古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」(上)

  講談社2015年10月
 
 偶然、書名をみて購入したもので、著者の古市氏については何もしらない(と思ったのだが、一年くらい前に氏が「新潮45」に載せた文章の感想を書いていた。ぼけが進んでいる)。巻末の中森明夫氏の解説をみれば、古市氏は相当の売れっ子であるらしい。解説中で中森氏は、古市氏が「ワイドショウ」で「子供は汚なくて嫌い」とか「キスやセックスも苦手」とかいって話題になったということを書いていて、そういえばそんなことをきいたことがあったような気もする。
 本書は2011年に著者が26〜27歳で書いた本の文庫化であるが、現在、氏は30歳で、単行本の本文と脚注はそのままとし、最新データを脚注で補い、新しく追加したものはそれをわかるようにし、当時と考えを変えた点については「#追記」として記したという。この追記部分で、誰々の説を読んで考えをこのように変えたと書いている部分は気持ちよい。
 本書はニューヨークタイムズの44歳の東京支局長からの「日本の若者はこんな不幸な状況に置かれているのに、なぜ立ち上がらないんですか?」という質問に答えようとしたものである。26歳の氏の答え「なぜなら、日本の若者は幸せだからです。」 この答えは30歳の現在でも変わらないらしい。
 「なぜ幸せなのか?」「将来の展望がないから。」「将来にいいことがないなら、今が当然一番幸せである。」 「ユニクロとH&Mとマクドナルドがあって、you tube をみてskype をし、ニトリとIKEAで家具、友達と楽しく鍋」、「一泊二日で友達と千葉にバーベキューに行く」という小さな幸せがあれば、ほかに何を望むことがあろうか? インフラや生活環境では、現在の若者は過去最高の「豊かさ」を享受している。
 古市氏は社会学者ということで、本書のかなりはデータの検証にあてられている。
 まず「青年」から「若者」への変化が1960年代後半から70年代にかけておきたという指摘がある。1937年の三木清の「学生の知能低下に就いて」という論文をひいて、昭和初期の学生が左翼運動に傾斜したことを懐かしんでいるとして、最近も全共闘世代のおじいさんから同じようなことを聞くという。
 本書を読んで一番感じるのは著者にマルクス主義というものへの切迫感のようなものがまったくないということである。20世紀の大部分にソ連という国があり、今も中共があり、北朝鮮があって、過去に東西冷戦があり、核戦争の可能性がいわれ、多くの人が東側に桃源郷を見ていて、資本主義というものはただただ克服すべき過渡的な体制と思われていた時代があったという感覚が本書のどこにもみられない。などというのも全共闘世代の繰り言なのかもしれないが・・。
 石原慎太郎の「太陽の季節」とか「太陽族」ということは言及されるが、弟裕次郎が多く主演した石坂洋次郎ものの映画「陽のあたる坂道」「あいつと私」とかは全くでてこない。戦後というのはこちらのほうにあると思うのだが。
 現在のネットやケータイはツイッターに相当するものが当時の深夜ラジオだったというのは、その通りかなと思う。「パック・イン・ミュージック」とかいうのがあって、北山修もでていたような気がする。
 第2章の「ムラムラする若者たち」というのが本書の核なのかもしれない。ムラムラは実は「村々」であって、学問用語では「コンサマトリー」というらしいが、「自己充足的」「今ここ」の身近な幸せを大事にする感性、「何らかの目的達成のために邁進するのではなく、仲間たちとのんびりと自分の生活を楽しむ生き方」が今の若者の生き方で、それにより「私生活への閉じこもり」がおき、「友人や仲間」の比重がとても高くなって、「仲間」がすべてとなる。これを古市氏は「世間」の崩壊の結果といっている。「大学卒業後、一つの企業だけで働き、出世レースに明け暮れて、趣味と言えばゴルフとマージャンくらいという「お父さん」」も「内向き」と古市氏はいうのだが、「会社」という世間が崩壊して、仲間という疑似ムラ社会へと閉じてきているのだという。
 ではそういう若者は社会志向がないのか? そうではない。社会に役立ちたいと思っている若者は多い。しかし実際にボラティア活動をしている若者は多くない。政治には関心があるという。しかし、投票にはいかない。海外へいく若者も減った。留学生も減った(若者の絶対数が減ったこと。米国より中国などへの留学が増えたという要因もある、と)。地元から離れない若者が増えた。自動車や家電や海外旅行への出費が減った。しかし、ゲーム機やパソコン・スマホには投資する。「内向き」の消費志向である。
 若者たちは今の生活に満足しいている。幸せである、という。しかし同時に不安だという。社会に満足していないという。「今日よりも明日がよくなるとは思えない」、とすれば、今が幸せである。人は将来に「希望」をなくした時に「幸せ」になることができる。
 この辺りまでが全体の1/3で、とりあえずここまで。
 
