読んで来た本(6)養老孟司

 次は吉田健一をとりあげようと思っていたのだが、いくらでも書くことがありそうなので、ここで一度理系に転じて養老孟司さんについて書いてみたいと思う。もっとも養老さんが理系の人であるのかはいささか問題かもしれないが・・・。
 養老さんを読みだしたきっかけははっきりしていて、東大の解剖学の教授が何か変な本を書いているという噂がどこからともなく聞こえてきたからである。それでかなり早期から氏の著作を読んで来ている、氏がやたらと本を出すこともあり、書棚には50冊以上の氏の本がある。

 氏の最初の単著は「ヒトの見方」であるらしい。1985年刊であるからわたくしが38歳頃である。いままで氏が雑誌などに書いた論文?などを主として収めたもので、もう少し後の「唯脳論」などで氏が展開する文明論などとは異なり、ほとんどがかろうじてではあるが自然科学の論文の範疇に収まると思われるものである。「顔の見方」「ヒトにはなぜヒゲがないか」「形態と機能からみた人間」・・これらには図版も多くふくまれている科学論文風のものである。問題はそれが日本語で書かれている点で、そのころ氏が考えていた「なぜ科学論文は英語で書かれなければいけないのか。母国語であってはいけないのか?」の疑問への回答として書かれたものであろうと思われる。しかし、そのことは当然、学問の正統からは外れることでもあり、事実、氏はその後。急速に医学界の外へと向かっていく。
 そういう論文?の前後に「機械論と機能論」「形態学からみた進化」「鴎外とケストラー」といった論が収められているという本である。
 わたくしがこの本を読んで一番驚いたのは、東大解剖学教授が英語で論文を書かず日本語で論文を書くと宣言していることだった。学問の世界では英語が公用語で、ドイツ人もフランス人もみんな英語で論文を書いている時代になんということを!と思った。
英語で論文を書くというのは、そこから情緒も何も消し去って、事実としての「結果」とそれへの「考察」を述べることである。
後から考えると、養老氏が後に論ずることになる「都市化」とか「脳化」の典型的な例として、「学術論文は英語で書く」ということがあったのであろうと思うが、当時はただ驚いた。

吉野裕子氏編の「英語のバカヤロー!」という本がある(奉文堂 2009年)。そこで養老さんはこんなことを言っている。「日本には「言うに言われぬ」とか「筆舌に尽くしがたい」とか「言葉にならない感情」というものがあるでしょう。でもあちらの人はそうは思っていない。何でも言えると思っている。「以心伝心」という文明はあちらにはない。」
 養老氏が後に言い出す「都市化」とか「脳化」というのはあるいはここで言われる「アメリカ化」のことかもしれない。

養老氏のお弟子さんの布施英利氏の「養老孟司入門」という本がある(ちくま新書 2021年)。主として養老氏の書き降ろしの本を見ていくことで氏の思考を辿っていこうとした本である。
養老氏の最初の書き降ろしの本は「形を読む(培風館)」らしい。これは1986年の刊だから、あるいはこれが養老氏の本を読んだはじめかもしれない。だが、初読ではあまり印象には残らなかった。ただ、客観的・主観的ということにこだわった本であることだけはよくわかった。
やはり大きく影響を受けたのは「唯脳論」1998年であると思う。そしてその系である「「都市主義」の限界」2002年」である。その最初にある「「都市主義」の限界」は、「大学紛争とはなんだったのか」を論じることから始まる。これは、全共闘=田舎者という主張?だから、怒る人も多いだろうが、例えば庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」にもこういうところがある。「つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声かなんかあげるんだ。」と書いている。また鹿島茂さんも、全共闘運動は「自分がその家で初めての大学生となって都会に出て来た若者の運動」だったということを言っている。
養老さんの言。「全共闘はどうみても田舎臭かったのである。ゲバ棒に覆面、ヘルメットと言う姿をいまの学生に見せたら、ただ一言、ダサイというのではないか。」 要するに、純粋ではなく、野暮なんのだ、と。
おそらく養老孟司という人をつくったのは東大紛争だっただろうと思う。氏の著作としてはあまり知られていないように思う「運のつき」(マガジンハウス 2004年)の第3章・第4章・第7章などは全共闘に対するうらみのオンパレードである。
わたくしが養老氏の著作にずっと関心があったのは、自分が東大紛争の渦中にいたことのある人間だからではないかと思う。
そして、わたくしの父がすでに東京の山の手で暮らしていたので、わたくしが東京二代目であるということである。鎌倉暮らしの養老氏は東京人とはいえないかも知れないが、わたくしには養老氏は東京山の手の人のイメージが拭えない。少なくとも氏は二代目である。
そういう氏が、それでも「都市主義の限界」をいい、里山をたたえ、参勤交代をいうのは、氏が小さい頃から昆虫採集をする人でもあることが関係しているのかも知れない。
わたくしの小学校時代には、夏休みの課題として昆虫採集というのがまだあり、虫取り網でかろうじてトンボとか蝉とかを採っていた(杉並に住んでいて、まだ井の頭線沿線は田圃だった)。今ではそんな課題はありえないだろう。

