M・ブルックス「まだ科学で解けない13の謎」(1)

   草思社 2010年5月
 
 著者は科学ジョーナリスト。タイトルそのままの本であるが、謎の最初の4つは物理学関係の話題であるので、まず一括してとりあげる。
 こちらは《物理数学まるでダメ》人間なので、以下の感想も見当違いばかりであると思う、素人がこういう話題にどういう感想をもつのかの一つの例にはなると思うので、以下書いてみる。
 
(1)暗黒物質・暗黒エネルギー
 宇宙の構成粒子は何で、粒子間の相互作用をつかさどるのはどんな力なのか?ということについて、現代科学はほとんど何もしらないという話である。暗黒物質とは宇宙の星々が飛び散っていかないように星々を定位置に抑える力、暗黒エネルギーとは宇宙の膨張を加速させる力らしい。
 1917年、アインシュタインがその論文の中で、宇宙定数という反重力の項を挿入し、後々そのことを悔いたことはよく知られている。それはそのころ宇宙が膨張も収縮もしない定常状態にあるとされていたためであるが、実際にはスライファーというひとが1912年から14年にかけて、宇宙が膨張していることを示唆するデータを提示していた。現在、宇宙の膨張の発見は1929年にハッブルによってなされたとされているのだが・・。
 1933年にツヴィッキーというひとが髪の毛座銀河団を観察してその質量を計算したところ、可視物質からみつもった量の400倍大きいという結果になった。しかし、そのデータは無視された。
 1965年ごろルービンが、アンドロメダ星雲がばらばらにならないのは暗黒物質があるためではないかというアイディアにを出した。1980年ごろまでには、銀河の重力については何か特別な物質の存在を仮定しないと説明できないということについての合意がえられるようになってきた。星のようには輝かず、光も反射せず、電磁波も出さず、引力によってだけ存在が推定される何かである。だが、今にいたるもこの物質が何かということは五里霧中のままである。この物質の存在を証明するためには何かと相互作用させる必要がある。その検出のため、宇宙線の影響をさけられる地下深くに検出器をおいたりして探査しているが、検出器には何もおきないままである。
 現在宇宙が今のようなかたちで存在するということは、誕生の瞬間において宇宙が拡散せず、かといって収縮もしない絶妙のエネルギーバランスで膨張を開始したことを暗示している。宇宙の1立法メートルあたりに水素原子が6個存在している状態を1オメガと天文学者は呼ぶが、星々や銀河が存在するためには、宇宙がはじまったときのオメガ値が10の15乗分の1の精度で1に一致している必要があるのだという。さてそれならばオメガ値は現在でも1近くでなければならないのだが、物質の量(既知の物質+暗黒物質)が全然足りないという計算になるらしい。
 オメガの値を推定する一番いい手段は超新星爆発を観察することであるらしい。その観察からえられたデータはたしかに宇宙を構成する物質の引力によって宇宙の膨張に歯止めがかけられていることを示唆するものであった。だが既知の物質(暗黒物質をふくむ)だけではオメガ値は0.3にしかならない。そこで残りの0.7を説明するために追加のエネルギーを想定するというアイディアがでてきた。これらをどう解釈するかという議論の中から(ここらの話はほとんど理解できないのだが)、アインシュタインの宇宙定数が復活しつつらしい。だが、その理論値と測定値は10の120乗の違いがあるのだという。それで宇宙には多くの宇宙があり、それぞれが違う定数をもつというワインバーグの説が復活してきた。たまたまわれわれが住む宇宙はわれわれのような生命体を生じさせるのに適した定数をもっていたという「人間原理ランドスケープ」と呼ばれるものである。なぜ宇宙が今のようであるのか? もしそうでなかったら、それはわれわれにより観察されることはないからという、ある意味とんでもないものである。
 この説明はポパーのいう反証が存在する余地がない。それは多くの科学者の神経を逆なでする。宇宙が今のようである理由は説明できず、宇宙はわたしたちが住める宇宙になっているという事実をいうだけになってしまう。
 ポパー信者(これをパパラッチをもじってポパラッチと呼ぶひとがいるらしい。わたくしもポパラッチのひとりということになる)が錦のみはたにする反証可能性という科学の定義を撤回すべきであるという議論もでてきているらしい。
 それによればわたしたちが宇宙だと思っているのは、泡のように一面に浮かぶ小型宇宙の中のひとつの時空領域でしかないのであり、それらを超えて普遍的に存在する法則の探求など意味がないことになる。しかし、別の方面からの反論もある。ニュートン万有引力の法則が正しいという思いこみを捨てればいいとするものである。たとえば、はるか遠方では重力は想定されているのより少しだけ強いとしてニュートンの法則を微調整すればいいとする修正ニュートン力学(略してMONDと呼ばれる)の方向である。さらにはMONDの相対論ヴァージョンというのもでてきているらしい。これが正しければ暗黒物質を想定する必要がなくなる。さらには光の速度は不変ではなく、昔は違っていたという論まででてきているらしい。ついには宇宙の等方性に対する疑問や、19世紀末に却下された悪名高いエーテルを復活させるべきという疑問まででているようである。

