半藤一利「幕末史」

  新潮社 2008年12月
  
 こういうタイトルではあるが、実際には幕末から明治10年ごろまでを論じている。明治のはじめは幕末と連続したものであり、そこを断絶したものであるように装う明治維新などという言葉を俺は断じて認めない、そういう半藤氏の主張を込めている。長岡の出自である自分としては、勝てば官軍で勝った側が捏造した薩長史観(それすなわち皇国史観でもあると)には断固反対であるということである。
 明治をどうみるかについて、司馬遼太郎史観と山田風太郎史観というようなことがよく言われるが、明らかに山田風太郎史観の側の本となっているように思われる。わたくしは司馬遼太郎の小説はほとんど読んでいないのに(エッセイはある程度読んでいるが)、山田風太郎のものは結構読んでいるから、公平な判断ができるとは思えないが、自分は山田史観側であると思う(司馬遼史観対山風史観というのだそうである)。
 
 話はペリーの来航から始まる。誰でも知っていることで、わたくしだけが知らなかったのかもしれないが、ペリーが来ることは江戸幕府は3年も前からオランダからの情報で知っていたのだそうである。それも江戸に来ることまで知っていた。それで、浦賀奉行所にはちゃんと通訳がいたという。情報は入ってはいたが、来られたら困るな→来ないと嬉しい→来ないに違いない、という論理?で、対策は立てていなかったらしい。いずれにしても、太平の眠りを覚ます上喜撰、というのは完全な真実ではないらしい。
 ペリーの要求は開港と、薪水、食料、石炭である。何の本で読んだか忘れたが、日本には大した資源はないと思われていて、日本を植民地にしようという意志はアメリカをふくめ諸外国にもなかったという。
 ここに当時、京都の公家さんは70〜80人であったと書いてある。みんな貧乏のどん底であった、と。そこに開国について朝廷の許可をえねばという議論がでてきた。徳川慶喜の父である水戸の徳川斉昭はとんでもない攘夷論者であった。このころの朝廷のトップ前関白鷹司政通の奥さんが斉昭の姉であった。時の将軍、徳川家定篤姫の旦那さんである)は暗愚であるとされていて、これが君主ではまずいということで、慶喜を推すものと慶福を推すものが対立(一橋派と紀州派)、それぞれが公家たちに金を渡して工作をするため、貧乏公家たちは俄に金持ちとなり、政治に関与できる立場となり有頂天となった。時のミカドの孝明天皇はもの凄い攘夷論者であった。もう生理的に外国人が嫌いであった(こういう言い方が半藤氏のうまいところで、政治理論としての攘夷論ではなく、もう肉体的感情的に外人が嫌いであったとされると、妙に孝明天皇の行動が理解しやすくなる)。
 このあたりの歴史を読んでいて、いつもわからないのが、天皇制というものが歴史の表舞台にでてくる課程である。江戸時代を通じて、朝廷というものは何の権力もない有名無実な存在であったと思うのだが、それがいつの間にか表にでてくる。以前読んだ家近良樹氏の「孝明天皇と「一会桑」」(これもまた薩長史観(ここでは西南雄藩倒幕史観といわれる)に反対する本である)では、孝明天皇の祖父の光格天皇のあたりから朝廷の自立をめざす運動がはじまったとされていた。いずれにしても、江戸期の朝廷にかんする良質な資料はきわめて乏しいらしい。とくに一般の人々が朝廷をどう思っていたか、天皇をどうみていたかについの資料はほとんどないらしい。だから、ここで半藤氏がいう、一橋と紀州の賄賂合戦が公家たちを豊かにし、それが公家の影響力アップにもつながったというのは何となくわかる話なのだが、では、そもそも一橋と紀州が朝廷のお墨付きをもらおうと争う必要がなぜあったのかということがよくわからない。
 家近氏の本によれば、幕府・朝廷・諸藩のなかでペリー来航時、朝廷に期待されたのは宗教的な役割であったのだという。異国船の「調伏」、すなわち神社仏閣に異国船を滅ぼすための祈祷を朝廷が命じることなのであったという。こういう宗教的側面というのは半藤氏の本では一切論じられていない。わたくしは江戸時代はまったく世俗化した時代であると理解しているので、加持祈祷のようなことが、この時代に信じられていたとは思えないのだが。
 それでは、そもそもこの時代の“尊皇”とは何なのだろうか? 水戸藩を中心とした尊皇思想、松下村塾での吉田松陰の尊皇精神の影響がないとはいえない。しかし孝明天皇が大の攘夷論者であったことと反幕府派の朝廷をかつぐ運動とが一致したため、“攘夷”と“尊皇”が結びついたのではないかと、半藤氏はいう。
 町人たちには尊皇思想などというものはほとんどなかったのではないかという。下級武士や浪人の攘夷論も、はっきりした論理があってのものではなく、時代の空気、熱狂に動かされていただけであったという。そこから半藤氏が引きだしてくるのが(「昭和史」などでもいわれた)「熱狂的になってはいけない」という教訓である。
 “熱狂”ということを考えると、わたくしがまず想起するのが全共闘運動である。この運動が“熱狂”していたのか“醒めて”いたのか、そもそも議論の分かれるところかもしれないが。
 高杉晋作の辞世「おもしろきこともなき世をおもしろく」が全共闘運動の本体なのではないかと、わたくしは思っている。これが熱狂なのか醒めているのか、その両方なのではないかのだろうか? 《青白い炎》である。
