奥村康「「不良」長寿のすすめ」(2)

   宝島社新書 2009年1月
   
 以下は、「不良」のすすめとは関係のないまじめな医学的議論である。もっともあまり真面目にはとられないかもしれないが・・。
 
 《コレステロール値は300まで放っておけ》
 心臓の医者はコレステロールを徹底的に悪者視する。しかし、コレステロールは細胞膜の大事な成分である。各種ホルモンのもとになる物質でもある。
 昭和44年当時著者が大学をでた当時には脳出血が多かった。当時はまだ貧しく栄養が十分ではなく、誰でも肉や卵や牛乳がとれる時代ではなかった。だから血管が弱く、脳出血が多かった。栄養がよくなったので脳出血患者は急激に減った。
 脳の栄養として何より大事なのはコレステロールである。中央線ホームで朝、線路に飛び込むひとは55歳から60歳までが多く、ほぼ全員がコレステロール降下剤を飲んでいたという研究がある。
 コレステロールは心臓病さえなければ300位までは高くてもいいと考える学者も多い。
 コレステロールを200以上と以下に二分して寿命をみると高いグループのほうがずっと長生きである。女性は男性よりコレステロールが高いが心臓病が多いということはない。
 だからコレステロールは高いよりも低い方を心配しなければいけない。
 もちろん極端に高い場合は問題だが、総死亡のリスクが一番低いのは、総コレステロール値が200〜280であるとされている。総コレステロール値180未満の癌死亡者は280以上の人の約5倍。
 食生活が贅沢になったので、コレステロール値が増えてきている。粗食がいい、という説があるが嘘である。02年まで日本のコレステロール値は220以下が望ましいとされていたが、アメリカが240以下としていたので、それにあわせて240以下とした。今アメリカでは治療勧告値は300以上である(このことをわたくしは本書ではじめて知った。本当なのだろうか? 今ネットでみてみたら270以上という数字はあるらしい)。
 コレステロールが高いのは確かに心臓には悪いのかもしれない。しかし人間は心臓だけで生きているわけではない。専門医は臓器だけをみている。しかし(著者のような)免疫学者は人間全体をみる。人間全体にかかわるのは、免疫・神経・ホルモンである。欧米人の死因の第一は心臓病。しかし日本では癌である。そうであるなら、日本人がコレステロールをさげる必要はどこくらいあるのだろうか?
 
 このような話は多くのひとにとっては、初耳に近いかもしれない。しかしそれは医療関係者にとっても似たようなものかもしれないので、少なくとも不勉強なわたくしとしてはそのことを知ったのは、恥ずかしながら割合に最近のことで、6年前に柴田博氏の「中高年健康常識を疑う」を読んだことによってである(id:jmiyaza:20040105)。柴田氏は奇矯なことをいって世間の耳目もひこうとしているわけではなく、いたって真っ当な議論としてそういう主張をしていることはその著書を読めばすぐに理解されるはずである。
 それなのになぜ、そういう情報が耳に入ってこないのかというと(不勉強はさておいて)、専門家がそのようなことを否定しているからである。具体的にいえば「日本動脈硬化学会」ガイドラインというものがある(最近、高脂血症という呼び方から脂質異常症と変わった)。以下のようなものである。

   脂質異常症の診断基準(空腹時採血)
 高LDLコレステロール血症  LDLコレステロール 140mg/dL以上
 低HDLコレステロール血症  HDLコレステロール 40mg/dL未満
 高トリグリセライド血症  トリグリセライド 150mg/dL以上

 この診断基準は薬物療法の開始基準を表記しているものではない。
 薬物療法の適応に関しては他の危険因子も勘案し決定されるべきである。
 LDL-C値は直接測定法を用いるかFriedewaidの式で計算する。
 [LDL-C]=[総コレステロール(TC)]−[HDL-C]−[トリグリセライド]×1/5
 (TG値が400mg/dL未満の場合)
 TG値が400mg/dL以上の場合は直接測定法にてLDL-C値を測定する。

