R・W・スクリブナー C・S・ディクソン「ドイツ宗教改革」

   岩波書店 2009年2月
 
 門外漢であるわたくしからみると、キリスト教カトリックプロテスタントである。ロシア正教というのがあることは知っているが、なんだかよくわからないのでドストエフスキーのことだと思っている。それならカトリックは何かというと、T・S・エリオットとD・H・ロレンスを足して二で割ったもので、プロテスタントピューリタンですなわち禁煙運動だと思っている。もう滅茶苦茶である。
 もっといい加減なことをいえば、超越性というのだろうか、カトリックの方が神と人が遠く、プロテスタントの方が近い。プロテスタントの方は、聖書の言葉をどう読むのが正しいのかを人間が決することができるとするのだから、人間の方が神より偉くなってしまい、なんだか変な気がする。本書には、ルターを新たなる預言者とみる立場もあるとあるが、そう見なければ変なのではないだろうか。
 ソヴィエトをつくったのはロシア正教ではないが、ヨーロッパの背骨はやはりカトリックプロテスタントであろう。その二つがある時代、血で血をあらう闘争をした。先にカトリックがあり、そこからプロテスタントが派生してきた。事実である。そうであるならプロテスタントが生まれた時がどこかになければならない。世界史の授業ではルターがそれを生んだとならう。1517年にヴィッテンブルクの城教会の扉に「九五カ条の提題」を張ったのがはじまりである、と。
 しかし、本書によると、そもそもその「提題」が張り出されたのかどうかさえも不確かなのだそうである。われわれが世界史で習ったものは、後世につくられた神話であるらしい。事実として後で大きな勢力ができてきたわけだから、その起源がなければならない、そういう後知恵が生んだものだという。
 ルターがあることを主張するとたちまち宗教改革というものがおき、あとはひとがそれを信奉するかしないかという問題だけが残ったという、一人の偉大な英雄がなにもかも一気につくりあげたという神話である。しかし、最近の歴史学では、このような神話は解体されつつあるというのが本書の主張である。
 中世の「キリスト教ヨーロッパ」はほとんどキリスト教的ではなかった。異教の信仰・儀式、とくにアミニズム、精霊、神通力といった魔術世界への信仰の表面にキリスト教信仰の薄い化粧をしただけのものだった、という。そうだろうなと思う。ゲルマン民族は自身の信仰を維持しながら、大移動をしてきたはずであるから。
 橋本治氏の「宗教なんかこわくない!」に「(キリスト教は)“地域の神を滅ぼす”をやってしまったので、その“滅ぼされた神々”が後々に“オカルト”となって祟るのである」とある。中世のキリスト教は、今のわれわれがオカルトとみなすものと五十歩百歩のものであったのかもしれないので、それが正統となり、その他がオカルトとみなされるようになったのは、ただただキリスト教が多数派として生き残ってきたことの結果にすぎない。だが、その見方を裏返すと、現代においては「科学」が正統とみなされるようになった結果、「宗教」的な何かにかかわるよなものすべてがオカルトのようなあつかいをされるという主張もでてきうる。ある時代に主流であるということが、そのまま「正しい」ということとイコールでないとすれば、それは当然の主張である。問題は「科学」の陣営が自分たちの見解は価値中立的に正しいと言い張ることにある(価値中立という見方もまた一つの価値観であると批判者はいうであろう)。
 中井久夫氏は「治療文化論」でヨーロッパにおける「平野の啓蒙主義的文化」と「森のロマン主義文化」ということをいう。ルターなどはその混交であるのかもしれない。中井氏はいう。「(日本において)森の文化を根こぎにしたのは浄土真宗で、その支配地域は民話・民謡・伝説・怪異譚を欠くことで今日なお他と画然と区別される。世俗化への道をなだらかにした、プロテスタンティズムに類比的な現象である。」(「分裂症と人類」) プロテスタンティズの国々はオカルトへの志向がカトリック圏よりも弱いのだろうか? 「エクソシスト」という小説はアメリカの小説で、映画もアメリカ製ではなかっただろうか? ドラキュラはルーマニアの話ということになっているらしいが、キングは「呪われた町」でアメリカの田舎に吸血鬼を出現させたし、「IT」では狼男その他なんでもでてくる(この小説を読んで銀の弾丸を知った)。どうもあまり世俗的とは思えない。
 しかし浄土真宗が広がった地域にかぎらず、日本が世界のなかでも著しく世俗的な国であることは間違いはないはずである。それは織田信長という当時としては祟りなどということをまったく怖れなかったようにみえる不思議なひとによる比叡山の焼き討ちから、一向一揆撃滅、キリシタン弾圧から江戸時代における檀家制度の確立にいたるさまざまなことの総和なのであろうが、中井氏は比叡山こそは日本における観念的宇宙体系の算出場所であったとし、それが根こぎにされたことが、徳川期以後の日本の、体系的思考、思想の欠如、宗教的感覚の不足の原因であったとする。中井氏はその事実を指摘するだけで、別に不幸な事態としているわけではないが、もしも日本にいいところがあるとすれば、なによりも世俗化が進んでいるところにあるのではないかと思う。日本に住んでいて宗教に劣等感をもっているというようなことになると、なにもいいことがないのではないだろうか?
 大分、脱線したが、宗教改革とは民衆の「キリスト教化」というルターの前からはじまっていた多くの運動の一つであったとする見方もできると著者はいう。ただ、議論が難しいのは、「悪い」宗教、「良い」宗教という価値判断がついてまわることである。今の宗教が洗練されたものであるという価値判断にたつと、そのころの宗教はただ粗野である。内面にかかわる霊的な宗教が良い宗教であり、外的で現世的な宗教は悪いものであるといった見方に立てば、悪魔払いなどという現世利益の追求は(それが豊かな収穫の希求であっても)、宗教としてはまともなものとはされない。われわれはいつも現在の目で過去をみることをしがちである。
 中世のひとびとは、自然界の秩序と安寧は聖なる力に依存すると考えていた。秘蹟的な宗教観である。聖なるものは物質世界において物質を介して作用する。聖遺物への信仰もそれである。教会はそのような力をもつものは教会だけであり、聖職者だけであるとした。自分たちは悪魔よりも上位の力があると主張した。教会は魔術の魅力とたたかっていたのである。天候祈祷、豊作の祈りもまた教会の仕事であった。キリスト教の側も自分たちがそういう魔力をもつと主張していたのである。教会は民衆にそのような「魔術」をおこなうことに対して多額の金品を要求した。それは民衆は憎んだ。
 そこへルターがあらわれた。ルターは知識人であった。救いの問題がルターの問題であった。彼は唯名論の影響をうけ、魔術や秘蹟への懐疑をもっていた。同時に彼は聖書とくに聖パウロの書簡に大きな影響をうけた。そこには悪魔や悪霊、天使、霊的な存在、亡霊、騒霊が書かれていたので、その存在を信じた。ウエーバーがいう「世界の魔術からの解放」はおきなかった。ルターはまた終末の日の急迫も信じていた。かれは反キリストの存在を信じており、それがローマ教皇と重なってみえた。かれは黙示録的情熱をもち、神と悪魔の闘いという中世的信念をもっていた。
 