その後は、養老氏は「本の解剖学」とか「臨床読書日記」とか「ミステリー中毒」とか「脳が読む」とか「小説を読みながら考えた」とか、本にかんする本もたくさん出しているので、そちらの方に主にお世話になってきたように思う。
「本の解剖学1」の「脳が読む」の巻頭にある「本の読み方」ではこんなことが書いてある。
「私は年中本を読む。歩きながら読む。トイレで読む。寝床で読む。風呂で読む。電車の中では、本がないと死にそうになる。・・・電車で読むものがないときは、隣の人の新聞や本を読む。開いてある頁を、私が先に読み終わる。他人が読んでいる本の頁を、めくるわけにはいかない。それがじつにイライラする。・・・」 完全な活字中毒である。
この本の巻末は「原理主義と唯脳主義」。表題通りの議論が進んだあと、なぜかいきなりS・キングの「ハーツ・イン・アトランティス」に話が飛ぶ。それでどれどれ自分も読んでみるかと思ったらまだ翻訳がでていなかった。養老さんは当然のように原著で読んでいるようである。それで原著のペイパーバックを取り寄せて、乏しい英語力で無理やり読んでみた。これは主人公が辛うじてつながる二つの中編と三つの短編からなる本なのだが、最後の方の短編のあたりは全然読めていなかったことが後からでた翻訳を読んでわかった。
 この翻訳が出たのは、この中短編集の最初の「黄色い上着の背の低い男たち」が映画化され、「アトランティスのこころ」という題名で公開されたのに連携してであったと思う。この題名になったのはこの中短編集が「ハーツ・イン・アトランティス」という題名でアメリカで刊行されていたからであろう。しかしこの映画だけ見たひとはなぜこの題名なのかはさっぱり理解できなかったはずである。日本語翻訳では表題は「アトランティスのこころ」であるが、真ん中の中編のタイトルは「アトランティスのハーツ」となっている。これはハーツというのがトランプのハート遊びのことだからでそうなって当然である。
 わたくしが面白かったのは真ん中の中編の「アトランティスのハーツ」で、そこに描かれる1960年代のアメリカの大学生の生活(べトナム戦争を背景にそれに怯えながらもハーツ遊びに明け暮れる自堕落な生活)だった。しかしそれは一切映画では描かれない。

 というようなことで、養老氏からはいろいろな本を教えられたが、その最大のものは、「小説を読みながら考えた」(双葉社 2007年)にある羽入辰郎氏の「マックス・ヴェーバーの犯罪」(ミネルヴァ書房 2003)である。もっともこの本を最初に知ったのは、新聞で年末恒例の「今年の収穫3冊」といった欄で養老氏が紹介していたからであるが。
 とにかく、マックス・ヴェーバーという社会学の分野の超有名学者が「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という主著でいんちきをしていたという話である。すでにこの世にいないヴェーバーにかわってヴェーバーを神輿に担ぐ日本の学者さんたちが柳眉を逆立てて反論していたが、その後はどうなっているのだろうか?

 「バカの壁」(新潮社 2003年)以降の著書は同じ主張の繰り返しが多いように思い、本が出たらすぐ読むことはしなくなっている。

 最近は愛猫のマルさんとその死のことをいろいろ書いているようである。