足を動かしていると思っているが、実は足がわれわれを動かしているのだろうか?
 『歴史の必然』というのは、人智が歴史をどのようにでも動かしうるという見方の否定であり、それへの反論である。しかし、それは現在絶対主義ともなってしまう。そうであるなら人智の限界という方向から考えていくほうが、よほど生産的なのではないかと思う。例えば、吉田健一の以下のような文章である。

 十九世紀の後半頃からの短い期間は災害にはその対策があり、例へば渇水は貯水池、疫病は薬、飢饉は食物の輸送、戦争も国際会議で防ぐことが出来るといふ考えが行われてゐてその結果が人為的な災害も自然のものも既になくなつたも同然だといふ気持でゐることに人を馴れさせて来た。・・・どういふことにでもその対策があるといふ種類の考へ方が既に理性が許さない筈の何かに対する過信であつて人間は人間の状態を忘れる時に醜くなる。(「覚書」)

 ここでいわれているのは、人間にはできることとできないことがあるという単純なことである。なにもできないのではなく、何でもできるのでもない。できることはそれほど多くはないが、それでもやっていくというのではいけなのだろうか? 『歴史の必然』というのは、「普通のことを言っているのに、特別な意味を見ちゃう」にもつながる小林秀雄の異常感覚なのではないだろうか?
 山本七平の「小林秀雄の流儀」から。

 十九世紀は、衣食住を充足してやれば罪はなくなると単純に信じていた。「なぜ犯罪があるか」「食えないからだ」これが最も普通の解等であった。従って、社会を変革して全員の衣食住が完全に充足されたら、犯罪はなくなるはずであった。

 吉田健一の言っていることと、山本七平の言うことは少し違っている。
 衣食住を完全に充足することが可能であるかどうかは山本氏の言では議論されない。「衣食住を充足してやれば」という仮定に、「それはできないことである」と答えてしまうと、「それができれば犯罪がなくなるのか」という議論に進む前で話がとまる。十九世紀の人間は「衣食住を充足してやることは可能である」と信じていた。それは人間の能力への過信である、というのが吉田健一の議論である。「衣食住が充たされても」「心は充足されない」というのが山本七平の論である(というのはあまりな単純化であるが)。
 自分のことを考えてみると、小林秀雄がわたくしにあたえた一番大きな影響は、マルクス主義への免疫力とでもいうべきものをなにがしがあたえてくれたことであったように思う。マルクス主義というのが、「衣食住を充足してやれば罪はなくなる」という説である、などというのはとんでもない議論であるが、俗流マルクス主義にはそう言いかねない傾きがあったように思う。そういう議論への免疫を、確かに小林秀雄の論はあたえてくれたのだと思う。
 だからといって、小林秀雄の論が「衣食住が充たされても心は充足されない」というものであるというのもまたトンデモな議論であろうが、小林秀雄の主張が多分に精神の特権化の方向にむかうものであったことは確かであるように思う。橋本治のいう『日本の知的社会の「いやなもの」』の根は多分に「精神の特権化」にあるのだと思う。そして、小林秀雄が「精神の特権化」への解毒剤として持ち出したのが「実生活」という言葉であったのだと思う。
 「小林秀雄の流儀」は小林秀雄の「思想」と「実生活」の議論を徹底的につきつめていこうとする本であるかと思ったのだが、本を読み進めていくうちに何が何だか分からなくなってきた。それは、この「思想」が次第に「キリスト教」あるいは「聖書」と合体していく展開を見せるからである。
 「小林秀雄は徹底的に「聖書」を読み込んだ人だ」というのが「小林秀雄の流儀」の低音となっている。わたくしはキリスト教と聖書が大の苦手なので、この方面の話がでてくると、いつも何が何だかわからなくなったしまう。そして『日本の知的社会の「いやなもの」』の根っこにキリスト教と聖書があるのではないかとも思っている。
