与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(11) 第11章 遅すぎた祝祭 2009―2010 第12章「近代」の秋 2011-12

 自民党麻生政権は低支持率で鳩山政権に交代。その当初の高支持率はすぐに低下するが、菅直人への交代でふたたび上昇。しかしその消費税増税発言でまた低下。・・とにかく非自民政権は不安定だった。この一つの原因としてはこの政権を陰であやつった小沢一郎の存在とその迷走がある。
 台風の目になったのは橋下徹だが、そのような潮流に革新側は乗れなかった。
 2010年の選挙ではイデオロギー的な問題は片隅に追いやられ、税率が争点のすべてになってしまった。
しかし、2011年3月11日の東日本大震災ですべてが変わった。(翌12日には第一原発の原子炉建屋の爆発。)
 それに呼応して、4月10日都内で大規模な反原発デモ。このデモはどんどん拡大していく。与那覇氏は1947年1月の皇居前広場での大集会を想起したという。
 ほぼすべての原発は1960年代の高度成長期に様々な自治体からの要請で各地に建設されたものである。当初は社会党なども誘致に積極的であったが、70年代の初頭には反対に転じた。
 この3・11の後、対応のため挙国一致内閣を作る動きもあったが挫折。
 世界では、2010年12月から翌年にかけ「アラブの春
2011年末、吉本隆明氏が、「「反原発」で猿になる!」を発表、さらに翌12年には「「反核」異論」で反核運動を批判するが、同3月には逝去。
 11年8月、菅(かん)首相退陣、野田内閣へ。
 12年9月、安倍晋三、再登板。

 やはり、2011年の3月11日の東日本大震災ですべてが変わったのであろう。翌12日の第一原発の原子炉建屋の爆発では、当時官房長官だった枝野氏が「何らかの爆発的事象が発生した」といった説明?を繰り返していたのを記憶している。枝野氏をふくむ政府側だって何が起きていたのか十分には把握できていなかったのであろう・・。(水素爆発であることは把握していた?)
 その年の5月の連休に、三井記念病院とわたくしが勤務していた病院の合同チームで現地(福島県新地町)にいったときにはもうすべては終わっていて、コンビニなども普通に営業していた。公民館に仮設した臨時診療所にはほとんど誰も来ず(行ったのが3連休中であったので、親戚が近隣にいるものはそこに行っていたこともあるが・・)、東京から持ち込んだ医薬品もほとんど使うことがなかった。暇だったのであちこちみてまわったが、常磐線の線路は曲がったまま放置され、駅舎も流されて跡形もなかった。常磐線の完全再開までは相当な時間を要したと記憶している。津波が来たところと、それが及ばなかったところのあまりの差にただただ驚いた。家がながされ体育館などに仮寓していたおじさんおばさんたちは昼から酒を吞んでいたりで、あまり悲愴な感じはなかった。
 神戸の震災の時も翌年学会で現地にいったときにも、まだねじ曲がった高速道路がそのままになっていたからインフラの再整備には時間がかかるのであろう。
 3・11の地震津波は大きな問題ではなく(もちろん死者・負傷者は地震津波によるものであり、原子炉建屋の爆発によるものではなかったが・・)、それによっておきた原発の事故こそが問題だった。この事故がなければ、3・11の大地震も10年以上たった現在ではすでに過去の記憶になっていたはずである。大分以前にフランスにいった時、観光地のすぐ近くに原発が設置されていて驚いたことがある。今年の北京での冬季オリンピックでも、会場のすぐそばに原発施設と思われるものが映っていたように思う。
 地方にいって県庁などの駅前に降り立つとまず目につくのが「〇〇電力」の立派な建物である。地方には産業?としてはもはや原発しかなく、それを誘致してくるのが首長の手腕とされていた時代がかつてはあったように思う。
この本で知ったのだが、3・11(3.12?)以前は革新側も原発誘致に賛成であったようで、この事故から反対の方向に急速に転換したらしい。
 389ページあたりに吉本隆明氏の「反核運動批判」が論じられている。姜尚中氏のそれに対する批判について、与那覇氏は、それがただ時流に迎合しただけの内容のないものであることを指摘している。このころから「左」の人たちは「脱原発」といった時流に乗っているだけの存在になっていったのではないだろうか?
 そこで紹介されている本気とも思えない中沢新一さんの奇説「原発は西欧の一神教が生んだものである。多神教の日本は原発を放棄して西洋近代を乗り越えよ!」。
 また一方では、宮台真司さんの共同体主義にもとづく珍奇な説も紹介されているが、あほらしいからここではパスする。要するに真面目に考えることはもうやめてしまって、口先で適当なことを言っているだけの存在になってしまったのではないだろうか?
 この左側知識人の崩壊の鏡像としてでてくるのが橋下徹氏。しかし橋本さんのほうがまだ勉強していたと思う。橋本さんはシステム1、リベラルはシステム2(カーネマンの用語)とここでいわれているが、むしろ(左の)識人陣営のほうもシステム1化していて、一昔前の「進歩的文化人」の方向、なんでも反対!のほうへと退行していたのではないだろうか? さらにもう一歩退行すれば、テレビのコメンテイターであるが、流石に知識の人であるから「引き出し」をたくさん持っていて、どんなことにもとりあえずの説明は(それがたとえとても変なものであっても)提供できるはずである。「日本」対「西欧」などというのはその恰好の材料となるのであろう。
 60年安保のころまでの進歩的文化人には、まだ「革命」といったことを本気で信じていたひともいたのだと思う。実際にはそれは起きなかったことを知っている現在のわれわれから見れば、それは何とも滑稽な姿であるかもしれない。一方「革命」はもはやないとわかってきた昨今の知識人の議論はどんどんと抽象化して来ている。(具体的な議論になると、すぐに整合性を問われてしまうから?) そうとなれば「現在の西欧社会こそがマルクスが描いた理想を体現している」とか「現代人の堕落を救うものは厳格な宗教の戒律しかない!」とかなんとでも言える。知識人たちから「本気」が消え、かわりに「言葉の遊び」がどんどんと増えてくる。その中で与那覇氏は「知識人」には現在でもまだ果たせる大きな役割があると信じている、現在では稀有なひとである。
 3・11の地震とそれにともなう原発事故を予見できた人は一人もいなかったわけであるが、近々また同じような、それはあるいはそれを上回る天災がおきるかもしれない(もちろん、100年後かもしれない。誰もそれを知らなわけだが・・) 昔、「地震予知連絡協議会」とかいったものがあったが「地震の予知」は不可能とわかって解散したらしい。本当はこの会が存続しているうちも、皆、実は予知は無理と知っていたが、国からお金をもらうために、もう少ししたらそれが可能となるふりをしていたらしい。
 核兵器の使用といった現在ではある程度はその可能性が否定できない出来事であっても、それを阻止する力を知識人は持っていない。
 その中にあって、例えミネルヴァの梟であろうとも、ものごとを分析し理解し説明できる人間の存在はいつの時代でも必要であることを与那覇氏は信じている。
 わたくしも何事かを考えることが好きで、こんなブログを続けているわけであるが、それが他人の役に立つことはまったく期待していない。アマチュアという気楽な立場である。
 次の第13章は、転向の季節 2013-2014 14章は 閉ざされる円環 2015-2017、である。
 令和がすぐそこにせまっているというのに、妙に現実感がないのはどうしてだろう。