内田樹氏の最近のブログ「院内暴力とメディア」について

 
 最近の内田樹氏のブログに「院内暴力とメディア」と題されたものがあった http://blog.tatsuru.com/2010/08/04_1026.php。ちょっとその内容について気になるところがあったので、以下、書いてみる。

 内容は以下のようなものである。最近の毎日新聞によれば、『奈良県医師会が医療関係者対象にアンケートした結果、医師・看護師の60%が患者から暴力や暴言による被害を受けていた。医療現場での「院内暴力」は年々問題化しており、それにより医療従事者の相当数が「仕事への意欲が低下した」「仕事に不安を感じている」。そのことについて、新聞はこのように「知らぬ顔」で報道しているが、この「院内暴力」に関してはマスメディアは「他人顔」ができる筋ではないと考える。
 過去十年、メディアは医療現場における「患者の増長」について、まったく批判的スタンスをとったことがない。医療現場における「患者の権利」の無条件擁護、医療事故における医療従事者への集中的なバッシングを通じて、「医療従事者に対して苛烈な批判を加えれば加えるほど、日本の医療水準は向上する」というイデオロギーを刷り込むことにマスメディアは深くコミットしてきたと私は考える。
 院内暴力をふるう人々ひとりひとりが別にとりわけ邪悪な人間であると私は思わない。彼らは「ふつうの人」である。「ふつうの人」が暴力的になるのは、「医療従事者に対しては暴力的にふるまっても罰せられない」という「社会の空気」を読んでいるからである。院内暴力をふるう人々の80%は、「そういうことはよくない」と教えられれば「そういうこと」をしない人たちである。その人たちが「そういうこと」をするのは、「そうすれば医療が改善される」という「刷り込み」があるからである。彼らは「ほとんど善意」に基づいて、医療従事者を罵倒し、こづき回すのである。
 私は医療における「賢い患者になろうキャンペーン」とか「インフォームド・コンセント」論といった「政治的に正しい医療論」に対して、「こんなことを続けたら、日本の医療は崩壊する」と繰り返し警告していた。さすがに医療崩壊の実情を知るにつれて、最近ではメディアの医療バッシングの筆勢は衰えたが、それでも自分たちがこの現場の荒廃に「責任がある」という言葉は口にしない。たぶん、そう思ってもいないのだろう。
 社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本は、「社会的共通資本」と呼ばれる。それは、広い意味での人間の生きる「環境」を形成する。社会の土台である。その要件は、軽々に変化してはならないということである。「社会的共通資本は、それぞれの分野の職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって、管理、運営されるものであるということである。社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されているからである。」(宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000年、22頁)人間の生きる環境そのものが人間のコントロールを離れた状態になること、それをメディアは無意識のうちに臨んでいる(まま、おそらく「望んでいる」の誤変換)。「カオス」と「カタストロフ」に対する「抗い難い欲望」がメディアを駆動している(それが最高の「ニューズ」であり、そのような破局的状況においてメディアに対する市場の需要は頂点に達するからである)。混沌と破局を求めるのは、人間本性の一部であるから、そのような欲望を「持つな」ということは誰にも言えない。けれども、そのような欲望に駆動されてあることについて、メディアの当事者はもう少し自覚的であってもいいのではないか。』(ほぼ半分くらいを引用、一部改変(「思う」→「考える」など)。改行を一部はずした。)

 疑問点は二つある。一つは院内暴力をふるう人々は「ふつうの人」だろうかということである。もう一つは『社会的共通資本は、それぞれの分野の職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって、管理、運営されるもの』なのだろうか、ということである。
 
