(30)2011・5・29 「空気」

 
 以下に書くことは、もっぱら本日の「朝日新聞」朝刊の記事によっている。例の海水注入問題である。
 記事の時系列表によると、

3月12日18時5分に東電本社が国から海水注入の指示を受ける。

 とある。この文は受け身であって、この国というのが何であるかがわからない。
 また記事によれば、

20時5分に海江田通産相が原子炉等規制法に基づき海水注入を命令

とある。
この文には主語があり、法的根拠が示されている。となると「18時5分の記事」は何なのだろうか? 本文を読むと、

 12日午後2時50分、東電清水社長が海水注入を指示。

 とある。その指示により19時過ぎに注入がはじまったのだそうである。
 さて注水や停止の指揮権限は現場の原子力防災管理者である発電所長である吉田氏にあるのだという。この指揮権限というのもわからない。注入をおこなうか否かの判断の権限が含まれるのだろうか? あるいは通常はその権限はないが緊急時にはその権限を有するのだろうか?
 今回の混乱の原因は、19時過ぎからすでに注入がはじまったが、官邸にいた東電の幹部から「首相の了解が得られていない。まだ議論のさなかである」という連絡が、東電本社緊急対策室と原発の指揮現場をつなぐテレビ会議の場にもたらされたことにあるようである。
 武藤副社長は、

 首相の了解がなくしては注水できないという空気だと伝わり、本社と社長が合意した。理解いただけるまで中止しようとなった。

 と説明しているのだそうである。東電としてはいったん中止を上層部は決めたようである。ここでの問題は「首相の了解がなくしては注水できないという空気」の「空気」である。
 別の本社の幹部は、

 首相の了解を得るまでの一時的な中断で、ある面でやむを得ないという風に本社側は思っていた。

 といっている。ここの問題は「ある面」と「思っていた」である。
 さてテレビ会議で、官邸の雰囲気すなわち「空気」が伝えられ、それについて所長が反対しなかったので、所長も中断を了解したと東電の幹部は理解したのだという。問題は「理解」である。中断の方向で合意が形成されたと「理解」したが、注水や停止の指揮権限は所長にあるために、あえて本社からの中断の指示はしなかったのだという。問題は「あえて」である。
 原発の現場では、海江田氏の命令の後、それをうけて所長名で、

 20時20分に海水注入を始めた。

 と東電本社にファックスしたのだという。
 さてわからないのが、午後2時50分に東電社長が海水注入を指示した時点で、その情報は官邸に挙げられていたのだろうかという点である。注入の指示をしたが、開始については官邸の指示を待つということになっていたのだろうか? あるいは準備ができ次第、現場の判断で開始してもいいことになっていたのだろうか? 19時の注入開始も官邸に伝えられたのだろうか? それを中止させる権限を官邸側はもっているのだろうか?
 問題は「首相の了解がなくては注水できないという空気」という部分である。これをすなおにとれば、了解がなくても注水できるのだが、しかしそうしてはまずい「空気」があるということである。管首相は止めろとも続けろともいっていない、ただ俺が了解しないうちに注水をはじめることはないよなという空気を作ったのである。
 ここからはわたくしの想像に過ぎないのであるが、東電側は自分たちの専権事項として、注水を決め、その準備もすすめ、19時過ぎからは実際に開始した。しかし、官邸サイドから「首相の了解がなくては注水できないという空気」があることが伝えられ、それがテレビ会議にもつたわり、みんながこの「空気」を了解した。しかし、そこにあるのは「空気」であって具体的な指揮とか命令ではないのだから、「空気」を伝えるだけで会議は終り、反対がでなかった以上、みな賛成したのであろうと東電幹部は(希望的観測として)思い込み、あるいは(もっとうがった見方をすれば)官邸がああいう無茶をいっているが、現場はそこをうまくやって欲しいと期待し、その期待を吉田所長が阿吽の呼吸で理解し、具体的な命令はなかったことを楯に、注入を継続した、ということなのではないかと思う。
 東電の自己判断による注水の開始と、海江田氏の指示による命令による開始の2種類の開始ができてしまった。しかも東電幹部としては、「首相の了解がなくては注水できないという空気」をちゃんと現場に伝えてあるのだから、そして反対がでなかったのだから中断されたはずと官邸側には伝達し、一方、現場がうまくやって注水を継続してくれているのならば、それならばそれでもいい、いずれにしても、それはあくまで現場の判断であって、自分たちはそんな命令はしていないのだから、自分たちには責任がないという、官邸と現場の両方の顔を立てる曖昧な行動をあえてとったのではないだろうか?
 朝日新聞の記事の見出しは「注水中断 明確指示なし」である。日本の集団においては、いつどこで誰が決定したかが明確でないままに、ある方向がおのずから決まってしまい、それに誰も逆らうことができないようになることがしばしばある。それを山本七平氏は「空気」と呼んだ。たとえば、戦艦大和の特攻出撃である。誰がどう考えても無謀な作戦である。論理的にはありえないものである。しかしその当事者は「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」といっている。「戦後、本作戦を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏しようと思わない」という発言もある。論理として議論すれば無謀であるかも知れない。しかしその場にいて、その空気を知らないものには絶対に理解できないことなのだ、ということである。「首相の了解がなくては注水できないという空気」などというのも、その場にいないものには通じようもない話である。しかし「空気」は明確な指示がない場合でも、ものごとを支配する力を持つ。
 同じ山本七平氏は「「あたりまえ」の研究」で、

 おもしろいことは、公方(将軍)の命令であっても、その命令をうけた個人が即座にそれに従って単独で行動してはならず、必ずそれを衆議に諮って全員一致で行動しなければならないという規定である。これは、時によっては、衆議によって将軍の指令を返上することもあり得ることを示し、決定権が将軍の命令にあるのか、衆議にあるのか明白でない点で興味深い。これは戦後の民主的といわれる組織運営にもしばしば現れる現象・・。

 といっている。これまたわたくしの推測であるが、吉田所長は「首相の了解がなくては注水できないという空気」を知らされたとしても、自分の部下が「とんでもない。そんなことできるわけがないだろう」という方向で一致しているならば、その「空気」の指令を無視できるのである。《テレビ会議で、官邸の雰囲気すなわち「空気」が伝えられ、それについて所長が反対しなかったので、所長も中断を了解したと理解したと東電の幹部は判断した》というのも、いくら自分たちが命令しても、現場が総意でそれに反対すれば、実際にはその命令は無視されるという日本の伝統文化?をよく理解していて、あえて命令を出さなかったのではないだろうか? 山本氏は「空気」と対になる言葉として「実情」という言葉を挙げる。現場の「実情」を無視した命令は遂行されないのである。
 
 以上、わたくしの推測ばかりを書いてきた。「空気」などというのは議事録には残らない(残せない)。東電幹部の方がどう考えたかとか、吉田所長というひとがどう考えたのかというようなことを推測で書くというのは非礼きわまりないことである。大変もうしわけなく思う。
 ここで書いたことを、日本の非常事態において、誰が指揮命令権をもち、どのような過程でそれが実行されるのかということへの、一つのありうるかもしれない可能性についての考察と理解していただければ幸いである。誰が指揮したわけでもなく、どこにも命令もないにもかかわらず、あることがなされたり、あるいはなされなかったりすることは大いにありうるのではないかということが、ここでの主張である。そして、もしもそのようなことがありうるとするならば、それは日本のリスク・マネージメントにおいての大きな問題となるはずである。
 

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー)