石川迪夫「考証 福島原子力事故 炉心融解・水素爆発はどう起こったか」(2)
東北から関東にかけては、5つの原子力発電所があり、15器の原子炉が2011年3月11日の時点で設置されていた。
青森の東通発電所は津波の被害をうけなかった。あとの女川、福島第一・第二・東海第二は津波の被害を受けた。女川と福島第二では外部送電線が生き残った。東海第二では外部電源はすべて喪失したが、2台の非常用ディーゼル発電機が起動し電力を供給した。福島第一以外は電気を使えた。その結果冷却停止ができた。
これが意味するところは電気さえあれば、原子力は人間の手で制御できるということである。福島第一以外の原子力発電所も地震と津波により設備に大きな被害が生じたが、それにもかかわらず、その被害だけでは炉心融解とか水素爆発をおこしてはいない。ところが福島第一では外部電源が10日間も停止した。
福島第一の敷地は35メートルの高さの丘陵にある。その丘陵を掘り下げて、海抜10メートルの高さに整地したところに設置されている(5・6号機は13メートル)。冷却用の海水ポンプは海抜4メートルに設置されている。
著者は3月11日の夕刻、福島第一原子力発電所に津波が来襲し被害を受けたというニュースを知って、我が耳を疑ったという。原子力発電所が建設される敷地は津波の影響をうけない高さであるという地震学者の話をいささかも疑っていなかったからであるという。今から40年前、安全審査の席上、「原子炉の敷地高さは津波に対して十分なのか?」と質問したところ、ある地震学者が「駆け上がるような津波は複雑な形状のリアス式海岸でのみおきるのであり、広い大洋に面するオープンな海岸では、津波は奥行きの深い高潮と考えればいいのであり、日本の場合、大洋での津波の高さはせいぜい6メートルを考えておけば十分である」と答えたのだという。
3月11日の時点で、福島第一原発では、1〜3号機が稼働中で、4〜6号機が点検で休止中であった。
この地震により7回線引き込まれていた外部電源がすべて喪失した。さらにその後の津波で、1〜4号機は被水した。そのため地下および一階に設置されていた機械設備はすべて使用不能となった。非常用設備として設置されていた13台のディーゼル発電機のうち12台が使用不能になった。また配電盤も多くが使用不能になった。配電盤が使えなければ電源が復帰してもすぐには機械のすべてが動かせるわけではない状況になったということである。
いわゆる全電源喪失状態である。10日後の3月20日にようやく仮設電源が現場に設置されて電気が戻った。この地震の前には、外部電源が仮にすべて喪失しても、8時間あればかならず復旧できると電力会社は自信をもって保証していたのだそうである。
福島の事故のおおまかな全体像は以下のようなものである。
3月12日の朝、すなわち事故の翌朝、1号機の炉心が溶解し、同日午後3時半に原子炉建てやで水素爆発がおきた。この爆発により、2号機の冷却のために津波でも生き残っていた2号機用の配電盤に電源車を接続して応急で電動高圧注入ポンプを駆動させようと用意していたケーブルが破損して、そのため2号機の冷却に期待がもてなくなった。
3月13日、3号機の炉心も崩壊した。
3月14日、その3号機から流れ込んできた炉心融解によって生じた水素によって、4号機建屋も爆発した。
その日の午後10時頃、2号機の炉心も融解した。ただし、その前の1号機の爆発により、2号機原子炉建屋のパネルが開いいていたため、そこから水素が建屋のそとに流れることができたため2号機自体の建屋が水素爆発をおこすことはなかった。しかし、そうではあるが、水素の建屋外への放出は周辺環境に重篤な汚染を引き起こすことになった。そのため住民の避難が必要な環境汚染濃度になった。
正門付近で測定された放射線レベルは乱高下しているが、分析すると、炉心融解によるバックグラウンドの上昇と、ベント操作などによる短期の上昇を組み合わせたものになっていることがわかる。
12日朝の最初の上昇は1号機の炉心融解による。しかし住民避難を要するレベルにはなっていない。
15日朝、2号機が格納容器の破損によって放射能を放出しはじめたため一気にレベルが100倍となり、住民避難を要するレベルとなった。
しかし住民避難は11日深夜にはじまっている。この拙速な避難により病院や介護施設で60名以上の人命が失われた。
もう一つ注意が必要なのは、自衛隊ヘリコプターによる空中からの散水、東京消防庁による高層ビル用消防車による放水などは、4号機の使用済み燃料プールの冷却のためのものであり、炉心融解や水素爆発といった1〜3号機の事故とは別のものであるということである。
20日に仮設電源が設置され、現場の照明がつき、事故処理がようやく進捗するようになった。崩壊熱も1%以下となり、炉心冷却の継続の目処がたち、ようやく愁眉がひらける状態となり、注入する水も海水から真水に代わり、汚染水の問題などのほうに関心が移っていった。
5月24日に現場を視察したIAEAの事故調査団は、この間における運転員に事故への対応行動を、安全に対する最善のアプローチであったと評価している。
6月になり、米仏の協力により、溶解炉心を冷却するための循環冷却設備が完成し、1〜3号機から放出される放射能量は著明に減少した。事故後3年を経過した現在では、事故当時の最大放出量の1億分の1にまで放射線量は減少している。
以上が福島第一原発での事故の全体像であるが、以下は、1号機から4号機をわけて、個別に考察する。
●1号機
1号機は1971年稼働の第一原発では一番古いもので、ほとんどがGEの設計による。古いため制御に機械的な機構に頼る部分が大きい、自動車にたとえればマニュアル車的な機械である。この機の特徴は非常用復水器(IC)をもっているということである、これは自然循環を利用した非常用冷却器であり、2号機以降に備えられた原子炉隔離時冷却系RCICと異なり、電力ではなく重力で稼働するタイプの冷却装置である。今回の事故の問題点はこの装置が期待通りには働かなかったことである。この装置は原子炉停止後も8時間は補給なしで原子炉を冷やしつづけるように設計されているし、水を追加すればもっと長時間の稼働も可能なように設計されている。)
3・11の地震により原子炉は自動停止した。そのため停止6分後に設計通りICが自動稼働した。きわめて効率よく冷却が進んだため、運転員は弁を閉じていったん冷却をとめた(運用規則通り)。その後、弁をあけたり閉じたりをくりかえして、冷却速度を調節していた。地震発生の50分後、たまたま弁を閉じていたときに津波が来襲し、1号機の電源はすべて失われた。そのため弁の開閉ができなくなり、弁は閉じたままとなりIC装置は機能しなくなった。しかし、そのことに東電の司令部である現地対策本部も本店対策本部も気づかず、1号旗はICによる冷却がおこなわれていると思いこんでいた。またこのICには電源に依存しないポータブル発電機もバッテリーも準備されていなかった。このIC冷却の停止に気づくのが遅れたことが、今回の事故での最大のミスであると著者はしている。
しかし、とにかくも津波の来るまでの最初の50分の間は、1号機は冷却されていた。それで停止直後には定格出力の7%あった崩壊熱が、50分後には2%程度には減少していた。したがって炉心融解までの時間はスリーマイル島事故の場合より大幅に遅くなった。したがって、東電などが早めにICの停止に気づいていれば、現場の放射線量はまだ多くはなく、暗闇であるという悪条件ではあるが、何か手を打てたかもしれない。重力を利用した単純な機械なので、弁さえひらけば、原子炉は冷却することができたのである。現場司令部は、11日午後10〜11時、原子炉建屋内の放射線量が急速に高くなった時点でようやくICの停止にはじめて気がついた可能性が高い。この時点では、すでに原子炉の水は空であるか、空に近くなっていた。
ICが停止すると、炉心の温度があがり、水が蒸発して原子炉の圧をあげる。すると逃がし安全弁が自動的に開いて蒸気を格納容器内に排出し、原子炉圧をさげる、するとまた弁がとじるということを繰り返す。その間に水は次第に減少していく。燃料の一部が水面の上に顔をだし、そのため水に冷却されない部分がでてくる。そこの被覆管は酸化をはじめ、表面が薄い酸化膜で覆われるようになる。その後、11日深夜には水位は完全に失われた。ここから先は水が半分に減った時点で溶解がおきたスリーマイル島事故でもなかった事態であり、未知の領域であり、自分で考えていくしかないことになる。
1号機の検討をいったん打ち切り、2・3号機をつぎに考察する。
●2号機
2号機は1号機の3年後の1974年の稼働であり、原子炉隔離時の冷却装置がICからRCICにかわっている。またGEばかりでなく日立・東芝などの日本製品も多く使用されるようになっている。
RCICは蒸気タービンによる駆動ポンプを電子制御するもので、ICが重力という物理力を用いるのとは原理がことなる。
地震による運転停止後、炉はRICIによる冷却に運転員の操作で入っていた。それに利用される水が半分に減るまでは稼働が可能であるとすると、原子炉を二日くらいは冷却できることになる。
津波で電源が失われたが、電子制御なしでRICIは稼働を続けた。(世界標準の)8時間の停電を想定して設計されていた装置が実際には3日間運転を続けた。
しかし、14日午前11時ごろにはついにRICIは停止したと推定される。ほぼ同じ時刻に3号機の原子炉建屋で爆発がおきている。この爆発により2号機に仮接続したホースと消防車が使えなくなった。またベント弁も作動しなくなった。現場はこの対応に追われ、注水が午後8時まで遅れた。それが炉心融解につながった。午後6時には炉から完全に水が失われていると想定されるにもかかわらず、原子炉は融解していないわけである。これは今回の福島の事故ではじめて明らかになった事象であり、スリーマイル島の事故においては観察できなかったことである。
午後6時から逃し弁を開放して炉内を減圧し、定圧での注入できる消防車による注水が午後8時からはじまった。これが炉心融解をおこした。減圧すると原子炉下部にある水は沸騰し、その蒸気により燃料は冷やされる。燃料が冷えている時点で注水すればジルコニウム反応はおきず、炉心融解はおきなかったはずである。しかし注水は遅れて開始が午後8時になった。午後8時には一時は冷却されていた燃料は、ふたたびもう高温に戻っていた。そこに水を注いだので、ジルコニウムの反応がおきた。そのため炉心融解がおきた。
さて著者は格納容器内の温度が東京電力が推定する150〜170℃ではなく、300℃以上になっていたのではないかと推定している。それにより格納容器の蓋を閉めていたボルトが熱膨張によって伸び、蓋の締めつけが緩み、隙間ができて、そこから水素ガスが抜け出たと推測しいてる。その上部には原子炉ボールトと呼ばれる空間があり、その上に大きなコンクリートの遮蔽用のプラグが置かれている。重さは600トンある。この重さのプラグを水素ガスは持ち上げたと著者は推定する。そこから大量の水素ガスが燃料交換フロア室に一挙に流れた。格納容器の外にでたわけである。しかし熱せられた水素ガスは上空にたき火のように流出していく、原子炉建屋内にはとどまらず、2号機の建屋は爆発を免れた。この放出以外にももう一度、2号機からの放出によると思われる放射線量の増加がみられる。この二度の放出が福島の汚染の元凶である。1・3号機からの放出はSCの水で洗われていて放射線濃度が低い。それにくらべて、2号機の場合、格納容器からの直接放出であったので、濃度が格段に高くなっていたためである。
著者は2号機の原子燃料自体は、圧力容器内にとどまっているであろうと推定している。もしそうであるなら、崩壊融合した燃料の表面は冷やされていても、中心部は未だに崩壊熱を出しているはずである。
2号機の格納容器の破損は、格納容器ベントの失敗による。
●3号機
3号機は2号機の姉妹機であるが、事故の様相は2号機の場合と大きく異なっている。
3号機は建屋が爆発している。3号機はベントの成功で格納容器の破損はおきなかった。3号機からの放射能放出はベント時にSC水で除染されているため、2号機からのものにくらべてはるかに濃度が低い。直流電源の一部が残ったためRCICの制御運転もできた。消防車による注水も比較的順調にできた。しかし炉心は融解し、3月14日、炉心融解による建屋の水素爆発をおこしている。なぜか?