 野村望東尼が付けた「すみなすものは心なりけり」を余計な下らないことをした半藤氏はいっている。わたくしも同感であるが、全共闘運動は高杉晋作の後裔であったというのはおかしい言い方であろうか? それが「すみなすものは心なりけり」などというほうにいってしまっては、ぶちこわしなのであって、「おもしろきこともなき世をおもしろく」のままがいいのである。
 そういえば、「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」もまた高杉晋作の都々逸であるといわれている。だが、高杉晋作結核で血を吐きながら二十九歳で死んだからいいのであって、もしも生き延びて明治の高官などになっていたら、すべてがぶちこわしになっていたかもしれない。
 さて、本来、“尊皇”と“攘夷”が結びつく必然性はない。しかし昭和前期の“万世一系の皇室”と“八紘一宇”“鬼畜米英”とで“尊皇攘夷”が再現したようにも、わたくしにはみえるので、このあたり今ひとつ釈然としない。
 要するに、(アーリア民族優越説と対応するような)日本人優秀説と、万世一系の皇室という見方、排外思想とが相互にどのようにかかわっているのかがよくわからない。
 この当時、とんでもない不景気で物価も高騰していたらしい。それで人々は、開国したからこうなったのだと思ったらしい。それが攘夷運動が広範にひろがった一つの理由でもあるらしい。その中で、和宮のお輿入れの行列は計八千人であったと本書に書いてある。たった70〜80人の貧乏公家の集団がいつのまにかこんな大行事をできるようになっていたのだろうか? 賄賂合戦のおかげなのだろうか?
 幕末史をみていると、徳川慶喜というひとが実に何を考えているのかわからないひと、行動原理がみえないひとであり、そのわけのわからなさが江戸幕府の倒壊をもたらしたようにさえ見えるのだが、その慶喜が政治の表舞台にでるようになったのは、公武合体論者の島津久光の力によって将軍後見役になったことによるらしい。その祖父の徳川斉昭がみなにきらわれていて、その孫である慶喜もまたきらわれていたらしい。この当時、薩摩は公武合体派であり、長州は攘夷派である。
 家近氏の本によれば薩摩や長州は藩政改革によって経済を立て直したとされていたが、半藤氏は半ばは密貿易によって財政を立て直したのだという。
 慶応3年(1867年)明治天皇即位。半藤氏によれば、その当時の明治天皇の関心はもっぱら自分の婚約者のことにあり、政治にはほとんど無関心であっただろうという。
 本書の主眼とするところは、慶喜大政奉還の決意と、薩摩と長州への倒幕の(偽の?)密勅の行き違いである。薩摩長州は是が非でも軍事クーデターで政権をとろうとした。大政奉還などというかたちでは困るとした、という点である。薩長側は明治天皇を「玉」としてただ利用しようとしていただけなのに、慶喜の側は「朝敵の汚名を残さず」とした。尊皇派が朝廷をただ政治的に利用しようとしただけなのに、徳川慶喜の側が水戸光圀以来の尊皇の考えにとらわれていたという皮肉である(もっとも慶喜が本心のところ何を考えていたのか本当のところは誰にもわからないのであるが)。
 慶喜がもし本気で戦う気があれば、薩長に勝っていた可能性は十分にあった。しかし慶喜が戦わないため、戦争をしたくて仕方がない薩摩は江戸で散々に挑発行為をする。ついにそれに乗って、鳥羽伏見の戦いがはじまる。ここでも慶喜が先頭に立って戦ったとすれば幕府側が勝ったであろうといわれる。しかし、錦の御旗を見た途端、慶喜の腰がひけてしまい、それで戦わずして逃げてしまったことですべてが終わってしまった。
 ここに西郷隆盛毛沢東説というのが唱えられている。双方ともに、詩人であり、戦略家、農本主義者にして武断主義、経済にはうとく、人を魅了するカリスマ性があり、永久革命を唱えつづけるひとであるという。確かにそうだなと思う。しかし西郷さんの人気というのは、日本人の好きな清貧のひと、生命もいらぬ、名もいらぬ、というひとであった点に起因すると思う。しかし、毛さんはどうもそういうひとではなかったようである。
 本書で、幕末における一番まともなひとというか、ほとんど唯一まともなひととして描かれているのが勝海舟である。自分の藩という意識を超越できていたのは勝ひとりである、と。残りは西郷さんにしても、みな藩意識からぬけきれていないとされている。
 家近氏の本でも、幕末の争いは薩長対一会桑(一橋と会津と桑名)の争いであったとされていた。戊申戦争の後、島津久光が「わしはいつ将軍になれるのか」といったという有名な話が本書でも紹介されている。
 薩摩と長州が徳川家を滅ぼして、新しい権力者になったということであり、多くのひとは、今後、薩長の権力争いがふたたびはじまるだろうと思っていた。権力を握ったもののなかで誰も倒幕後の青写真を書いていたものはいないから、新政府はまったく無能で、わずかに木戸孝允大久保利通がいた程度であった。西郷さんは薩摩に帰ってしまっている。そして、大久保が実権を握っていき、廃藩置県を断行する。
 西郷隆盛西南戦争で死に、大久保利通も明治11年に暗殺される。残ったのが、山形有朋と伊藤博文であり、当時、天皇制国家のヴィジョンをもっていたのは山県有朋くらいのものであった。その国家ができあがるのはようやく明治20年代である。大日本帝国憲法の発布が明治22年。日清戦争が明治27年。よくそんな大戦争ができたものである。
 
