N・N・タレブ「ブラック・スワン」

     ダイヤモンド社2009年6月
 
 前に同じ著者の「まぐれ」を読んで id:jmiyaza:20081012 大変面白かったので読んで見た。印象としては「まぐれ」のほうがずっと理解しやすい本であった。著者は現職のトレーダーであり、前著では、話題が主として投資の世界に限定されており、しかも、サブプライム問題とかリーマン・ショックといった話題に直接応える本であったため、読者としても非常に理解しやすい状況であったということもあると思う。
 本書はより一般化した話題「未来は過去の経験から類推できるか?」「帰納というやりかたは正当化できるか?」をあつかっているため、議論が散漫になり今一つ焦点がしぼりにくい。
 帰納とか演繹というのはどちらかといえば自然科学での問題であり、本書で著者の非難と罵倒の最大のターゲットとなっている「ベル・カーブ」もまた自然科学にも大いにかかわる。しかし本書で論じられるのはもっぱら人文科学や社会科学の問題(さらには、そもそも人文科学や社会科学といったものが学問として存在しうるのかといった問題)なので、議論が錯綜している印象をあたえる。
 たとえば、直近の問題でいえば、北海道での山の遭難事件ということがある。これがなぜ事件なのかといえば、遭難がおきたからである。何事もなく下山していればそれで終わりである。これよりももっと過酷な状況で登山を強行しても何事もなければ、それで終わりである。ある天候のもとで、今回のような登山をおこなえば遭難がおきる確率は1%であるとわかっているとする(しかし、それはどうやってわかるのか? 1%の確率と運が悪いという言明に違いはあるのか?)。それがわかっていて登山をおこなったとすれば、それは非難されるべきか? あるいは予想外の天候の変化があったのかもしれない。それでは予想外の天候の変化がおきる確率は? 実はこの問題は医療の現場ではつねにおきている問題である。
 もっと大きな問題でいえば、サブプライム問題は? あるいはリーマン・ショックは? なぜサブプライム問題なのか? サブプライムのシステムが破綻したからである。破綻の前にはアメリカの経済は新しい体制に入り、繁栄はずっと続くというような議論がされていた(その議論がいかにインチキであるかをタレブは徹底的に論じていくのであるが)。そしてサブプライムの破綻のあとでさえ、リーマン・ショックのような事態を想定していたひとはほとんどいなかったわけである。そしてリーマン・ショックのあとであれば、このような事態を想定できなかった人間は白痴であるとでもいったいいかたがされるのである。
 今、橋本治氏の「院政の日本人」を読んでいるが、そこで橋本氏は、平家が倒れて「鎌倉幕府」ができたのは事実であるが、頼朝には新しい体制を作ろうなどという意志はまったくなく、だからこそ幕府と朝廷が併存してしまうのであるといっている。事実としてあるのは、平家が倒れたということだけであり、新しい体制はできたのであって、誰かが作ろうと意志した結果ではないという。明治維新というのもまた、そうなのかもしれない。「(在地武者の上に立つ政治家達には)ヴィジョンがないということで、天下統治のグランドデザインがないということである。「天下と国家というものはもうある」と考えてしまって、その中での「自分の取り分」しか考えない」などというのは、なんだかほとんど今の自民党のことのようでもある。人間とは現在の状況を「もうある」ものとしてあたりまえのものとしてしまい、それが根底から覆る可能性を考えることはいたって苦手な動物のようなのである。
 タレブはいう。第一次世界大戦の前にその大戦後の世界を予想できたひとがいるか? ヒットラーの台頭のようなことを予想できた人間など一人もいないだろう? 第二次世界大戦についても同様。ソヴィエト圏の急激な崩壊は? イスラム原理主義の台頭は? あるいはインターネットの浸透は? そんなことは誰も予想できなかったと。
 第一次世界大戦からまだ100年たっていないわけである。その間につぎつぎと予想もしていなかった事態がおきてきている。そうであるなら、未来など誰にもわからないというべきではないか、と。なにしろ、現在西欧の背骨となっているキリスト教のその出発の時点で、このユダヤ教の異端思想について注目していたひとはほとんど皆無なのである。
 本書にも書かれているように、大事件を未然に防いだひとは誰からも感謝されない。むしろ予防のための投資は無駄な支出と思われてしまうかもしれない。なにしろ何もおきないのだから。
 著者はレバノンの出身なのだが、そのレバノンは千年以上にわたって、多くの宗派や民俗、思想が共存してきたのだという。しかし、今はそこはキリスト教徒とイスラム教徒の激しい内戦の場となっている。はじめはほんの数日でおわると思われていた戦争がまだ続いている。
 未来は予想できない。なにがおきるかわからない世界のことを著者は「果ての国」と呼ぶ。原著では Extremisitan である。それに対して未来が予想できると思われている世界を「月並みの国」Mediocristan と呼ぶ。「果ての国」というのは訳者苦心の作だと思うが、「異常の国」と「通常の国」くらいでいいのではないだろうか?
 著者は「仕事量を増やさなくても稼ぎを何桁も増やせる仕事と、仕事量と仕事時間を増やさないと稼ぎが増えない仕事があるという。J・K・ローリング女史は(あるいは村上春樹さんは)一度本を書いてしまえば、あとはそれが売れればいくらでも稼ぎは増える(もちろん、売れなければ稼ぎはない)。その一方お医者さんは、いくら働いてもその稼ぎには限界がある。思うに、現代の大きな問題は、そういう「仕事量を増やさなくても稼ぎを何桁も増やせる仕事」はむかしは博打のようなやくざな仕事であったのに対して、今では堅気の仕事のなかにもでてきていることなのではないだろうか? 片方では、残業につぐ残業で過労死寸前、もう一方ではコンピュータの前に座って数字を入力するだけで、その会社の何割もの利益(あるいは損失)を生みだすようにひともいるという世界はまともな世界ではない。著者の表現によれば、「今どきは、一握りの人がほとんど全部を握っている。残る人にはほとんどなんにも残らない」という世界である。「靴をデザインするほうが実際につくるよりも儲かる」
 さて、「月並みの国」の例:体重。「果ての国」の例:財産。体重がほかのひとの千倍などというひとはいない。しかし財産が他人の一億倍のひとはいる。前者は正規分布にしたがうベル・カーブの世界。後者は統計ではあつかえない世界。
 著者によれば、われわれ生き物は規則性と秩序を外界に想定する。そうでなければ生き残ってこられなかった。芸術も科学もそこから生まれた。神話も伝説も物語も小説もみな同じである。
 ある事故で、祈ったものが助かった。それをわれわれは祈ったから助かったと思いがちである。祈ったけれども死んでしまったひとはなにも言わないから。捕まった犯罪者は新聞に載る。もちろん、捕まらないものは載らない。薬の副作用の被害者はお話をつくれる。薬で助かったひとは統計のなかにでてくるだけである。わたしたちはいつ生まれたかは大体知っているけれども、いつ死ぬかはしらない。
 最後のほうに、マンデブロとフラクタルのことがでてくる。数学に弱いためか以前からどうもフラクタルというものの意義が理解できない(中沢新一氏の「雪片曲線論」なんて本を読んだのがいけないのかもしれないが)。それで「灰色の白鳥」あたりの議論がよく理解できなかった。
 間違った仮定にもとづき厳密な議論をするひと、というのが現在経済学の主流派に対する著者の揶揄である。
 