(2)パイオニア変則事象
 これは1970年代に打ち上げられたパイオノア10号と11号という宇宙探査船の軌道が、既存の重力理論では説明できないという話である。何か未知の力がパイオノア号を引っ張っている。これが修正ニュートン力学(MOND)で説明可能であるとい見方がでているらしい。

(3)物理定数の不変
 ニュートン万有引力の法則にはGという定数がでてくるが、この数字は計測から導かれる数字であり、その数字にならなければならないという根拠はない。それならばこの数字は万古不易であるのか?
 星からの光の放出にはαという微細構造定数とよばれる定数がかかわる。120億光年のかなたのクエーサーから放出された光の測定で、そのαが120億光年前には現在とはほんの少し(100万分の1)小さかったとするとうまく解釈できるデータがみつかった。このαは量子電磁力学におけるもっとも重要な定数である。
 われわれの今までの宇宙解釈は、この定数が不変であるという前提でなりたっている。
 ガボンのオクロという町の鉱石の分析から、かって(20億年前)この土地が天然の原子炉であったことが推定されている。ここでの検証ではαの変化はないという方向を示した。しかしそれに対する反対の見解もある。
 2006年には陽子と電子の質量比が遠い昔には今よりも(0.002%)大きかったという説がでている。
 ある人によれば、ある科学理論を自然法則であると宣言するのは人間なのであって、その人間はしばしば誤りをおかす。
 定数は時間と空間によって変動しうるのではないか? ファインマンは量子電磁力学の基礎についてずっと疑問を抱いてきた。

(4)常温核融合
 これは単純にいえば、投入したエネルギー以上の大きなエネルギーをとりだすことが可能であるという主張であり、原始爆弾と同じであるが、ずっと穏やかな方法によってそれが可能であるとするものである。なんとも単純な装置によるもので、ビーカーに重水をいれ、この中にパラジウムの棒の一端をひたし、その反対端にバッテリーの電極をつなぎ、もう一方の極にはビーカーの内壁にそって白金のコイルをつなぐというだけのものらしい。この再現性については議論があり、公式には常温核融合は否定されているらしいが、その否定には問題があることを著者は指摘している。1989年に最初に発表されて以来、これに対しては否定的な見解が多いが、投入した以上のエネルギーが得られるかどうかは別にして、そこで何らかの核反応がおきているのは確からしいと著者はしている。たとえ、それが現在の主流派が信奉する物理法則とは決定的に対立するものであるとしても。

