E・H・ゴンブリッチ「美術の物語」
PHAIDON 2007年1月
知り合いに勧められて読んだ本。美術史、実際にはほとんど西洋美術史の本である。
ゴンブリッチの名前を初めて知ったのはポパーの自伝「果てしなき探求」の中に、ハイエクとともに自分を救ってくれたひととしてでてきたことによってであると思う。それで、その「若い読者のための世界史」(中央公論美術出版 2004年)は、読んでいた。350ページほどの世界史の通史(実際には、やはりほどんど西欧史)であるが、ゴンブリッチがわずか25歳ごろに書いたもので、その年齢で、自分の視点をもって一冊の本を書けるというのが驚きである。自分が25歳のころ何を知っていただろうと思うといやになってしまう。あるいはそこに書かれていることは、ゴンブリッチの固有の視点ではなく、西欧の一部の知識人には共有されている視点であるのかもしれなない。四書五経のような知識人にとっての最低限の知識であるのかもしれない。わたくしが若いときに日本でどのような知識が共有されるべきものとされていたかを考えると、マルクス主義が極度の大きい位置をしめていたことの不幸を感じずにはいられない。それは本当は逆かもしれないので、日本の知識人が明治以降(大正以降か?)自明とした教養の底が浅かったことが、マルクス主義への抵抗を弱くしたのかもしれないのだが。
「美術の物語」には一切、解説が付されていない。それで、「若い読者・・」の解説で著者の履歴をみてみると、1909年ウィーンで生まれ、ウィーンの大学で美術と古典考古学を学んでいる。オーストリアで職を得る見込みがなかったため、1936年にイギリスにわたっている。ドラッカーやハイエクあるいはポパーなどの場合もそうなのだが、ヨーロッパの知識人は生まれた国以外で生きるということをあまり抵抗なくしているように見える。わたくしは絶対に日本以外では生きられない人間であると思うので、そういう点にもヨーロッパ知識人の強さというものを感じる。
イギリスではハンブルクからイギリスに移されていたワールブルク研究所で、その創始者であるアビ・ワールブルクの遺品の整理にあたった、とある。ワールブルク研究所のことは山口昌男氏の「本の神話学」の中の「精神史の中のワールブルク文庫」で知ったと思うが、それによれば、ワールブルク研究所は「ワイマール精神の最高の栄光」で、カッシラーとその「象徴形式の哲学」が示したイコン学がその精華であるとされている。それは西欧思想史に伏流するプラトン主義的象徴論の伝統の中にあるものだそうで、ゴンブリッチもそのイコン学の流れの中にあるひとらしい。
わたくしはプラトン主義が苦手で、イコンとかいわれても全然ピンとこない人間なのだが、「美術の物語」はそういった特別な主張を述べたものではなく、いたって穏健で中庸で公平な西欧美術史となっている。
山口氏の本によれば、たとえば、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」や「春」には様々な画像的な「意味」が込められているのだそうであるが、そのような「学」的な主張は一切なく、「はじめに」にあるように、「美術の世界を自分で発見したばかりの十代の読者を念頭に」「平易な言葉」で「美術の世界に導くこと」を意図した本である。「「学問的」な言葉を連発して読者を威圧するような」ところはまったくない本である。「神は細部に宿りたまう」というのは、アビ・ワールブルクの言葉なのだそうだが、ゴンブリッチもまた絵の細部、具体的な技法によって美術を論じていく。
大変公平な本ではあるのだが、そうはいっても、たとえば著者はあまり現代美術は好きではないのだな、ということは感じる。それが新しい可能性の探究ではなく「流行」の探究であり、「新奇なもの」「奇抜なもの」「とにかく目をひくもの」「話題になるもの」「一回限りのもの」であることを目指しているようにみえるからなのであろう。
音楽におけるいわゆる前衛音楽と美術のおける抽象絵画がどのような関係にあるのか、よくはわからないし、あまり考えたこともないが、音楽における旋律と美術における描かれる対象はどこかパラレルであるのかもしれない。音楽が純粋な音による耳の楽しみであり、美術が純粋に色彩による目の楽しみであるとすることは、どこか間違っているはずである。たとえば603ページのポロックのアクション・ペインティングの作品は、そういう技法の思いつきということが最大の貢献であって、何かの表現を可能にするために技法が案出されたということではないように思う。「手段」が「目的」となってしまっている。