 われわれはあるいは日本の非常に大きな変わり目に、今、立ち会っているのかもしれないが(もちろん、そうでないかもしれないが)、われわれが新聞で目にしているいるのは、多数派工作がどうなったというような話ばかりである。著者のいうように未来は予測不能である。しかし、皆既日食がいつどこでおきるということは予測できるわけである。自然科学の理論の正しさは予測によって確認されることが多い。アインシュタイン一般相対性理論が予測したことが実験により確認されたことが、相対性理論の信用を高めたことは有名である。ポパーの言い方に従うなら、反証されなかったわけである。
 科学理論(ポパーの言い方でのまだ反証されていない仮説)とおなじような意味での人文科学、社会科学の理論は存在しない。経済学と心理学が一番それに近いのかもしれないが、経済学は自己の利益を合理的に追求するという経済人という概念を、実験心理学はネズミの心理学と揶揄されるようなものをそれぞれ産んだ。
 タレブはソ連圏の崩壊を予言したひとがいるかと問う。E・トッドがそうであり、わが小室直樹氏がまた予言した。とすれば、トッドの理論が正しく、小室氏の論が立証されたのか? ソ連が崩壊したのは偶然なのかもしれない。たんに運が悪かったのかもしれない。とすれば、立証されたとはいえないことになる。
 人文科学や社会科学は実験することが難しい分野であり、ポパーのいう単称言明(黒い白鳥がいた)を提出することが難しい。ソヴィエト圏の崩壊がマルクス理論の破産を意味するかさえ問題であり、ソヴィエト圏というものがもともとマルクスの思想とは何の関係もないものであるという見方もなりたつ。
 本書を読んで強く感じるのは、歴史の解釈ということの問題である。あることがおきたことが必然ではなく偶然であるのなら、それがなぜおきたのかと論じることはほとんど意味をなさないことになる。しかし、トッドのようなもっと視野の大きな議論、人間の識字率は歴史とともに向上していき、女子の識字率の向上は少子化をうみ、少子化は社会の安定をもたらすというような論はどうなのだろうか? これから歴史がすすむとともに識字率が低下してくるというような歴史もまた考えられるのだろうか?
 ポパーは《未来は開かれている》という。これは未来のことは分からないというネガティブな見方でなく、未来はわれわれ次第ということである。これは進化論そのものであって、進化にとって未来は未知である。突然変異はわれわれの世界の試行錯誤と同義である。なにかをしてみること、それがいいことか悪いことか事前にはわからないけれども、いいことであったとすれば生き残るということである。いろいろなことをするのが大事なのであって、科学から予想される一番いいであろうとされることのみをするというようななのがもっとも危険であることになる。異分子、変わり者を排除しないことが安全ということである。
 何の役に立つのかと問い、役に立つことのみを優先する社会は危うい。かつては役に立たないことの代表が学問であった。いまは学問でさえ役に立つことが求められるようになっているらしい。われわれは危ういところにいるのである。
 

双調平家物語ノート2 院政の日本人

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帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

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客観的知識―進化論的アプローチ

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