今日入手した本

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

 最近、少し佐村河内氏のことについて書いたりしたので、少し音楽について考えてみようかと思って。
 とりあえず片山氏の本を少し読んでいるが、最初の「坂本龍一井上ひさし」なんか間違いなく今回の問題に通じる話だし、次の「現代政治と現代音楽」もそう。さらにはその後の「音楽雑誌と口蹄疫」もまた。あとのほうの「麻薬とファシズム」なんかほとんど佐村河内問題自体を論じているような感じである。といっても今回の問題があって書かれた(これはラジオ番組での片山氏のしゃべりをおこしたものだから、正確には話された)ものではない。先に刊行された「計量計と機関銃」は3・11後にこのラジオ番組で話されたことを熱が冷めないうちに収めて急遽出版されたようであるが、本書は3・11以前にこの番組で話されたことを収めたもの。ということだから、数年前の番組の記録である。それがそのまま最近の事象に当てはまるのだから、片山氏の議論はいつも本質をついているということなのだろう。
 佐村河内氏の問題というのは、絶対に商業ベースにのるはずのない現代日本でのクラシック音楽の創作という行為がどういうわけか商業的に成立してしまったという奇蹟がおきるためにはどのような裏の事情があったのかということで、そういうことが成立するためには様々な水ぶくれの部分が必要となるわけで、それをふくらませるためにさまざまな商業的仕掛けがなされたが、それが期待以上の成功をおさめてしまったために、それが徒となって、ついには破裂してしまったということなのだろうと思う。演奏会もふくめ、何らかの公的・半公的・私的援助なしには一時たりとも成立しえない現代日本でのクラシック音楽活動という問題から目をそらしたクラシック音楽論というのは意味がないということである。
 
奇蹟論・迷信論・自殺論〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

奇蹟論・迷信論・自殺論〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

 書店で偶然みつけたもの。宗教について何かを語るとなるとどうもヒュームは外せない名前のようである。宗教とか信仰というものと一生無縁でいきたいと思っているわたくしとしてはお守り代わりの本かもしれない。「自然宗教に関する対話」はもっているのだが、どうも書き方が持って回っていて、気の短いわたくしにはしっくりこない。これがもう少しストレートな書き方となっているのかは、まだ読んでいないのでわからない。
 実は本書の最後に短い自叙伝が付されていて、少し高い本書の購入の決断をしたのはそれが収められていたことによる。この自叙伝について知ったのは「新常識主義のすすめ」に収められた渡部昇一氏の「不確実性の哲学 −デイヴィッド・ヒューム再評価−」で紹介されていたことによる。死の少し前に書かれたもので、きわめて率直に若い頃の野心と金銭のついて書いているため、後世誤解をまねくものともなったという。「若い頃、独立してやっていきたいと思い、そのうち独立したと思える資産を持つようになり、やがて富裕になり、ありあまる財産を持つようになり、極めて裕福になった」などということが(臆面もなく?)書かれているのだそうである。渡部氏はこの自叙伝から independent であるということ、つまり働かなくても喰えるだけの不労所得があるということについて論じていくわけであるが、それはそれとして、とにかく、これでようやく読みたいと思っていたこの自叙伝が読めるわけである。