与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(12) 第13章 転向の季節 2013―2014 第14章 閉ざされる円環 2015―2017

 与那覇氏は、平成29年からの第二次安倍政権の初期ほど、平成の達成が崩れていった時代はないが、それに気づいていない人が多いという。
 「アベノミクス」は国民に好評だった。株価は高騰し、円安が進んだ。知識人もそれに同調していた。「リフレ政策」が受けた。しかしそれは1年半で息切れした。それはイギリスのブレア政権の「第三の道」を後追いする側面と、トランプ政権の反知性主義の先駆けというという二つの側面を持っていた。ブレア首相は、経済を停滞させた労働党の産業国有化の方向には反対したが、サッチャー新自由主義にも反対した。しかし、人気は低下していった。
 平成不況は、97年のアジア通貨危機の輸出減少によって始まったという吉川洋氏の説に、与那覇氏も賛同している。
 平成は自立した個人を育てるのではなく、「全能の国家」への集団への帰依に向かおうとしていた?
 13年3月、日銀黒田総裁が、リフレ理論による?新方針を発表(2・2・2・・)。国民も原発より経済という方向に変わってきていた。リフレ派の議論は反知性主義への傾きを持つと与那覇氏はいうのだが、経済学音痴のわたくしには判断できない。
 おそらくこの頃に聞いた話だと思うが、「近代経済学は、ひたすらどうすればインフレを回避できるか、インフレがおきた場合にはどう対応すればそれを早期に鎮静できるかをひたすら研究してきた学問分野であって、近代国家でまさかデフレがおきるなど想定もしておらず、したがって、それへの対応の研究などほとんどなきに等しいのだ!」というようなことをいっているひとがいた。当時人気のクルーグマンさんも「日銀はお札を刷って刷って刷りまくれ!」などと言っていた。
 ここで百田尚樹さんの「永遠の0」の話が出てくる。小説も映画もみていないが、何だか単純バカの右の人が出て来たなとは思った。加藤典洋さんが指摘しているのだそうだが、この小説は米国海軍兵士の回想が前後にあるのだそうで、お互いを「好敵手」としてみとめあっているような設定になっているのだそうである。
 吉田満氏の「戦艦大和ノの最期」の「砲火二射止メラルレバ一瞬火ヲ吐キ、海中ニ没スルモ、既ニ確実ニ投雷、投弾ヲ完了セルナリ 戦闘終了マデ体当リノ軽挙ニ出ヅルモノ一機モナシ 正確、緻密、沈着ナル「ベスト・コース」ノ反覆ハ、一種ノ「スポーツマンシップ」ニモ似タル爽快味ヲ残ス 我ラノ窺ヒシラザル強サ、底知レヌ迫力ナリ」のような感情が戦場でおきても不思議でないような気もするのだが・・。
映画「風立ちぬ」の話も出てくるが、これも観ていない。やたらと登場人物が煙草を吸っている映画という話はどこかできいた。
 さて、SEALDs。これはいわゆる安保法制に反対する学生の運動。これがわからなかったのは、どこからか忽然とあらわれて、法案が成立するとまた忽然とどこかに消えてしまったことで、反対陣営も反対を継続する体力がなくなり、ある問題が出て来た時に、学生を扇動して反対運動めいたことをするしかなくなったのだろうと思った。SEALDsの方々もそれを応援していた方々も、法案が成立してもさほど悔しさもみせていないように感じた。何だか「義務は果たした」といったような、消化試合を淡々とこなしている感じ。
 さらにおどろいたのは、海千山千のはずのおじさんおばさんたちが感涙に咽んでいたことで、上野千鶴子さんなんか本当にどうなっちゃたんだろうと思った。個人的にはこれで戦後の反体制運動は完全に終止符を打ったのだろうと思っている。
 次が天皇生前退位問題。これを非自民党側は「天皇の真意は「改憲志向の安倍政権への抗議」であるのだと主張をはじめた。その急先鋒が内田樹氏であったのだと。このころの内田氏はひねりがなくなり、いうことが面白くなくなっていたので全然読んでいなかったので、この話は本書ではじめてしった。本当にそんなことを言っていたのだろうか? 右と硬直した左をともにおちょくる戦術なのでは?
