ウルフ ペデルセン ローゼンベルク「人間と医学」(終)

     博品社 1996年
 
 第14章「心と体」。
 この章の冒頭に「この本の主なテーマの一つは、病人はたんに「機械的な故障」をもった生物体ではなく、考え、行動し、希望し、悩む人間だ、ということにある」という文がある。機械は考えず、行動せず、希望を持たず、悩まない。それならば、たとえば犬や猫は「考えず、行動せず、希望を持たず、悩まない」のだろうか? 動物は行動する。しかし犬は考えているのだろうか? 希望を持ったりするだろうか? 悩んだりするのだろうか?
 医学用語の身体的 somatic と、心的 mental という区別を著者らは問題にする。医学は結局のところ somatic の部分にしかかかわれない(かかわらない)ものなのだろうかということである。もちろん著者らはそれを否定する。体と心の双方にかかわることのできない医学活動は著しく不完全であるとする。
 そこでカントの「純粋理性批判」がでてくることになる。“自然”は因果律にしたがう。しかし人間の“自由”は自然の法則にしたがうことはなく因果律から独立しているという論点である。モツアルトの交響曲が自然の物理法則の因果律から生まれるなどということがあるだろうか? それは人間の自由のなによりの証左なのではないだろうか?
 それに異を唱えるものとしてギルバート・ライルの説が紹介される。彼のいう「機械の中の幽霊」の論である。人間という機械のなかに姿もみえず大きさも重さもない幽霊がいて、それが機械を動かしているという論である。この幽霊は一切の物理化学的法則から自由であり、またそれの作動の原理はしられていない、そんな馬鹿なことがあるかとライルはいう。
 著者らはライルの議論に否定的であるが、それはライルの論を承認してしまうと人間の自由と尊厳が失われると感じているからである。デカルトの二元論とスピノザの一元論を紹介し、スピノザの論では人間のは自由が存在しなくなること論ずる。
 著者らは、現代の哲学においてはスピノザの説が主流であることをみとめるが、それに異をとなえるポパーの論を紹介する。物質的世界(世界1)、意識的経験の世界(世界2)、文化的産物の世界(世界3)の三つを区別する3世界論である。ポパーの論は世界1と世界3は世界2を介在することなしには交渉しえないとする点に特徴をもつ。多くの哲学者が否定する世界2の独立性をこのような形で救おうとするのがポパーの論の特徴なのである。著者らはポパーがこのような形で人間の自由を擁護したことを高く評価するのであるが、それが十分な科学的な根拠をもたないものであることをみとめる。そして現状では、一元論と二元論をその場その場に応じて自由に使い分けることを提唱して本書を終える。
 
 こういう議論を読んでまず感じるのは、こんなことを論じても医療をおこなう上では何の役にも立たないのではないかなということである。医療の場というのはきわめて雑多なものの寄せ集めでできているのだから、そこにピュアな原理をもちこむことは不可能でもあるし、意味もないだろうと思う。役に立つものならなんでも使うというのが医療の唯一の原理であって、ただ現在の医療の場においては役にたつものは圧倒的に多く somatic の方から供給されているという事実があるだけである。しかし一方では、患者‐医療者関係が非常に大きなファクターになることも事実である。プラセボ効果というとんでもないものが医療の効果を左右したりもする。しかし患者‐医療者関係は決して科学の範囲にはいってくることはないだろうと思われる。プラセボ効果を最大限に発揮するためのマニュアルというのも作れないだろうと思う。マニュアル化した途端にプラセボ効果の過半は失われるだろうと思う。
 わたくしは一元論と二元論という問題について何の意見ももたないが、解決のヒントはジェームス・ランゲ仮説あたりにあるのではないかと漠然と感じている。例の「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのである」という説である。動物がある状況におかれたとき、とっさに逃げる。その時「怖い」と感じているのかどうかは確かめようもないが、環境が肉体にある変化をおこさせていることだけは間違いない。それを言葉をもった人間は怖いという言葉で、あるいは悲しいという言葉で表現しているというだけであって、人間と人間以外の動物に特に境界はないはずである。この本の著者らは「考え、希望し、悩む」のは人間だけで、それは人間が能動的な存在であるからで、人間以外の動物は環境に対してただ受け身で反応しているだけといいたいように思われる部分がそこここに見られて、それが気に入らない。やはり著者らはキリスト教圏の人間であると感じる。
 著者らは人間と人間以外の動物の間に線を引くのだが、線は生きているものと無生物の間に引かれるのだと思う。ベイトソンのいう「差異が一つの原因となる《生ある世界》」と「ビリヤード球や銀河系のような力と衝撃が出来事の原因となる《生なき世界》」である。後者が因果律の世界である。では前者では因果律は働いていないのか? そんなことはないだろうと思う。ただそこを支配するのは“量”だけではなく“関係”でもあるということである。因果律は今のところ“量”にしかかかわれない。手紙(最近ではメール?)を出したが返事がない、という事態は物理的には何もおきていない。しかし関係には大きくかかわる。そこには因果律があることはあるのであるが、一対一対応がないから物理的法則を作ることができない。医療の場においても、患者‐医者関係、患者‐看護師関係といったものについては法則をつくることができない、その場その場のでたとこ勝負にならざるをえない。著者らはそこに無理にある程度の法則性あるいは方向性を作りたいと思っているように見えるが、それは無理な注文であると思う。
 ポパーの3世界論は、世界2という主観の世界を肯定したことに意味があるのではなく、世界3は世界1とは別の独立したものであるということをいった点が新しいのではないだろうか?
 わたくしが「機械の中の幽霊」という言葉を知ったのはアーサー・ケストラーの「機械の中の幽霊」でであったが、この本はライルを批判した本である。わたしはライルの「心の概念」を読んでいない。デネットは確かライルのお弟子さんだと思う。デネットの本はななり読んでいるから、それで補強して推測すると、帰着するところは生気論やアニミズムの否定なのだと思う。ケストラーはどうしても人間について譲ることのできないぜひとも擁護したいところがあって、それで獲得形質の遺伝の擁護(「サンバガエルの謎」)とか「ホロン」とかいうほうにいってしまう。全体は部分の総和ではないということが変に強調される。最近でも医療の世界の一部に「全体医療」とかいうようようなことを主張する方々がある。わたくしはそういうものにどうしても胡散臭いものを感じてしまう。そういう方々のいうことをみていると「魂」とかいうようなものを実体としてみているようである。そういうは困ると思う。生物学の歴史は生気論やアニミズムの克服の歴史なのであるのに、またぞろそういう方向に逆戻りはまずいと思う。本書は「総合医学」「統合医学」「全体医療」の方々のような胡散臭さは感じられないものの、それでもなにか微妙にそういう方向への気配を感じる。
 人間もまた一個の動物なのだというところを拠り所にしないと、医療の世界にはあちらこちらに落とし穴が潜んでいるので、そこに落ち込んでしまう危険がつねにあることをしっかりとみていくことが大事なのであると思う。
 

人間と医学

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精神と自然―生きた世界の認識論

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機械の中の幽霊 (ちくま学芸文庫)

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