3号機では直流電源が生き残ったので、一部、事故データが残っている。
直流電源が残ったため、RCICによる冷却はスムーズに進んだ。しかし、翌12日の昼にRCICが自動停止した。東電からの発表では原因不明とされている。RCICの動力源は崩壊熱であるので、電源の枯渇では説明できない。事実2号機のRCICは電源なしで3日動いている。3号機は電気回路の設計ミス??
いずれにしても、RCICが停止したので、高圧注入ポンプ(HPIC)を起動させた(電源の残っていたので可能となった)。ただ原子炉を冷やしすぎたため原子炉圧力が低下し、駆動蒸気圧が減少し、運転が不安定になった。そのためポンプの実効性は失われた。
そのため、その運転を中止して、消防車による海水の注水をおこなうことにした。そのため原子炉内の圧を下げることが必要となり、逃がし安全弁や格納容器ベントを開放しようとした。ベントはガスをいったん水を通して放射能を洗い流してからSCのベントを用いた。
しかし逃がし安全弁の開放に手間取った。そのため注水できないでいた。原子炉の温度と圧は上昇をはじめた。逃がし安全弁が開いたのはHPIC停止後6時間半たってからであった。著者は(後知恵であるがとして)HPICを停止すべきではなかったという。それはHPICは水の注入には役だっていなかったとしても、その駆動に用いられていた蒸気の排出さきにはなっていたのであり、停止すると蒸気の行き場がなくなり、崩壊熱が燃料棒温度を上げるようになったためであるという。
炉心融解までの一日は一見安定しているように見えるが、この間は著者が「じくじく反応」とよぶ高温のジルコニウムと水蒸気が微弱に反応する状態が続いていたのではないかと著者は推測している。この間に海水の補給の関係で2時間海水注入が中断している。著者はこれの間に水蒸気がなくなり、崩壊熱による温度の上昇がおき、そこに注入を再開したため、融解がおきたと著者は推測している。
14日午前10時頃、炉心が融解し、11時ごろ水素爆発で建屋が破壊された。2号機と同じメカニズムによる水素ガスの建屋への流出であるが、しかし2号機では1号機の爆発で建屋がこわれいて水素はそこから外気に逃げたが、3号機ではそれがなかったために建屋の崩壊がおきた。
それで、1号機に戻る
●1号機続き
地震当日の真夜中に1号機の水は完全に失われたと考えられる。すると炉心の放熱は輻射熱によることになる。
個々の物体や化合物の融点などは知られている。しかし著者によれば、高温での金属類は融解する前に溶解しあって、予測不可能な行動をすることがあるという。高温金属の離合集散による反応は摩訶不思議な狸狐妖怪の世界なのであるという。なにが起きたのかは本当にはわからないということのようである。
ここに注水すれば、酸化反応がはじまるのは確実である。問題は消防車からの注水の量が大量であったか否かである。中流量は推定1時間に5トン程度。この量ではすべてが蒸発してしまうはずで崩壊熱の冷却にも足りない。ところがベントで圧がさがると注入量が増す。2時30分にベントが開いたあと1時間くらいして爆発がおきた。海水注入量が増え、海水と溶解物のあいだで反応が可能となり、水素が発生したためである。一度爆発がおきたあとは構造が破壊され、大気への自由な逃げ道ができるため、その後にできた水素が爆発することはない。
1号機の爆発規模は小さかったが、2号機に電源を直接つなぐ工事が電源車の破壊とケーブルの破損のために無為に帰した。2号機は2日後に炉心融解する。
以上からわかったこと。
a)炉心の融解はジルカロイと水の反応でおきる。
今回の事故の炉心融解時の燃料からの崩壊熱は定格出力の1%程度。運転中の原子炉はその100倍の熱を冷却して、それを電気に変えている。炉心を融解させるのは急激におきるジルコニウム水反応の発熱である。この反応にはジルカロイが高温であること、水が大量にあることが必要。
これはスリーマイル島の事故から予想はされていたが、今回の事故で確認されたことになり、これは今後の原子力発電の安全対策にとっての大きな知見となった。
b)水素ガスの急激な発生とそれによる圧上昇が爆発の原因。
c)適切な注水により大規模な炉心融解は防げる可能性がある。
もし、減圧からすぐに注水ができていれば、大規模な炉心融解はおきなかったと想像される。そうなれば水素爆発もおきなかった。
事故後3年たって、崩壊熱も低下してきている。3〜4年もすれば、水による冷却も不要になる。そうなれば、放射線問題も、発熱による新たな事態の発生の懸念もなくなる。
●4号機
4号機は3号機の姉妹機で、制御室も共通である。保守のため3・11当時は運転を停めており、原子炉からすべての燃料はとりだされており、横にある使用済み貯蔵プールに保管されていた。
著者はたまたま、震災の前日、4号機の保守工事を見学している。
4号機は建屋が爆発したが、これがプールが地震でこわれて空になり、そのため使用済み燃料が溶解し、そこからの水素が爆発をおこしたのではないかという懸念を生んだ。
4号機の爆発が3号機の炉心融解でできた水素ガスが逆流して起きたものであることは事故後5ヶ月してからである。フィルターの汚染状態の詳しい検討によりそれが判明した。それまでは世界の原子力関係者のほとんどが、プールが空になったために、崩壊熱で燃料が溶け、それがジルコニウム熱反応をおこして水素を作り、それが爆発をおこしたと信じていた。そうでも考えないと説明できないほど4号機の爆発は謎に充ちていたのである。そのため、米国政府の福島第一半径80キロ圏からの米国人の避難勧告をおこなったわけである。フィルターの汚染分布に着目した東電職員の仕事は、世界からの不信をのぞくことができたという点で、大きな意義があった。
4号機の爆発は3月15日の午前6時14分におきているが、ほど同時に2号旗の格納容器の破壊がおきているため、解析を難しくした。
4号機建屋の爆発は、3号機の炉心融解で生じた水素ガスが、4号機の非常用ガス処理用のダクトを逆流したことによりおきた。一つのスタックを二つの原子炉が共有するということ自体が世界でも珍しいやりかたである。プールは格納容器の外にあるため、建屋が爆発すれば、燃料棒を覆うものがなく、炉心が破壊され外界にむき出しになったチェルノブイリを同じになり、大量の放射能が大気中に放出されるであろうと米国は懸念し、それが80キロ圏外への避難勧告となった。多くの国がそれにならったなかで、イギリスは3号機の爆発の高さから推定して30キロ圏外には大量の汚染はおきないと判断して、英国大使館員が東京を離れる必要はないと判断している。
この懸念に対しては、プールの水の有無を確認すればいいのであり、爆発の前日にはプールの水温が84℃でることが測定もされている。これが確認出来ていれば、ヘリコプターからの散水なども不要であった。消防車からのプールへの注水も必要なかった。もっと1〜3号機のほうに注力すべきであった。3月22日にコンクリートポンプ車の配備により、プールが空になる懸念はなくなった。
4号機はプールが空になれば、原子炉側から水が物理的に流れる構造になっていた。このことも米国政府はしらなかった。
3月16日には自衛隊のヘリコプターに同乗した東電職員が、プール内に水があることを確認している。
3月23日に著者は米国ワシントンを訪れ、事故の状況を説明している。米国では、1〜4号機の情報が錯綜しており、それを整理した情報の提供は喜ばれた。なかでもワシントン在住の日本人記者は日本から何らの情報提供もされえいなかったため、非常に喜んでくれた。この時に一番質問が多かったのが4号機プールの健全性についてであった。著者がたまたま前日のそとを訪れており、プールも水をみていること、事故後のヘリコプターからの映像でもプールに水があることを説明すると、聞いたものは一様に安心した。氏の訪問は自発的なものではあり、たまたまかもしれないが、米軍友達作戦の活発化は3月25日からである。
3月11日当日、帰りの交通手段がないことと、職場の状況の先行きが読めなかったこともあり、職場に泊まり込んだ。その日は、交通が止まっていること、コンビニの食料や電池などがあっという間になくなってしまったことなどは話題になったが、福島のこと、あるいは一般に東北の津波のことは話題にならなかったように記憶している。翌日起きてテレビを見て、はじめて津波の被害を知り、呆然とした。海岸一帯があるところは海のようになり、あるところは更地のようになっている。それでも、都内の交通は再開していたので、午前中に家に帰った。あとから考えると、そのころには一号機の炉心はすでに融解しており、午後には建屋が爆発している。記憶が曖昧であるが、テレビでは福島の原発では原子炉は安全に停止していますというなテロップが流れていたように思う。この一号機の爆発というのはテレビなどで報じられていたのだろうか? 14日の3号・4号建屋の爆発以降、ほとんど建物の構造自体が吹き飛んだような映像を見て、なにかとんでもないことがおきたと感じだしたように記憶している。