 以上のような話をみていると、相対性理論が提唱される直前の物理学の世界をどうしても想起してしまう。いまからみればそこにあるのは既存の理論に対する固執の強さである。既存の理論をまもるために、エーテルといった未知の物質が勝手にあることにされてしまう。暗黒物質とか暗黒エネルギーといったものも既知の理論の整合性をまもるために必要とされるらしい。これはニュートンの法則が時空を超えて成立することを前提にすると必要とされてくるようである。ニュートンの法則に微修正をくわえるだけでそういうものを消し去ることができるならば、その方がよほど美しいようにわたくしには思える。少なくともオッカムの剃刀にしたがえば、そちらに軍配があがるのではないだろうか?
 わたくしの理解によれば、アインシュタインの相対性原理もまたニュートンの法則の微修正であったということなのだが、違うのだろうか? 相対性原理がでてわかったことは、ニュートンの法則が「真理」ではなく仮説であったということである。
 ポパーがどこかで、カントの哲学は、ヒュームによれば絶対に真理には至れないはずの人間が、万有引力の法則という真理に至れたという背理に答えようとするものであったということをいっていた。カントは間違えたので、ニュートンは真理を提示したのではなく、仮説を提示したのである。われわれは永遠に真理にいたることはできなくて、われわれが提示するものはつねに仮説にとどまるというのがポパーの哲学の根幹であると思う。
 ポパーの哲学のもう一つの柱には客観性ということがあって、物理法則はわれわれが存在しようとしまうと、それとは関係なく成立するとする主張である。これは量子力学の観察者問題などに見られる主観的?物理学を否定しようとするものであり、アインシュタインの「神はさいころ遊びをしない」の驥尾にふそうとするものだと思うが、学者世界の中では多勢に無勢の少数派のようである。
 物理法則は時空をこえて不変ではないとする見方は、どことなく客観性ということに反するように思われる。科学者の中にポパラッチが多いのは、科学者は自分は客観の側にいると信じるひとが多いからではないだろうか。本書に書かれている物理学者たちの保守的な姿勢、いままで流通している説へのこだわりは、それに反対する説がどこかで客観性を否定するようにみえる部分があることが大きいのではないだろうか。と同時に、クーンのいう「科学者の大多数は真理の探求者ではなく、その時点時点で流通している学説の大枠の中で、その学説を補強するノーマル・サイエンス活動をおこなっているという説を裏書きするものともなっている。
 ここで示されている「人間原理」という話は、前から気になっている。これは今のような宇宙がその創成のときに出現する確率はきわめて低く、ほとんどありえないような低さであるということを背景にしていると理解している。われわれが今このように金持ちであるのは、われわれの祖先が宝くじの特等に何十回も当たったとしか考えられないということについて、そんなことはあり得ないという説明と、でもわれわれが凄い金持ちであることは事実なのだからそのありえないことが過去にあったのだ、という説明の双方をそれはふくむ。生命の誕生から現在のわれわれまでの進化というのは、それが偶然の積み重ねからおきたということでは納得しがたいという疑問は多くのひとがもつものであるが、それに対する答えは長い長い時間がそれを可能にしたというものである。試行錯誤だけによってでも、長い時間があればそれが可能になるということである。
 しかし宇宙の創成というのは一回限りのことである(と理解しているのが違うのだろうか?)とすると、その一回限りの事象にとんでもなくありえないようなことがおきたとするのはなかなか納得しがたいことではある。そして、その納得しがたいということの隙間から、そうなったのは実は宇宙の設計をしたものが存在するからであるという話が忍びこんでくる。あちらのひとの書いた本にはしばしばそういう匂いがただよう。神様がでてくるのである。宇宙のはじまりにおいて神様が、将来知的生命体が生まれるように初期条件を設定したというような方向である。究極の理神論なのであろう。本書はさいわいそういう方向には一切むかってはいないが、これは西洋人のしゅっく宿痾なのではないかと思う。そしてその宿痾がなければ、科学が西洋で発達することもなかったかもしれない。
 神が設定しておいてくれたはずの法則や真理を発見しようという動機が裏で強く働いていなければ、科学の探求への動機が生じなかったかもしれない。たいていの文明は物質というものにあまり興味を示さないのであり、西洋文明は例外である。それは事物の中に秩序があるという信念が存在するからである。これは決して自明のことではないから、なぜわれわれのまわりに理解可能な秩序が存在すると信じるのか?というようなことを、イーグルトンもいっていた。科学という行為をおこなう動機は科学のそとにあるということである。ケプラーは天球の音楽を解明しようとして、その法則を発見したのだともいわれている。カントールもその無限大論は神の栄光を証明するものであるといったことを考えていたらしい。もっとも科学の起源は紀元前6世紀のイオニアにあるという考えもあるわけで(イオニアの魔力・・ホールトンというひとが作った言葉で、科学の統一を単なる作業仮説としてではなく信じること、世界は整然としてわずかな数の自然法則で説明できると深く確信することを指す)、それならキリスト教に先立つのではあるが、「私たちは、どこからきて、なぜここにいるのか」という疑問に応えるものがかならずしも人文学ではなく、科学でもありうる、あるいは科学であるという信念も持つ文明として西洋文明はある。