 これを見て、多くの方が変に思われるであろうと思う。なぜならどこにも総コレステロールという項目がないからである。実はあるので、下の方の、LDL−C=TC−・・という計算式にでてきている。しかし診断基準にはどこにもでてこない。
 それからコレステロールが低いほうが問題にされていない。実はこれも問題にされているので、HDLコレステロールが低いほうは問題にされる。LDLというのはいわゆる悪玉のコレステロールであり、HDLは善玉であるから、悪玉が高いのと善玉が低いのが問題というのは一応は理解できる(奥村氏は、そもそも善玉悪玉という見方が間違っていると指摘するが)。しかし奥村氏が問題視している、総コレステロールが低いのもまた悪いのではないかということについては、まったく脂質異常の問題としては取り上げられていない。これが困るのは、この動脈硬化学会のガイドラインのために、最近の健康診断とくに特定健診(いわゆるメタボ健診)では、総コレステロール値自体が測定されなくなってきていることである。これも実はFriedewaidの式を変形して、LDL-C][総コレステロール(TC)]=[LDL-C]+[HDL-C]+[トリグリセライド]×1/5 とすれば算出される。しかし、総コレステロールとHDLコレステロールの測定にくらべると現在通常おこなわれている(直接測定法ではない)LDLコレステロールの測定法は精度がきわめて低いとされている(だからこそ、Friedewaidの式などというものがでてくる)。
 おそらく従来の低コレステロール血症に相当するものは、低LDLコレステロール血症にほぼ相当するのであろうが、従来の測定法では総コレステロールでは180であったものが、どのくらいのLDLにほぼ該当するのかがはっきりしないし、そのLDLもきわめてあやふやな測定法で測定されているわけである。
 一番困るのは従来さまざまに主張されてきた総コレステロールの値についての議論が、総コレステロールがルーチンに測定されなくなることで空をきってしまうことである。奥村氏の議論も柴田氏の議論も、あなたはコレステロールをまとめて見るという時代遅れなやりかたで議論しているので、今はもう、それをわけて見る時代なのですよ、という議論で相手にされなくなってしまう。もしも、コレステロールが低いことが癌の発生を高め、うつの人を増やすのであれば、これは由々しき問題である。動脈硬化学会の見解としては低コレステロールで癌が増えたりうつが増えたりすることはないという、あるいは低コレステロールで癌が多いのは、順序が逆で、癌患者だからコレステロール値が低いのだという(だとすれば、コレステロール値は非常に有用な癌の指標になるわけだが・・)。
 おそらくこれからLDLコレステロールが低いと癌が本当に多くなるのか、うつが多くなるのかについてのデータが集まってくるのであろう。かりにコレステロールが低いと癌が多い、あるいはうつが多くなるというデータが得られたとする。しかし、コレステロールを増やすいい治療法はない。一方、コレステロールが高い場合には、それを下げる有効な薬がいろいろと開発されてきている。問題はそれが非常によく効くことである。いわゆるスタチン系といわれる薬で、最初に開発された薬で2〜3割、最近の薬では5割くらい下がることもある。そうだとすると、このガイドラインにしたがって治療をすると、低いのもまたいけないのであれば、危険領域まで低下してしまう患者さんがいくらでも出てきてしまうことになる。LDLが140以上のひとは健康診断をすればいくらでもみつかる(今、健康診断をしていて一番異常と指摘されるのが多いのが脂質異常である)。もちろんガイドラインには「この診断基準は薬物療法の開始基準を表記しているものではない。薬物療法の適応に関しては他の危険因子も勘案し決定されるべきである」と書いてある。しかし、他の危険因子、たとえば血圧が高いとか糖尿病があるとかがあれば治療した方がいいですよ、と読めるような書き方である。
 わたくしは奥村氏ほどの勇気はなくて、総コレステロールならば280をこえたら治療するのかなと思っているが(LDLならば200?)、これはかなりガイドラインを逸脱している。もしも、わたくしが総コレステロールが270あるいは、LDLが190の人を「そんなもの気にしなくていいですよ」といって無治療で放っておいて、その方が心筋梗塞で倒れるようなことがあると、わたくしは訴えられるかもしれない。現在の医療裁判では、日本における標準的な治療をしていて生じたことについては医療者には責任がないということになっているらしい。そして標準的な治療を定めるのがガイドラインということになっている。そのようなことを考えて、本当は必要はないのではと思いながらも治療している医療者もいるかもしれない。一方、薬物治療をしている方が癌になっても、それは偶然なのである。それでわたくしが訴えられることはないであろう。
 問題は製薬会社が現代における巨大資本であるということで、新薬の開発には何百億という費用がかかるらしい。当然、発売された薬は大いに売れなくてはならない。販売促進に有効なデータは大々的に宣伝され、都合の悪いデータは伏せられる。薬をのんだひとが皆倒れるという副作用でもあれば隠しようもないが、大規模な疫学調査ではじめて明らかにされるようなものであれば、われわれが日常臨床をしていて気がつくことは不可能である。医療者は個人経営の零細企業のような形態で仕事をしているわけであるが、それが大資本の大宣伝攻勢にさらされているのだから、よほど用心していないと偏った情報を鵜呑みにしてしまうおそれがある。
 今の疫学の限界は何らかの出来事をみることでしか統計がとれないということである。たとえば心筋梗塞がおきる率であるとか死亡率などである。しかしそこまでのことはおきないが、動脈硬化が進み、血流が落ちることによって、認知症がすすむということがあっても、その統計処理は不可能に近い。だから生活のパフォーマンスの維持のためにはコレステロールはやはり下げたほうがいいという議論には今のところ反論ができない。柴田氏の本を読み、奥村氏の本を読んでも、二人ほど歯切れ良く言いきれないのは、そういう事情もある。
 いづれにしても、現在のように情報が非対称的にしか提供されない時代には、このような書物が書かれることはとても重要なことであろう。しかし、「まじめ」は寿命を縮める。「不良」長寿がおすすめ、というタイトルの本の中にでてくると、奥村氏がわざと奇矯なことをいっているとうけとるひとがでてきてしまうのではないかとということが少し心配である。

 あとメタボ健診などの議論もあるが、長くなったのでまた別に。
 

まじめは寿命を縮める 不良長寿のすすめ  (宝島社新書)

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中高年健康常識を疑う (講談社選書メチエ)

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