 信仰を持たないものが、パウロがどうしたというような議論をきくと、何でそんなことを熱心に論じることができるのかが理解できない。「ここで我々にとつて重要なのはギボンにキリスト教といふものが一種の狂気にしか見えなかつたことである」と吉田健一はいう。「正体が解らない神の為に建てた殿堂の前に使徒ポオロが示した言動からも察せられる通り、古代に属する人間にとつてキリスト教は明らかに狂気の沙汰である他なかつた」という論のほうにずっと親しみを感じる(「ヨオロツパの世紀末」)。
 最近入手したストレイチーの「ヴィクトリア朝偉人伝」を読んでいるところである。原題が「Eminent Victorians 」だから、「偉人伝」というより、「有名人伝」なのかもしれないし、印象からいえば「奇人伝」なのであるが、ここにとりあげられたナイチンゲール、アーノルド博士、ゴードン将軍、マニング枢機卿すべてにキリスト教がとりついている(ナイチンゲールだけは少し例外であるが)。まさにとりついているとしか思えない。なんといやな社会なのだろうと思う。ストレイチーらのブルームズベリーグループが対抗しようとしたのは、まさにそういうキリスト教的なものすべてであったのだろう。
 ヴィクトリア朝時代のいやらしさと、橋本治のいう『日本の知的社会の「いやなもの」』というのが関係するのかしないのか、どうも山本七平の議論を追っていくと、段々、関係しているとしか思えなくなる。
 「小林秀雄の流儀」を読もうと思ったのは、「一身一頭人間」という見方を知って、それをもっと考えてみたいと思ったからなのだが、第一章「小林秀雄の生活」でそれが論じられたあと、どこかにいってしまい、ドストエフスキーがでてきたりして、ひたすら「聖書」をめぐる話となってしまう。
 この文庫本の解説で、新保祐司氏が、山本七平は、小林秀雄を《日本の「空気」(山本七平が「「空気」の研究」でいう「空気」)支配を徹底的に排除できたひと》であるとしている、と書いている。「空気」の支配を逃れることができたから、戦前から戦後へと「空気」が一変しても変わらない自己を保てた、すなわち、「一身一頭人間」であり続けることができたのだという論である。
 しかし、この「一身一頭人間」というのは小林秀雄福沢諭吉を論じた文から山本七平がとりだしてきたものである。福沢諭吉を幕末から明治への「空気」の変化にいち早く反応したとする見方もあるであろう。戦後のある時期の「空気」を代表する人間でもあった丸山真男福沢諭吉に傾倒したひとである。どうも「空気」というようなことでは、この「一身一頭人間」は説明できないように思う。
 それは「他人の思考を借りるのでなく自分で考えること」とでもいったもっと単純なことなのではないだろうか?と思う。ここで「思想と実生活」の問題がでてくる。「思想」を否定して「実生活」のみがあるとするのではなく、「思想」と「実生活」が別々のものとしてあるのでもなく、「思想」と「実生活」が分離したり乖離したりすることなく。そのひとの中でひとつのものとしてあること、「一身一頭人間」というのはそういうことを指しているように思う。
 しかしクリスチャンである山本氏が「思想」を論じだすと、必然的にそれはキリスト教にむかうことになる。「最初にあったのは、『霊のもの』ではなく『肉のもの』であって、その後に『霊のもの』が来るのである」(コリント人への第一の手紙)などといったことを執拗に論じていく。キリストの復活とか死者の復活とかいった話題が飽くことなく続く。しかしそういうのを読んでいると、わたくしは自分の体が何か濁ってくるようななんともいえない感じになってきてしまう。わたくしはキリスト教がきらいなのである。キリスト教は明らかに狂気の沙汰であるようにわたくしもまた思うのである。そういうことで「小林秀雄の流儀」が段々と読み続けられなくなってきた。
 それで、清めとして、吉田健一の文をもうひとつ。

 冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗われてゐるのを見てゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのでなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。(「時間」)

 本当は、「一身一頭人間」ということから、思想と科学の関係というようなことを考えてみたいと思っていた。わたくしは自分を「一身二頭人間」だと思っている。科学というのは「思想」に「水をさす」役割を演じることができると思っていて、人文的思考が暴走しないための歯止めとして科学は有用であると思っている。自分の中に二つの基準があるわけである。しかし、書いているうちに、どのような方向に議論をすすめていいかわからなくなってきた。
 この「水をさす」というのは、山本七平が「空気支配」に対抗できる唯一のやりかたであると主張したものである。わたくしは小林秀雄もまたある範囲のひとを拘束する「空気」を作ったのではないかと思っているので、それに「水をさす」何かが必要であろうと思う。
 死者の復活あるいはイエスの復活などという話がでてくると、それにさす一番有効な水は医療ではないかと思うわたくしは、度し難いタダモノ論者なのだろうが、思想はモノにあるいは事実にぶつかることをしないと空論になるという考えをすてることができない。自分が医療という職業を選んだのは偶然であるが、それを活かさない手はないと思う。しかし、その辺りも今はうまく展開できそうもない。
 「小林秀雄の流儀」も「私もこれでおしまいにする」ではじまる段落で終わる。「本居宣長」の結尾の影響は甚大なるものがある。それで、わたくしも「橋本治の恵み」についての論をひとまずこれでおしまいにしたい。
 橋本治の主題はすべて日本の近代と今につながるわけだし、わたくしの関心もそこにあるわけだから、わたくしが何を論じてもどこかで橋本治の論とのかかわりは生じてしまうのではあるが。
 近代の「自我」と近世の「自己」とは違う。橋本治は知識人としてはまことに例外的な近世の「自己」のひとなのであると思う。小林秀雄はもちろん近代「自我」のひとである。近世の「自己」のひとが、近代「自我」のひとをみると、そこにさまざまな歪みであるとか病理的なものを見出すであろう。『日本の知的社会の「いやなもの」』というのがそれである。
 明治になって輸入されたものは、西欧の機械文明だけではない。近代的な「自我」もまた輸入された。江戸近世が発展するなかで自然に生じたものではなく、まったく必然性がないのに、学ぶべき先進西洋のありかたとして輸入された。『知的社会の「いやなもの」』ではなく『《日本の》の知的社会の「いやなもの」』が生じる理由がそこにある。
 しかし、世界の歴史の中で日本は例外的に《西洋》を受けいれることに成功し、いつのまにか自分が昔からの西洋文明の一員であるような顔をしはじめた。それができたのは、江戸時代に進行していた世俗化のためではないかとわたくしは思っている。江戸時代に仏教は檀家制度によって完全に死んでしまっていた。一方、ヴィクトリア朝時代においてはキリスト教は生きていた(しかも非常に奇怪なかたちで)。明治に日本に入ってきた西洋はヴィクトリア時代なのである。そこから生じる矛盾と滑稽に日本の知識人たちは七転八倒してきたわけであり、西洋からはいってくる毒にいかに抵抗するかに腐心した。日本には昔から良薬があるという方向にいったものもあるし、毒を制するには毒をもってするしかないという方向にいったものもある。
 西洋はギリシャとローマとキリスト教である。西洋が世界を制したのはその物質文明によってであるが、物質文明の背景にある科学もまたキリスト教が生んだものである。西洋の芸術もまたキリスト教が生んだ。職人ではない芸術家というのもまたキリスト教が生んだものである。世界を創造する神⇒芸術を創造するひと。
 西洋を解く鍵は科学と音楽にあるのではないかと昔から思っている。音楽はクラシック音楽である。科学だけでもだめで音楽だけでもだめ、だから「二頭人間」である必要がでてくる。科学だけで世界をすべて理解しようとすることも、音楽だけで世界を理解しようとすることも、どちらも無謀である。世界を理解するためには二本の物指が必要で、それによってはじめて座標を決めることができる。
 (読んではいないけれど)「本居宣長」で小林秀雄がしようとしたことは音楽ですべてを説明しようというようなことだったのではないかと思う。科学が諸悪の根源であると思ったのだと思う。科学とは客観であり、自分の外にあるものである。そのような他人事の世界がひとを不幸にするのである。あらゆることがすべて自分とかかわりのある、自分の問題であるような生き方をする、そういう方向を生きようとしたのだと思う。しかし、そうすると膨大なものをきりすてなければいけなくなる。
 小林秀雄はそういうものをどうでもいいこととして平気できりすてる。自分の関心のあるものだけが、われわれにとっても大事なもので、自分に関心のないものはどうでもいいことであるしてしまう、そういう強引なやりかたである。そのような無茶をしないと、科学はあるいは物質は排除できないのである。
 しかし詩を書くのではなく、散文を書くというのは合理的な行為である。散文で非合理を説くというのが小林秀雄が根底でかかえた矛盾なのだと思う。しかし、そんな無茶苦茶をしなければいけないほど、西洋から入ってきた毒は強力だったわけである。小林秀雄が聖書を徹底的に読んだのだとしたら、その毒に徹底的につきあっていこうとしたのであり、後年、本居宣長に向かったとしたら、そこから近世にある薬のほうに方向を変えたのであろう。
 小林秀雄がはたした役割というのは、近代の毒を敏感に指摘したことなのだと思う。西洋近代を礼賛し、その毒にいたって鈍感なひとたちが多いなかで、炭鉱のカナリアのような役割をはたしたのだと思う。
 橋本治は、まず炭鉱のカナリアであることから出発して(『日本の知的社会の「いやなもの」』をまず生理的な感覚として発見して)、そこから自分の周囲にある空気の濁りがどういうものかの勉強にむかったひとなのだと思う。多くの知識人が、まず勉強し、その勉強の過程で西洋の毒を発見するのと丁度、逆の道をたどっている稀有なひとなのだと思う。
 しかし今でも圧倒的に多くのひとは、いくら西洋を勉強しても、そこに毒を見つけることもないし、日本の知的社会にも「いやなもの」を感じることもない。だから、小林秀雄橋本治も知識人の世界の外では無関係なひとのままであるのだろう。橋本氏はチャンバラ映画や歌謡曲を論じる稀有な知識人であるが、チャンバラ映画愛好家や歌謡曲愛好家の多くは橋本治の本は読まないだろうと思う。読むのは《芸術映画》を見、クラシック音楽を聴くような「知識人」だけではないかと思う。
 そしてなによりも、科学の力、物質の力、工学の力といったものが世界を席捲するようになり、人文学的なものの見方というものはどんどん無力になってきているという現実がある。本居宣長小林秀雄も、あっけなく物量の下敷きになってしまうような時代に、もはやなってきているのかもしれないのである。それに対して橋本治は、果敢にラッダイト運動をこころみてようとしているのだが。

小林秀雄の流儀 (新潮文庫)

小林秀雄の流儀 (新潮文庫)