 わたくしがこういう本を読んで面白いと思うのは、だが、《そうか神様はそうしておいてくれたのか!》と感心するためではなく、単純に《あゝ、そうなのか!》だけである。《ユーレカ!》である。わたくしが発見したのではないけれども。梅棹忠夫さんが「知りたい!」というのは人間の業なのであるというようなことをいっていた。知恵の木の実といえばキリスト教、業ということになれば仏教なのだろうか? 難儀なことではある。
 わたくしがこの手の本を読んで面白いと思った最初は、大分以前に読んだ、ディヴィスの「ブラックホールと宇宙の崩壊」であったような気がする。そこではじめてカントール対角線論法というのを知ってびっくりし、無限大の濃度とか、自然数無理数の違いなどというのを知った。このあとしばらく数学基礎論の啓蒙書を読みあさったように記憶する。数学基礎論というのは観念の遊戯の極致のように思えるが、その一つと思える非ユークリッド幾何学相対性理論とかかわっていることも知ってまたびっくりした。そもそも虚数などというのは数を拡張していく過程で出現してくる自然とは対応しない、観念のうちにだけ、人間の頭にだけ存在するもののはずである。しかしそれが量子力学とかの数式にでてくるのである。不思議である。
 わたくしが読んだ唯一(であるのが情けないが)の量子力学啓蒙書であるファインマンの「光と物質のふしぎな理論」については本書の(3)でも言及されている。今回読み返してみて、その「未解決の部分」でいわれていることが少しは理解できたように思った。本書で微細構造定数αと呼ばれているものはファインマンの本では結合定数eと呼ばれているが、その数値の導出には何の根拠もないこと、自分や朝永振一郎らがノーベル章を授与される理由となった「くりこみ」理論にはどこかにインチキがあること、それゆえに量子力学はいまだに数学的な基礎を欠くことが、そこには述べられている。
 「ふしぎな理論」では、自分は「自然がどのようにふるまうかを説明するが、なぜそのようにふるまうかは説明できない。なぜなら、それを知っているひとはだれもいないから」ということをいっている。ここが問題なのだと思う。定数を観察から導出することは「どのように」ふるまうかの説明となる。理論的に定数を導出できるなら、それは「なぜ」そのようにふるまうかの説明となる。
 理論が“正しい”ということがどういうことを指すのかである。その理論が観察される事象をすべて説明できるなら正しいのであろうか? 「ふしぎな理論」でいわれているのは、量子力学はいままでのありとあらゆるテストに合格してきたということである。だから“正しい”といえるのだろうか? ピタゴラスの定理について、どのような直角三角形について検定してみても正しいから成り立つといういいかたでは、今後もそれがなりたつということはいえない。例の“黒い白鳥”である。しかし幾何学的証明がなされれば、それはつねに成り立つのであり、“正しい”ことになる。幾何学的証明はトートロジーの展開であるから、実は《AがBであれば、AはBである》といっているにすぎない。だから、新しいことは何も述べていない。一方、自然数全体よりも無理数全体の方が多いことは証明できる。
 法則が存在するということは、その背後にその法則を存在させている原理が何かあるということを想定させる。ある法則は現在までのところ観察されたすべての事象にあてはまるけれども、それでもそれがなぜ成立するのかわからないということはわれわれを不安にさせる。まして法則が現在と過去においては、あるいはこことあそこでは違うということもわれわれを不安にさせる。
 なんだか書いていることがわけわからなくなってきたけれども、要するにこのあたりのことがわからないのである。もしもある説明がなるべく多くのことをカバーできるかどうかということがその説を判定する唯一の基準になるのであれば、さまざまな説の優劣を論じることができなくなるのではないかと感じる。なぜそうなるのか? 神様がそうさせているから?というような説明と、ある物質はこれこれしかじかの性質をもつからという説明の間に優劣がなくなってしまうのではないだろうか?
 “正しさ”というのは経験をこえたところに根っこを持たなければならないのではないかと感じる。過去と現在では重力定数Gは異なるというのはいい。ただその場合、時間の経過とともに重力定数がなぜ変化するのかということの説明とワンセットであってほしい。そうでないと単なる事象の後追い、辻褄あわせとなってしまうように思う。
 ここまでの4章でいわれていることは、現在の物理学が非常によくわれわれのまわりでおきる事象を説明してくれるが、それにもかかわらずその基礎はきわめて危ういということである。ある変則事象の存在が一方ではニュートンの法則を否定するように見え、もう一方ではまだ未知の惑星の存在を示唆するようにみえる。そのような過程で冥王星が発見された。それは観察されることによって、一方に軍配があがり、ニュートンの法則は補強された。たぶん暗黒物質というのは冥王星なのであり、それが存在するのであれば、ニュートンの法則はふたたび補強される。しかしそれは観察にかかりにくいもので、なにしろ引力を通してしか現れてこないらしい。引力というのはニュートンの法則の要なのだから、これは困ったことである。パイオニア号の軌跡はニュートン力学と背馳するものらしい。だから法則をまもるため、いろいろな説明が提示されているらしい。それを「おっと、電気を消し忘れていた」というような話で説明したいらしい。しかし、それが相対性理論に道をひらいた「水星の近日点移動問題」に相当するものなのではないかという見方もまたありうることを、著者は指摘する。クーンのいうパラダイム変換が迫っているのかもしれないというのである。
 

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