今日入手した本

新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)

新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)

 
 この前、橋本治「その未来はどうなの?」を論じたときに言及した「週刊文春」の宮崎哲哉氏の「時事砲弾」というコラムで紹介されていた本。そこに本書の「左翼にとって不況は天敵といえます」という末尾に近い文が引用されていた。「失業が増えると労働運動は必ず弱体化します。世の中も必ず右傾化します。不確実性が高いほど、資本家に階級支配された事業のほうが効率的になります」というのがその理由である。
 それで買ってきたのだが、まだ十分読み込んではいないけれど、ちょっとなあ、であった。著者は本当にナイーブなかたなのである。日本の「左翼」の運動の歴史が「嘉顕の道」と「銑次の道」の対立という観点から分析される。
 「嘉顕の道」と「銑次の道」といっても何だかさっぱりわからないが、だいぶ以前のNHK大河ドラマ獅子の時代」にでてきた二人の主人公の名前からとられている。前者がいわば知識人の頭でっかちな「上から目線」路線、後者が現場に密着して現場の理不尽を理屈でなく正そうとする「大衆」路線。つまり「理想と理論」対「肌身で感じる〈このやろー!)」路線。
 著者によれば「左翼」とは『世の中の仕組みのせいで虐げられて苦しんでいる庶民の側に立って、「上」の抑圧者と闘って世の中を変えようと志向する人々というぐらいの意味』なのだそうだが、「左翼」の運動は「嘉顕の道」と「銑次の道」の対立によって、相互につぶし合いをすることで衰退してきたという。つぶし合いをするではなく、相互のいいところをとってそれをいわば止揚する道がないかを模索するというのが本書の目的らしい。当然、著者は自分は「嘉顕の道」の側の人間であることを自覚していて(なにしろ本を書くひとなのだから)、その独善に陥らないためにいろいろな実地の活動もしているらしい。善意のかたまりのようなかたである。
 しかし、政治の場においては、そのような善意のひとほど、利用されるだけされて、その主張はまったく顧みられないのが通常である。政治の場では情念に火をがつき、憎しみが燃えないと行動がおこらないのであり、理屈などはあとからついてくる。マルクス主義がなぜ一時にせよあれだけの力を持ったのかといえば、マルクスがひとの情念に火をつけることに天才的な力をもっていたからであると思う。「敵はだれか?」を指し示すことが異常に上手であった。マルクス主義の持った力は思想運動としての力ではなく、宗教運動としての力なのであったと思う。この本をもし読むひとがいるとすれば、「嘉顕の道」にほうの人間であって(宮崎哲哉氏も当然その側)、「銑次の道」のほうのひとではないだろうと思う。
 「嘉顕の道」と「銑次の道」の対立という見方も一つの視座であるが、それで全部を割りきろうというのはとても無理である。
 いま自民党の方々も民主党の方々も血が沸騰する興奮の日々を送っているのではないかと思う。そこには理屈はなく、誰が敵で誰が味方かがひたすら問題にされているのであろうが、そういうことに興奮できるひとでなければ政治家にはなれないのだし、その興奮が明日から日本をつくっていくのである。