(9)2011・3・26

  
 昨日の「雨がガアガア降つゐます」の続きである。
 これはアメリカの核実験についての話である。昭和35年ごろに書かれた文であることが重要で、そのころは東西冷戦というものが存在していた。ソ連とか中国とか東欧とかは天国で、西側は悪の巣窟。当然、北朝鮮も夢の国で、たしか「千里馬」運動とかいうのがあって、マスゲームで多くのひとが金日成首相をたたえている姿をみて、何とすばらしい国なのだろうと感涙に咽せんでいるひとがたくさんいた。みんなが私心をすてて人民に奉仕している夢の国がそこにあると心底信じていたのである。
 それに対して、西側は最近の石原都知事の言い方を借りれば我欲だけの荒んだ国、自分のことさえよければ他人などどうなってもかまわないと思う利己主義者、我利我利亡者の集合体とされていた。東=善、西=悪という図式がかなり広範にうけいれられていた。その図式によれば当然アメリカの核実験は帝国主義的侵略のためのものなのだから悪、ソ連の核実験は戦争を抑止する平和のためのものなのだから善というような、今から思うと実に奇妙な議論がおこなわれていた。
 だから原水爆禁止運動というのも実は西側の核実験に反対という政治運動であって、社会党系と共産党系の別々の原水爆禁止運動推進団体があった。ついでにいえば、今の若い方にはもうわからないだろうが、社会党というのは今の社民党であって、いまでこそ社民党は小さい政党であるが、かつては最大の野党(ごく一時期は政権を担当したこともある)であった。共産党は一度も多数の議席を獲得したことはないが、共産党を支持することは知識人の良心の証というようなことが、一部の方面においてはかなりの程度信じられていた(今でもそう思っているひとも少しはいるかもしれない)。
 そういう歴史が日本で原子力の問題について議論するときに相当足枷になっているのではないかと思う。つまり、原発推進派=右、原発反対派=左というイメージが議論の前から存在してしまって、エネルギーをどうするかについての「科学的な」議論にはなかなかならないのである。そしていうまでもなく、「科学的」などという価値中立的な装いは欺瞞なのであって、「科学的」というのは一つのイデオロギー的立場なのであるというポストモダン側からの科学論も多くの支持者がいる。
 さらに、困ったことに、日本に革命をおこして共産党一党独裁体制をつくって日本を天国にするというような議論こそさすがにあまりみられなくなったが(それは事実として、東欧圏が崩壊してしまったからで、それがおきる前には、大部分のひとにとって、「鉄のカーテン」の向こう側があっけなく消えてしまうなどというのは、想定することさえ非現実的な、ありえそうもない話の極致だった)、そのような方向を模索していたひとたちの一部(かなり?)が「反=科学」「反=文明」というような砦に移動していて、原発についての議論が文明論のような方向にいきなり飛んでいってしまい、同じ土俵の上での議論が成立してこないのである。
 さらに困ったことに、右と左の対立以外に「公派」と「私派」という対立もあって、その観点からするといきなり右と左が意気投合したりもする。左にいくひとのかなりは「利己主義への嫌悪、自分さえよければほかの人はどうなってもかまわないという行き方への唾棄」をバネにしているひとであり、そういう心情は右のひとの一部にも濃厚に存在する。自分のために生きるのは醜く、日本のために生きることは美しいというような何かである。「公」が「人民」であれば左、「日本精神」とか「西欧カトリックの伝統」とかであれば右なのかもしれない。
 最近、一部で日本人賛美のような論がでてきているのが気になる。なんだか「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」とかいった言葉がでてくるのではないかと心配である。「貧しくとも心豊かな日本!」とかいった方向である。「とんとん とんからり」と隣組がでてきて、おばさんがたすきをかけて街角にたち、若い女性の(あるいはおばさんも対象か?)「化粧が濃い! 非国民!」などと取り締まるようなことにはならないだろうか?
 他人のことを思うというのは究極の利己主義からもしれないということは念頭にいつも置いておく必要がある。他人のことを思っている自分はなんとすばらしい人間なのだろう、という自己肯定の回路が働いているだけかもしれないのであり、本当に考えているのは自分のことだけかもしれない。
 とにかく、誰もが容易に正義の立場にたてる場所ができてしまうというのはかなり困った事態である。「一億一心火の玉だ!」などといいだすひとがいないことを祈りたい。
 
 テレビなどで原子力専門家というひとたちが連日いろいろなことを言っている。それを見ていると井沢元彦氏がいっている「言霊信仰」ということを感じる。現在おきていることの展望について、最悪の場合にはどうなるのかということを誰もいわない。パニックを恐れてということかもしれないが、「少しづつ前進しています。なんとかコントロールできつつあります。」などというが、最善の場合でも、安定まで必要とする日時はこのくらい、普通にいけばこのくらいで、最悪の場合は今までの努力は水泡に帰して事態はこのようになることが予想されるなどということはいわない。もし言って、実際にそうなった場合、お前がいったからそうなったといいだすひとが必ずでてくるからである。何かを口にするとそうなってしまう。口にしなければそうならないという不思議な信仰である。
 原子炉の安全性を議論する場合、非常に低い確率でおきる事態については、そんなことを議論すると実際におきてしまうかもしれない、だから議論をしないでおこうというようなことはなかったと信じたいのだが・・。