橋本治「巡礼」

     新潮社 2009年 8月
     
 ゴミ屋敷に住む男を主人公にした長篇(中編?)小説である。
 橋本氏の評論というか批評というのかは、全部ではないにしろかなりは読んでいて、それぞれに面白く、教えられるところが多いが、小説についてはどうもぴんとこない。わたくしが考える小説というものと何かずれがあるのであろう。作中人物と作者の関係がよくみえない。前に読んだ「蝶のゆくえ」(集英社 2004年)のときもそう感じたが、作中の登場人物について客観的で、批評的で、解説的なのである。ある人物の行動はこれこれこういう理由によると説明される。
 わたくしの偏見によれば、小説とは「個人」を描くものであるのだが、この「巡礼」に登場する人物たちが「個人」であるとは思えない。非常に変ないいかたになるが、数学でいう「任意の」とでもいいような感じで、その人でなくてはいけないとは思えない。
 それではここで何がえがかれているのかといえば、日本の戦後の農村社会から都市生活への変貌、古い「お店」的世界から「会社」社会への移行、「家」から「個々のひと」への変化であり、それにもかかわらず日本には「個人」がいないということ、つまり自分から動くひとがいなくて、いつも受け身でいるひとばかりであること、などである。とすれば、小説の主人公になれるひとが日本にはまだいないということが本当のテーマなのかもしれない。この「巡礼」という小説ほど日本の私小説から遠いものはない。(「勉強ができなくても恥ずかしくない」などは結構、私小説的であると思うが)
 最近、村上春樹の作品の国際性がいろいろ論じられているが、橋本氏の作品ほどドメスティックなものはないだろうと思う。氏の作品は平家物語をあつかっても、律令制度を論じても、つねに現在の日本に氏が感じてているほとんど肉体的な違和感に端をはっしている。この「巡礼」もまた戦後日本論であり、その空疎、寂しさを描いたものである。しかしそうであるなら、小説を書くなんてまだるっこしいことをせずに、そのままを論じたほうがよほど直接的ではないかと思う。しかし「寂しさ」を描くには小説のほうが適切なのだろうか? 橋本氏の小説をそんなに読んでいるわけではないが、「巡礼」の印象は「ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」にもっとも近いように思った。
 どうでもいいことだけど、本書にはトーンとかディテールといったカタカナ語が結構でてくる。調子とか細部とかではいけないのだろうか?
 

巡礼

巡礼

蝶のゆくえ (集英社文庫)

蝶のゆくえ (集英社文庫)