 こういう本ができるのもポスト・モダン思想の影響なのだろうと思う。本書を読んで想起するのは、たとえばクーンの「科学革命の構造」である。ケプラーコペルニクスの提示した惑星の運行の論は現在でも理解可能である。しかし彼らが抱いていた宇宙観はわれわれのものとはまったく異なる。あるいはニュートンの理論は現在でも通用するが、その世界観はわれわれのものとは根本的に異なる。クーンの言い方での「共約不可能性」である。
 ルターもまた悪魔の存在を信じ、悪魔が教皇という姿をしているとするのであるから、その世界は「通常科学」の目で世界をみているわれわれとはまったく異なるものであった。おそらくルターは現在存在するプロテスタント世界のようなものをつくろうとはまったく思ってはいなかったし、そのようなものには反対であった。とすると、プロテスタント思想をルターという人間から探る試みは根本的に方向が違っていることになる。
 現在、終末の日が近いということを思っているキリスト教徒はどのくらいいるものなのだろう。ハルマゲドンなどという言葉が流布しているのだから、ある程度はいるのだろうか?
 ルターの世界も、ニュートンの世界も、今のわれわれからみればおぞましい世界である。その世界を、しかし、今のわれわれの目で判断してはいけないというのがポスト・モダンの見解である。
 だが、わたくしには、その世界から脱したこと、世俗化したことはいいことであるとしか思えない。地獄に堕ちるなどということを信じているひとが多数いる世界がまともなものとはどうしても思えない。だから今のアメリカの社会はどう考えても真っ当なものとは思えない。しかし日本でも、前世とか来世の存在を信じているひとはとても多いようである。同じなのかもしれないが・・。
 もう一つ。ルター訳の聖書の翻訳の語の選択が資本主義の精神を生んだというウエーバーの説は、この当時のドイツの識字率がたかだか4〜5%であったということを考えるだけでも、つらいものがあるのではないだろうか? もちろん資本主義の精神がでてきたのはルターよりももっとずっとあとのことであるとしても。
 

ドイツ宗教改革 (ヨーロッパ史入門)

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宗教なんかこわくない! (ちくま文庫)

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治療文化論―精神医学的再構築の試み (岩波現代文庫)

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