 このころ田中角栄ブームが起きたと書いてあるが全然記憶にない。まあ反インテリというと角栄さんがでてくるわけで、最初に宰相になった時はあの朝日新聞でさえ「角さん」とかいってよいしょをしていた。インテリというのは根っこのところでああいうバイタリティそのものといった存在にどこかで劣等感を抱いているのだと思う。
 与那覇氏は平成の画期をアジア通貨危機がおきた1997年に求めている。それまでは、なんだかんだあっても「日本はいずれは、安定した豊かな日本に戻れる」と思っていたが、それが崩れた。世の中がおかしくなってきていて何が起きるかわからないと考えるようになった。
 さて「シン・ゴリラ」と「君の名は。」がでてくるのだが、これまたみていない。
 2016年、英国がEU離脱を決定。トランプが大統領に。中国は習近平体制。ポスト冷戦後の民主世界の解体が進行した。
 ここでSTAP細胞と小保方さんの話が出てきて、この時代の「強い個人」への信仰の産物のような書き方をされているのだが、単に変な人が変なことをしただけではないのだろうか? 彼女が失墜したのは、科学には「真実」という判断基準があるからだとされていて、そういう絶対的な判断基準を持たない「政治」の領域ではどうなるのか?という疑問が提示されるのだが、そもそも一回限りしかおきないことは科学の対象にはなり得ないので、事後解釈の後知恵しかそこにはないことになる。高等数学を身にまとっているようにみえる経済学の分野が問題になるが、ケインズの唱えた乗数効果なども現在ではほぼ存在しないとされているらしい。坐して死を待つのよりは何かをしてみる、仮説を立てて現実に問うてみる。それが経済学のしていることなのかも知れない。
 ここで小池百合子さんが出てくる。何となく小保方さんと同じような人とみなされているようである(業績の詐称?)。「真実という概念を知らぬ人」とされて、「見せ方」だけに関心があって、「内実」には関心を持たない人とされている。
 安倍官邸と蜜月といわれた日本会議全共闘に対抗して作られた右派学生組織に起因し、その思想は「成長の家」を中心とする新宗教的な反近代主義だとされている。この日本会議と「統一教会」との関係などはどうなっているのだろう?
 経典宗教が力を持たず、「世俗的近代」を歩んでいるとされてきた日本が、それにもかかわらず啓蒙主義とは別の何かにむかっていくようにみえてきた。
 このころ「発達障害」がポジティブに語られる傾向が目につくようになってきた。
わたくしが大学教養学部の法学の授業できいた話なので、今はどうなっているのか知らないが、クラインフェルター症候群(XXY)という先天的な染色体異常の男性(当時はスーパーメイルといわれていた)は犯罪を犯しても処罰されない(本人のせいではなく染色体が悪い?)ことになっていたが、患者団体が、その法令を撤廃するよう運動しているということだった。
 「発達障害」というのも、その本人がいわゆる“社会性に乏しい”としてもそれは本人が悪いのではなく病気のせいなのだからまわりは理解してあげようということなのだと思う。そうすると“ジェンダー・フリー”といった運動はどうなるのだろう? 男と女が違うというのは考えるまでもない当然な生物学的事実で、フェミの方々はそれは社会的に作られたもので生物学的な差ではないと主張してきたが、親が一切強制しなくても男の子は汽車ポッポで、女の子はお人形さんで遊ぶ。
 さて2017年に話題になった本として國分功一郎氏の「中動態の世界」が挙げられている。能動と受動の中間にかつては存在した「中動態」というものを考察したものらしい。らしい。らしいというのはわたくしもこの本を買ったのだが、あまりに難しくて先に進めなかったからである。哲学者というのは困ったものだと思った。この本が世の中を変えることなど絶対にないはずである。
 「この世界の片隅に」というアニメも論じられるが、これまたみていない。
 「まともに相手にされなくなって久しい日本史」と与那覇氏はいうが、現在の日本人にとって日本史とはNHKの大河ドラマのことになってしまっているのかも知れない。「義理と人情と組織内の人間関係(会社の人事)」の世界。 進歩派の歴史学者が研究してきた農民の生活などどこかにいってしまった。(などと書いているが、大河ドラマもまた見ていない。)
 マンガも読まず、映画もテレビドラマも観ず、流行り歌も聞かない人間にはついていけない記述が多くなり困っていたが、ようやく次の最終章「第15章 はじまりの終わり 2018-2019.4」を残すだけになった。