それでも現代での音楽と美術の違いは、(クラシック音楽の)作曲家がほとんど作曲では食べていけない状況であるのに対して、画家のほうは売れると途方もない値がつくことがあることである。一回性ということの違いで、画家の場合、本物の絵や彫刻は一つだけであるのに対して、音楽の場合は何回でも再現が可能である。もとの楽譜は一回性のものであるとしても、それに値がつく現代の作曲家などはほとんどいないだろうと思う。また、音楽ではクラシック音楽とそうでない音楽(大衆音楽?)にはかなり明確な堺があるにの対して、美術の場合には大衆美術などというものはまず存在していない。
最近、たまたま安来の「足立美術館」にいく機会があり、そこで横山大観などの日本画をみた。もともと美術は不得手であるのだが、日本画というのはさらに苦手で、南画の趣向の中で自己主張しているというような落ち着きの悪さを感じる。要するに絵そのものよりも、そこに表現された画家の「境地」みたいなもののほうに重点がおかれるというのがよくわからない。絵でなくて修行というか道を究めるみたいな精神主義のようなものはどうしても好きになれない。その美術館で見た絵の中では、平山郁夫氏の「祇園精舎」が、やはり上手いものだなあと思った。平山氏などは誰にでもわかる大衆画家かのかもしれないが、それでもそこにある種の精神性の探究のような臭みがあることも否定できないように思う。それが氏の人気の原因でもあるのかもしれないのだが。この「美術の物語」が気持ちがいいのは、そういう精神性のような方向への色目がなく、表現の可能性の探究として美術の歴史が述べられている点にある。
本書を通読して、自分は絵画よりも建物のほうに惹かれるところがあるのだということを思った。たぶん、わたくしが絵画にいまひとつ関心がもてない原因は、それが額縁の中に切り取られて存在していることにあるように思う。そこには瞬間があって時間の流れがない。一方、建物は住まうものであり、そこで生きること、利用すること、生活することが前提となっている。そういうほうが健全であると思う。絵画も本来は建物の中にあってそこでの装飾の一部として存在するためのものではないかと思う。それが美術館に集められて、本来の目的とは別に鑑賞のためだけに陳列されているという現代のやりかたがどこかおかしいのであると思う。
音楽には時間がある。あるいは本を読むということにも時間が流れる。わたくしは時間が流れることのほうを好むらしい。そして音楽も本当は鑑賞するのではなく自分で演奏するものなのだと思う。交響曲などという自分ひとりでは絶対に演奏できるはずのない楽曲はどこか奇形なのである(スコアを読んで自分の中で音楽を鳴らすのが本当の音楽の享受の仕方なのであろうか?)。
そして本のいいところは自分で読むしかないことである。もちろん絵は自分でみなくてはならず、音楽は自分できかなくてはいけないのだが、しかし絵がたんにみえていたり、音楽がたんにきこえていたりするという事態はありえる。だが、本が読めていたりすることはない。それは読むしかない。
それでこの「美術の物語」も読んだわけである。印象としては、ゴンブリッチの書いた本であるが、ゴンブリッチの個があまり前面にはでていない本である。もう少し自分の意見を言ってもいいのではないか、自分の好き嫌いを前面に出してもいいのではないかと思うところが多々あった。読者に偏見を持たせないということを優先しているであろうが、この本を読んでゴンブリッチという人を知ったという感じにはあまりならない、その点では「若い読者・・」のほうがずっとゴンブリッチの個がでている。そういう不満はあるが、600ページ以上のきわめて鮮明で美しい図版を多数(400点以上)おさめ、それを一貫した物語の中に記載している本が7000円というのはとても安いと思った。そして本書を通読すると、古代、中世、近世、近代という西欧の歴史を体感することができる、それが何よりも本書を読む(見る?)意味なのではないかとも思った、というのはあまりに「細部」を無視した感想であるとは思うが・・。
- 作者: エルンスト・H・ゴンブリッチ,中山典夫
- 出版社/メーカー: 中央公論美術出版
- 発売日: 2004/12/01
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- 作者: 山口昌男
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