 わたくしが今の若いかたたちを見ていて一番異様に感じるのが、就活のリクルートスーツで、何でああまで同じような格好をするのだろうと思う。奇抜な格好をしていくとそれだけではじかれてしまうということからなのだと思うが、女性など髪型から靴、もっているバッグまでほとんど同じである。べつにそこでおしゃれを競うわけではないからいいのかもしれないが、もう少しそれでも個性的に!くらいの主張はあってもいいのではないかと思ってしまう。就活指導というものがあって、こういう格好がいいということまで手取り足取りの指導があるらしいが、もう少し目立つようにしたほうが就活上の得ということはないのだろうか? 面接担当のひとに就活ルックでなく普通の格好できたらどうしますか?ときいたら並の点だったら落とすといっていたので、仕方がないのかもしれないが。面接をしているひとがいうには、「特に最近の男性は覇気がない。いうのはきまって自分は協調性があります。いわれたことは何でもします、というようなことで、こういうことをしたいなどとはいわない。まだ女性のほうが志向が見える。海外からの応募のひとの積極性とは雲泥の差である。日本の将来が不安である。・・・」 これも仲間と同じでないと不安。ムラムラしていたいという気持ちの反映なのだろうか?
 わたくしは産業医という仕事をしていて、その分野で、最近、大きな問題となっているものに「新型のうつ」というのがある。これは正式な病名ではなく、マスコミの用語のようなものであり、よく調べてみれば決して最近にはじまったものではなく、若者に多いといわれるが中高年にもないわけではない。しかし、やはり若いひとに多いのは事実で、それをどう理解したらいいのか、もちろん諸説紛々で、正解はないわけだが、このムラムラというのがある側面は説明できるかもしれないと思った。
 旧来のうつは、「大学卒業後、一つの企業だけで働き、出世レースに明け暮れて、趣味と言えばゴルフとマージャンくらいという「お父さん」」が疲労困憊して倒れるというものであったが、最近は実にあっけなく白旗をあげてしまう。ちょっと仕事がうまくいかなくなると出てこなくなり、ある日「うつ病 3ヶ月の休養を要する」という診断書を持ってきて休んでしまう。特に悄気た感じも悪びれた様子もない。ある日ハワイとかからフェイスブックとかブログに「いまうつ病で療養中、元気回復!」などと書いているのを会社の誰かが発見する。烈火のごとく怒る。「きみ、いくら何でも、病気療養中に、ハワイで元気!はないだろう」と注意すると、主治医が気分転換が必要といったから主治医の指示にしたがったまでだといい、また「うちの会社はメンタル疾患治療に理解のない遅れた会社だ」と書きこむ。
 このフェイスブックとかブログに書きこむというのが理解できないのだが、仲間、ムラムラを意識しているのかもしれない。あいつ休んでいるのか? いいなあ、といってほしい。あるいは会社と闘っている偉いなあ!、とか。会社の上司、同僚よりもムラムラの仲間たちからの評価のほうがはるかに気になるということでないと、理解できない行動である。
 今の「新型うつ」の一般的な理解は「まだ大人になれていない。社会人になれていない。成熟していない。子供のままである」というようなことなのだが、もしも大人になるということが、「大学卒業後、一つの企業だけで働き、出世レースに明け暮れて、趣味と言えばゴルフとマージャンくらいという「お父さん」」になるということであるのならば、そういうものにはなりたくないね、と思うひとがでてくるのは当然かもしれないし、それが「『「世間」の崩壊』ということなのかもしれない。世間≒会社であるならば、会社を支えていた論理が崩壊してきているということである。未来に希望がない。上司を見ていて、偉くなってもあんなに働くんじゃ、偉くなっても仕方がない。適当に働いて、ムラムラのほうが自分の本来の居場所であると思う若者(実は中高年にもそういうひとが少なからず出てきている)がでてくるのは当然なのかもしれない。しかし、これは日本人での話であって、働けば報われる偉くなれる収入が多くなる、と思っている国のひとの目の輝きには、職場では勝てないことになる。
 ということで、会社以外のワールドカップ東日本大震災には強い関心を持つ、あるいはネット右翼として行動する、最近ではSEALDsといった動きといったものへの氏の論については稿をあらためて考える。