今日入手した本

 諸般の事情でなかなか本屋でゆっくりと本を見ることもできない状態が続いていたが、ようやく時間ができ久ぶりにまとまった買い物をした。(*)は本日の朝日朝刊の読書欄で紹介されていたもの。

 三島由紀夫が死んだ日にいろいろなひとが何をしていて、それをどのように受けとめたかを書いたものだが、本当にそれが書いてあるだけで全体を俯瞰する著者の視点が見えないために印象は平板である。因みに、わたくしはその日、午後に内科診断学の授業があり、例によって午前の授業はさぼって昼でてきて学食で昼を食べようとして、そこのテレビでニュースを知った。わたしの記憶では、「盾の会の会員、自衛隊に乱入。三島由紀夫自殺」というものだったと思う。三島が趣味でやっていた「盾の会」の愚かな会員が自衛隊に乱入し、三島由紀夫はその責任をとって自宅で死んだというのが第一感だった。だがニュースをみていると、三島もその中にいるようである。そこで、愚かな会員が「先生!、ともに立ちましょう!」などというので、責任をとってともに死んだのだろうと思った。倉橋由美子もエッセイでいっていたように、「天皇!」とか「盾の会」とかいうのは冗談であって、世の中をからかっているのだと思っていた(いまだに、そうではないかという気持ちもある)。「ああ、これで「豊饒の海」は未完で終わってしまったなあ!」と思ったのだが、自宅帰ってに夕刊を見ると、その日の朝、完成原稿を新潮社に渡してあったとあって、??と思った。文学より行動などといっていたのに、なんだ結局文学を捨てられなかったのではないか、女々しいではないかと思った(今でも、「豊饒の海」は未完のまま、謎を残したままのほうがよかったのではないかと思う。あの最後の絵解きで、全体がきわめて矮小なものになってしまったのではないかと思う)。
 

現代文学論争 (筑摩選書)

現代文学論争 (筑摩選書)

 江藤淳倉橋由美子の論争について書いてあるので買ってきたのだが、これについてはあまりあたらしい情報はなかった。もう一つ「フォニー論争」は江藤淳辻邦生丸谷才一と論争したのかと思っていたので、思い込みを修正できた。江藤淳がいったのは彼らの作品は「文学」という理念が先行してできているもので、その作品が書かれる必然性に乏しい、そこには自己がかかっていない、そういうものは所詮二流なのであるということなのではないかと思っている。頭で書いた作品であって、その人の生き方全体が反映していないとか。それが即、私小説の擁護であるといえるのかは何ともいえないように思うが、わたくしは吉田健一とその崇拝者である倉橋由美子愛する人間であり、その驥尾に付して私小説が嫌いである。なんといっても私小説は読んでつまらない。そもそもそれは礼儀作法に反するものであるように思う。礼儀作法などということにこだわるような人間は文学とは縁なき衆生であるという見解もあるであろうが、それでも文学とは文明の産物であるのに私小説は文明に反するのではないだろうかと思う。とはいっても丸谷才一の小説が文明的であるかといえば、?であるし(よいのは「笹まくら」と「梨のつぶて」と「後鳥羽院」あたりではないだろうか?)、辻邦生の小説も読めない。大体、小説が文学の中心とされているのがおかしいというのが吉田健一の文学論の原点なのであるが・・。
 
こんなときどうする?――臨床のなかの問い

こんなときどうする?――臨床のなかの問い

 徳永氏の本はずっと以前「死の中の笑み」を読んだだけであるが、本当の臨床のひとという印象をもっている。(*)
 
捕食者なき世界

捕食者なき世界

 地球の陸地が緑の世界なのは、草食動物が植物を食べつくさないからである。草食動物は捕食者がいるために緑を食べつくすことはない。しかし一度、そのバランスが壊れると・・・、という話のようである。(*)
 
ベッドルームで群論を――数学的思考の愉しみ方

ベッドルームで群論を――数学的思考の愉しみ方

 数学の啓蒙書を読むのが好きである。(*)