G・ベイトソン「精神と自然」
「精神と自然」を読んだのが何をきっかけであったのかは覚えていない。わたくしがもっているのは1982年11月刊行の最初の単行本であるので、それよりは後であることは確かで、その頃は本を読むと読了した日を本の裏扉に書きつけることをしていて、それによると、昭和58年8月26日、9月1日、9月16日、61年10月19日の4つの日付が書いてある。4回も読んだらしい。30年近く前、わたくしが34〜5歳のころである。普通の体裁の特に特徴のない造本の本であるが、何度も読み返したため、ほとんど壊れかけてしまっている。傍線もたくさん引いてある。
なんでそんなに惹かれたのだろうということだが、医学部で勉強をはじめて以来、医学というのはつまらない学問だなあという思いがずっとあって、その根源がなんとなく理解できたように思えたためなのではないかと思う。
今ではカリキュラムも大きく変わっているだろうと思うのだが、わたくしが学生のころは、2年間の教養課程のあと、医学部に進学するとまず基礎医学というのがはじまることになっていた。解剖学、病理学、生理学、薬理学といったものである。教養課程では統計学だけは医学部の授業の先取りとしてあったように記憶しているが、教養課程ではほとんど医学とは無関係なことだけであり、医学らしい学問がはじまるのはその基礎医学からなのである。
ところがそれがなんとも面白くない。解剖学はどの筋肉が骨のどこについていてというようなことを主として学ぶ。病理学はほとんどが病理組織学であって、炎症とか腫瘍とかがどのような顕微鏡像となるかといったことが中心である。生理学は教授の専門が神経伝達物質であったので、ひたすら神経接合部の電子顕微鏡写真をみせられた記憶がある。薬理学は教授が筋収縮の専門家であったので、やはり筋肉細胞の電顕写真とかあとは交感神経・副交感神経とかの話であったように記憶している。
解剖学は当然であるが死体が相手である(生体観察といういきかたもあるようであるが、わたくしの頃にはそれはなかった)。そしてあとはほとんどが顕微鏡写真なのである。顕微鏡で観察するためには、組織を固定したり染色したりしなければならない。当然顕微鏡で観察する対象は生きていない。「なんだ医学というのは“死体学”ではないか!」というのが当時の強烈な印象で、医学に興味が失せてしまった。
なにしろ、教養学部のあと、“学園紛争”で一年間授業がなく、その間、自己否定だとか、主体性だとか、三島由紀夫にいわせると何をいっているかはさっぱりわからないが性欲過剰であることだけはよくわかるというような議論に口角泡をとばしてきたあとに“死体学”である。全然、血も沸かず、肉も踊らない。いやになってしまった。
ところが、本書はサブタイトルにあるように“生きた世界”の認識論なのである。そこにしびれたのだと思う。“石と棒きれとビリアード玉と銀河系”の世界ではなく、“カニと人と美と差異”の世界についての本である。「ああ、そうか、正統的な医学というのは石と棒きれとビリアード玉の世界なのか!」と思ったわけである。もちろん、石と棒きれとビリアード玉の世界も死んでいるわけではなく、動きがないわけではない。しかしそこを支配するのは、物理法則だけなのである。それならば“生きた世界”は物理法則が支配しない世界なのか?