 歴史というのは、そうなったという事実を知ったものからみると必然のようにみえる。しかし、事実としてあるのは、薩長が権力闘争に勝ったというだけであり(それも徳川慶喜の優柔不断?尊皇精神?によって)、今われわれが知っている明治国家のようなものを作ろうという意志も計画も彼らにはまったくなかったのだ、ということが半藤氏の一番いいたいことである。
 それにもかかわらず、薩長の支配者たちが、自分たちは単なる権力闘争をしたのではなく、遠大な計画にもとに偉大な理念をもってことをなしたという、後からした正当化のための歴史の粉飾(薩長史観、皇国史観)をわれわれは信じさせられているのだと半藤氏は主張する。
 ナチスドイツが敗れたというのは、歴史上の事実である。しかし、それは必然的にそうなったというわけではない。あるいはモンゴル帝国が全世界を制覇しなかったのも偶然である。なにしろ中世ヨーロッパというのは、当時においては完全な後進地域である。その当時のヨーロッパに生きた人間で、後世、彼らの子孫が世界を支配するだろうと予想したものがいるだろうか? 近代以降のヨーロッパの世界制覇ということがなければ、キリスト教も、単なる一地域のマイナーな宗教の一つということになったであろう。近代のヨーロッパの世界制覇という事実があるから、スコラ哲学の煩瑣な議論が近代の科学を準備したというようなことがいわれる。あるいはギリシャとローマがわれわれと関係あるものとなる。
 江戸から明治への時期、世界を支配していたのは西欧であり、明治以降われわれもまた西欧文明の受容の方向に舵を切ったから、明治期に権力をにぎった薩長の下級武士たちもまた、それを指向していたのだと思いがちである。しかし、それは勝った官軍が自分の都合のいいような見方を押しつけたものにすぎないと半藤氏はいう。
 わたくしの理解では、天皇制というのは、西欧国家をみてそこに宗教的なバックボーンがあることを痛感し、それに相当するものが日本にもなければ、これからの国家を運営することはできないとした人たちが、西欧のゴッドに対応するものとして導入したものである。しかし、なぜ、それが導入可能であったのだろう。江戸期にはほとんど忘れられた存在であり、水戸光圀とか吉田松陰といった少数の変わり者の頭の中だけにかろうじてあったに過ぎない天皇という存在が、なぜあれほどの力を持つことができたのだろう。それが本書を読んだあとも相変わらず残る謎である。政治の世界から遠ざけられ、学問専一でいたはずの公家たちが、なぜ江戸から明治期にかけて復活できたのだろうか?
 家近氏の本によれば、孝明天皇という存在が注目されるようになったのは割合と最近のことであるらしい。孝明天皇があれほどの外人嫌い、ごりごりの攘夷論者でなければ、歴史は変わっていたであろうと、家近氏も半藤氏もともにいう。おそらく孝明天皇の存在を忘れさせていたものも薩長史観なのであろう。孝明天皇は明らかに政治に関心のある天皇である。それに較べると、明治天皇は非政治的人間である。しかし、それは戦後史観によるものなのではないかという疑いも残る。昭和天皇が非政治的人間であったのかというのもはなはだ微妙な問題であろう。
 天皇制というのは、よくわからない。なぜ、それが細々とでも日本の歴史の中で連続してきたのであろうか? 本当に不思議である。
 

幕末史

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孝明天皇と「一会桑」―幕末・維新の新視点 (文春新書)

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