地震の一週間後に書いた当時の記録をみても、12日に大変なことになったと思ったような記載はいっさいない。呑気にホワイトデイのお返しの買い物などにいっている。
わたくしは原子炉は制御棒というのが差し込まれれば、それで核分裂反応は止まるので安全になると理解していたので、「安全に停止している」というのはそれがうまくいったということなのだとろうと思っていた。事実、それは問題なくおこなわれたようで、地震により、原子炉の構造に歪みとか破壊が生じ、そのために制御棒の挿入ができなかったということはなかったようである。
本書を読んで感じるのは原子炉の構造というのは相当に堅牢にできているらしいということで、あの大きな地震によっても原子炉の構造が破壊され、それによって放射能が外部に放出されたということはおきていないようである。当初、津波がなくても、地震による構造破壊により原子炉からの汚染がおきていたのだろうかという疑問があったのだが、それは否定されるようである。
外部電源の喪失は津波ではなく、地震によるのであろう。7回線も引き込まれていた外部からの電力供給がすべて失われること、しかもそれが10日間も回復しないということは想定外のことであったのかもしれない。今、われわれは停電ということさえほとんど経験しない。停電がおきてもすぐに回復するだろうと期待する。東京では計画停電以外には停電がおきなかったように記憶している。
一方、自家発電装置やバッテリーの喪失は津波による冠水によるらしい(一部は地震自体による破壊?)。ディーゼル発電機も13台が設置されていたとされているが、1台がすべてをカバーするというわけではないらしい。しかし少なくとも一つの原子力発電装置に複数台は配置はされていたのであろう。これらの発電装置が一階や地下に配置されていたことが津波の被害に合いやすくしたことは間違いないであろうが、この装置が作られたころは原発にかんしてはアメリカが先進国で、GEなどから基本設計の変更が許可されなかったときいたことがある。アメリカの原発における自然災害の最大の脅威はハリケーンなのだそうで、そのため自家発電装置などは地下に設置されるのだそうである。
原子力発電所が電気が供給されないために大事故をおこすというのはなんだか間抜けな話だなあと思っていたのだが、原子炉は運転を中止しても崩壊熱という熱を発し続けることが問題なわけで、そうであるなら、その熱を動力源として冷却をおこなうことが可能となる。原子炉には当然そのような装置が設置されているのであった。そしてこの装置も稼働したようで、全電源が喪失するとなすすべがなくなるといことではないらしい。少なくとも8時間〜2日はそれで持ちこたえることができる設計になっていたらしいが、偶然の不運あるいは不明の原因で、それが十分な時間は稼働できなかったことが今回の事故の最大の原因となったらしい。
わたくしなどは、水素爆発による建屋の無残に破壊された姿をみて、外部があれほど破壊される爆発がおきたのだから、当然、内部の格納容器とか圧力容器とかにも大きな破損を生じ、それで放射能をコントロールできなくなったのだと思っていた。そもそも水素爆発の原因の水素がどこから来たものかということさえ本書を読んではじめてわかったくらいである。本書を読んで、基本的には水素爆発は原子炉格納容器にはダメージをあたえていないらしいことを知った。格納容器というのはきわめて堅牢なもののようなのである。
福島の原発装置がつくられたとき、地震学者は、この立地では6mをこえる津波はこないと保証し、電力会社は万一、外部電源喪失がおきても8時間あれば回復すると豪語していた。全電源が喪失した状態でも稼働する安全装置も備えているのだから、今回のような事故は想定さえできないものであったのだろうと思う。
しかし、それでも事故はおきた。それへの著者の考察については稿を変える。
- 作者: 石川迪夫
- 出版社/メーカー: 日本電気協会新聞部
- 発売日: 2014/03/28
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (7件) を見る