これが大問題で、そうなのだといってしまうと、生気論とかアニミズムとかいった魑魅魍魎がすぐに湧き出てきてしまうような気がして、科学の側にあろうとすると、そんなことはないといいたくなってしまう。たとえば、ある人に手紙を書いたが返事がこない。この場合手紙を書くということは物理学的に何かがおきている。しかし返事がないというのは物理学には何もおきていない。しかし、返事がこないことが手紙を書いたひとには何事かをおこすかもしれない。とすれば物理学的には何もないことが何事か物理学的現象を引き起こすのだろうか? 「「ゼロ」もコンテキストの中では意味を持つのだ」ということである。
ここでベイトソンが例にだすのが、サーモスタットでありガバナーつきの蒸気機関なのである。どちらも機構は完全に物理学的に説明できる。しかし、ここに“情報”というものが入ってくる。温度が上がれば切れる、下がればまたスイッチが入るといったように。温度が上がれば切れる、というのは物理学的には必然性がない。それはある目的あるいは問題のために必要となる。それならば、目的とか問題というのは物理学的なものなのか? あとになってポパーを読んでいて、「問題というのは生命の誕生とともに生まれる、生命とは問題解決体なのである」というようなことが書いてあったのをみて、これと同じことを論じているのだと思った。サーモスタットとかガバナーつき蒸気機関などというのは、生命が生まれたからこそ必要とされるようになった。生命と環境とのあいだ、あるいは生命と生命のあいだに“関係”が生まれ、だからこそ物理的にはなにもおきないことが“関係”には影響をあたえたりする。
そして当たり前であるが、医療は生命が生まれたからこそ必要とされるようになったのであり、医学は医療のためのものなのであるから、“生きた世界”を論じるものでなければならないはずなのであるが、正統的な医学部の講義においては“生きた世界”のことはほとんど出てこないのである。わずかな例外としては精神医学があるはずであるが、いわゆる“力動精神医学”は正統派ではなくなり、主流の精神医学は脳内伝達物質の不足あるいは過剰によってもっぱら疾患を説明するようになっている。
ベイトソンはいうまでもなく統合失調症(分裂病)の病因論としての「ダブル・バインド」理論の提唱者として有名である。わたくしも正統派に毒されているのかもしれないが、統合失調症の病因としてのダブル・バインド理論というのは成り立たないのではないかと思っている(統合失調症がある単一の状況とか成因によって説明できるというようなことはないだろう)。しかし「ダブル・バインド」状況が多くの人をなんらかの精神的な失調に追い込むということは十分にありうるだろうと感じている。
ベイトソンが唱えた多くのことは精緻な学問的な吟味をしていくと、あちこちで成り立たなくなるようなことばかりであったのだろうと思う。どこで読んだのかもう忘れてしまったが、娘さんが「父はあまり勉強をしないひとだった(あるいは本を読まないひとだった?)」というようなことをいっていたのをみたことがあって、妙に記憶に残っている。通常はある仮説を思いつくと、それが成り立つかどうかを様々な文献を読み検討することになる。そして多くを学べば学ぶほど、自分の仮説の例外が目についてきて、仮説を強く主張することができなくなる。だから専門家は大胆なことがいえなくなる。
ベイトソンは生涯でさまざまな学問分野を遍歴したひとであるが、つねにどの分野においても素人のままでとどまったひとなのではないかと思う。素人だからいえる大胆な発言がベイトソンの魅力であり、ベイトソンは学問のひとというよりメタ学問のひと、学問方法論のひとだったのであろう。ベイトソンの言葉でとても印象に残っているものとして「前提が間違っていることもあり得るのだという観念を一切欠いた人間は、ノウハウしか学ぶことができない」というのがある。だが、いちいち前提を疑っていたのでは学問などはできないであろう。クーンのいう「ノーマル・サイエンス」というのがまさに前提を疑うことなく進められていく学問なのであろう。
ベイトソンは素人であることの不安をいつももっていたのではないかと思う。一つの学問分野に長くとどまることがなかったのも、そのしたことが異議申し立てであって、積極的な提言ではないことによるのではないだろうか? トリック・スターとしてある分野を攪乱し、波風をたたせること、それがベイトソンがしたことだった。ある分野のひとに、あなかたの前提は疑いのない確固としてものなのかを問い続けた。
日本でベイトソンに相当しているひとというのは、養老孟司さんがたとえばその一人なのではないかと思う。学問的にみれば、氏のいっていることは滅茶苦茶である。到底、学問的な吟味にはたえない。しかし、氏がいっているのは、解剖学とは何かというようなことであって、個々の解剖学内部の個別の議論ではない。
ベイトソンはある時期、いわゆるニューエイジの陣営の教祖となっていたらしい。その弔辞を読んだのはたしかカプラなのではないだろうか? 現在になってみると、ニューエイジの著作で残っているものは何もないのではないだろうか? 一筋縄ではいかないL・ワトソンは例外かもしれないが、後は死屍累々である。それはニューエイジの陣営の多くが生気論とかアニミズムの方向への嗜好をどうしても捨てきれなかったためではないかと思う。ベイトソンのみが残ったのは、そういう志向を一切欠いたためではないかと思う。何しろガバナーつき蒸気機関である。
茂木健一郎さんが橋本治との対談で、「サイエンスをやっていると、もう汚染されちゃっているというか、芯がすっかり西洋合理主義になっちゃっているから」といっている。それに対して橋本治は「だって、それは茂木さん、学者だもん」と茶化している。ベイトソンがサイエンスの側の人間であるかというと微妙なのであるが、かろうじて西洋合理主義の側にとどまったひとではあるのだろう。
わたくしだって、これでも西洋合理主義の中にいるつもりなのである。そういう人間にとって、ベイトソンというのは、ここまではいってもいいよという道標を示してくれているひとであるように思う。
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