 わたくしは院内暴力をふるう人々は「ふつうの人」だとは考えない。なぜなら大部分の患者さんや家族のかたはそういうことをしないからである。たしかにそういうひとが増えたのはマスコミが医療従事者へのバッシングにゴーサインを出したからであろう。しかし彼らがそうするのは、そうするのが気持ちがいいからであって、「そうすれば医療が改善される」などとことを考えてでは決してないだろうと思う。そういうひとはさまざまな場において、暴言を吐き暴力を振るっても自分が罰せられないと判断する限りにおいては、いつでもそうするだろうと思う。なぜなら他人に対して権力者としてふるまうということはとてもいい気持ちだから。しかし、それは気持ちのいいことであるかもしれないが、同時に恥ずかしいことでもあるという感じもまたともなうから、多くのひとはそういうことをしないのである。しかし、そういうことを恥ずかしいとまったく感じない、自分が正義であると信じることに何も疑問を感じないというタイプのひともある割合には存在するようで、そういうひとが医療現場における暴言・暴力のひとになるのであり、そしてここからは完全にわたくしの偏見である可能性が高いが、そういうひとがまた新聞社で働くことを志向したりするのではないかと思う。わたくしの偏見によれば、新聞記事を書いているひと(の一部)と医療の場で暴言を吐くひとは同じ体質のひとなのであるから、新聞が医療について『医療現場における「患者の権利」の無条件擁護、医療事故における医療従事者への集中的なバッシング』の記事を書くのは当然のことなのである。
 そういうことを書くのはわが身を振り返って恥ずかしいことではないか、そんな偉そうなことを言えるほど自分は立派な人間なのかと反省する、そういうタイプの人間は新聞社にはいかないのかもしれない。自分は「羽織ゴロ」であって、こういう記事を書いている人は、それが自分の身過ぎ世過ぎであり、そうすれば新聞が売れるからで、われながら情けないことをしているなどとは、多分思っていないだろう。さらに偏見を続ければ、左翼の側にいくタイプのひとというのはそういう人が多いのではないかと思う(あるいはある時期にはそういう人は右の側にいき、最近では左の方にいくとか)。「偉そうな顔をして他人に説教する快楽」を最大の動機として行動するひとである。陸軍内務班から大学内部のヒエラルキーの中、あるいは会社組織など、どのような場においても、そういうひとがある立場に立つと、その快楽を行使する誘惑に抗することは難しい。そして医者だって、医者になる動機のどこかにそういう快楽を行使できることへの期待というものがないとはいえないだろうと思う。
 最近の医療バッシングに対して悲憤慷慨している医者の一部には自分の「被尊敬権」の失墜を悲しみ、患者さんや家族に対して権力的にふるまえなくなってきたことの嘆きを動機としているものがあるように思う。わたくしは普段朝日新聞しかみていないからよくわからないが、新聞のなかで医療バッシングをもっとも熱心にやってきたのは毎日新聞なのだそうで、医者の一部には毎日新聞不買運動をしているひとがいる。結構、これには毎日新聞も音をあげているという話もあって、最近のマスコミのバッシングのトーンダウンはその成果であると思っている医療関係者もいるらしい。
 『さすがに医療崩壊の実情を知るにつれて、最近ではメディアの医療バッシングの筆勢は衰えたが、それでも自分たちがこの現場の荒廃に「責任がある」という言葉は口にしない。たぶん、そう思ってもいないのだろう。』とあるが、わたくしは責任があると思っていると思う。まずいなと思っていると思う。しかし、思っていても口にしない、あるいはできないのだろう。なぜなら、自分たちの言説は間違っていない、自分たちはつねに正しい言説を述べているという信念が彼らのレーゾンデトールであって、それが失われれば新聞の『権威』『被尊敬権』が失われてしまうと思っているからである。
 大東亜戦争翼賛から平和憲法擁護に変節しても恬然として恥じることのない人たちなのである。しかし、そこでの原理は一貫しているわけでもあり、今現在、他人に偉そうな顔をして説教できる立ち位置はどこかということなのであり、「欲しがりません勝つまでは」から「一億総懺悔」まで、その原理から見れば立場はぶれていない。彼らは現在は「反権力」を標榜しているが、それが知識人の世界の中で「権力的」にふるまえる立ち居地だからなのである。その言説は、「権力」をいくら批判してもそれが崩壊する心配はないという安心感に立脚しているのだが、強固であると思っていた「権力」が案外と脆弱で、目の前でぐらぐらしだすと、途端にこんなはずではなかったとあわてだすのである。
 
 もう一つ、『社会的共通資本は、それぞれの分野の職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって、管理、運営されるもの』であるのかという点について。教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本は専門家が自律して運営すればいいものであって、それは他からの批判から独立していなければいけないものなのだろうか?
 他の分野のことはわからないが、医療の分野においてはむしろ長らくそのような方向で運営されてきたわけで、それが医療の世界における独善と隠蔽体質を生み出してきたのだと思う。もしも、医療者が専門家として全権を委任され、一切を負託されているのだとすれば、それは誤ってはならないことになる。つまり誤りは隠さなければいけないものとされてしまう。これは現在のマスコミが陳謝しないこととパラレルであると思う。自分たちは完全であり誤りなきものであるという主張は、誤りを認めない、認めることができないというのと表裏一体である。
 
 一番大事なことは人間は不完全なものであり誤りは絶対に避けられないという認識である。だから批判は必須なのであるが、批判する側も同様に誤っている可能性があるということを認識していることで必要である。批判する側が自分は絶対に正しいという立場に立つこと、それがすべての暴走がはじまる原点となる。
 ある時まで、医療者は、自分は専門家なのであるから、自分にまかせてもらえばすべては間違いなく進行していくという立場をとっていた。しかし、医療行為もまたきわめて不完全なものであり、しばしば過つものであるという認識が最近では広く共有されるようになってきている。これはよいことであり、医療への批判の達成なのであると思う。だからマスコミからの批判はこれからも必要であり、医療への監視も必須なのであるが、マスコミの記事の最大の問題は、それが感情的・感傷的であって、論理的・理性的でない点にある。「××子さんは、夫の遺影の前で泣き崩れた。あんなに元気で、笑顔で入院していった夫が、物言わぬ姿で帰ってきた。こんなことがあっていいのだろうか。「医療ミス!」 そういう言葉が××子さんの頭をよぎった。しかし病院はそのようなことを一切みとめようとしない。・・・」といった書き方が困る。困るけれども、そうでない書き方をするとインパクトがないのであろう。煽ること扇情的であること、それはマスコミの宿命なのであるのかもしれないが、せめてそれを自覚していること、そのような記事の書きかたは、冷静な議論とは対置するものであることをわきまえた上で記事を書くこと、それが求められているのではないだろうか。自分は医療被害者という弱者の側に立つ正義の人間であると自己陶酔して記事を書いているのであれば、生産的な議論がそこからでてくることなど期待できるはずがない。そこから生じてくるのは破壊と崩壊だけである。しかしマスコミは破壊するのが自分の仕事、建築するのは別のひとの仕事と思っているのかもしれないのだが・・。
 医療者は専門職であり、医療の場には専門家にまかせたほうがいいことがあるのは事実である。しかし、専門家はその事実の上に開き直ってはいけない。専門家にまかせておくと腐敗してくる部分もまたたくさんある。だから、専門家にまかせておけばいいというのは危険である。どうも内田氏は性善説に立っているようで、人間にはとんでもないひとも多くいるという部分にいささか配慮が足りないのではないかという気がする。
 どうしようもない欠点だらけの人間たちがそれでもなんとか一緒にやっていくにどうしたらいいのかというのが議論の出発点でなければいけないのだと思う。
 以上に書いたことはポパーの「寛容と知的責任」、竹村公太郎氏の「情報公開は全てのインフラ」に依拠するところが大きい。以下に関連する部分を示す。

 知識人にとっての古い命令は、権威たれ、この領域における一切を知れ、というものです。あなたがひとたび権威として承認されたら、あなたの権威は同僚によって守られるであろうし、またあなたは同僚の権威を守らねばならないというのです。
 わたくしが叙述している古い倫理は誤りを犯すことを禁じています。誤りは絶対に許されないのです。そこから、誤りは誤りとして承認されないことになります。この古い職業倫理が非寛容であることは強調するまでもありません。そして、それはまたいつでも知的に不正直でした。それはとりわけ医学においてそうなのですが、権威を擁護するためにあやまちのもみ消しを招くのです。「寛容と知的責任」(「よりよき世界を求めて」所収)

 今の社会でマスコミを敵に回したら負け。味方にしないまでも、一応こちらの論理が理解され引き分けに持ち込む必要がある。マスコミの世界で引き分けたあとは、直接の関係者へ地道な説明を続ける。しかし、マスコミの世界で負ければすべて頓挫する恐れがある。・・マスコミにどうしたら理解を得るか・・「情報は全部出さねばだめだ」「情報を全部出して初めて、信用してくれる」「情報を公開しないで行う広報は空しい」・・マスコミに信頼されれば、事業の判断は「感情」ではなくて「理」によってなされる。マスコミは判断しないまでも、賛否両論を併記して報道するようになる。・・白黒の決着を急ぎたがるマスコミが両論を併記する。そこに持ち込めばマスコミと会話が成立したことなのだ。・・「情報公開」は社会的コミュニケーションのインフラつまり土台なのだ。「情報公開は全てのインフラ」(「日本文明の謎を解く」所収)

 おそらくかなり直近まで、医療の世界で医者は本当のことをいっていない、情報を公開していないと思われていたのだろうと思う。そうであるなら弱者である患者の側は感情を武器にした感傷的な言説で抵抗するしかないという論理がマスコミの意識の根っこにあったのではないかと思う。インフォームド・コンセントといっても実際には医者の説明はあまり理解されることはないだろうと思う。しかし、とにかくも医者の側が自分のもっている情報をすべて公開しているという信頼感が醸成されること、そこから医者と患者の本当のコミュニケーションがはじまるのではないかと思う。
 

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

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日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント

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