《自分に正直に生きたい》

 本棚の奥から呉智英さんの古い本「バカにつける薬」が出て来た。(双葉社 1988年刊) 呉智英氏の名前は「くれともふさ」と読むのが正しいようだが、わたくし的には「ごちえい」さんである。
 その巻頭で、西舘好子氏の《自分に正直に生きたい》という言葉が論じられている。西舘さんは井上ひさし氏の奥さんで、「不倫の恋・離婚についての記者会見」での言葉なのだそうである。(この当時からこんな私的なことでの記者会見はあったわけである。)
 本書によれば、「何の落ち度もないのに家庭を壊された井上ひさしの立場はどうなる」派と「自分は意にそまぬ結婚生活を我慢して続けている。自分に正直に生きたいという井上好子の気持ちはよくわかる」派の間で論争があったらしい。
 封建主義者を自認する呉氏としては前者に与しているようであるが、その点は措くとして、わたくしが思うのは「《愛》は全てを正当化する」というような考えは半世紀近く前から日本でもすでにあったということである。
 呉氏は、「戦後、「性の解放」と「愛の賛美」とが並行関係にあった」という。これは日本的「家」制度への反措定であったとも。
 戦後の価値観の根底にあるのは「近代的個人」である。当然「家父長制」は否定され、「一夫一婦制」へと移っていくことになった。しかし、愛と近代的個人は整合的だろうか?と呉氏は問う。
 室町の時代の日本に遥か遠くのヨーロッパからやって来た宣教師たちは、日本で「愛」を説こうとして戸惑ったのだそうである。なにしろそのころの日本では「愛」は「愛欲」といった方向の言葉であり、宣教師が説こうとした「愛」はむしろ日本語では「慈悲」に近かったのだそうであるのだから・・。といって仏教用語を使うわけにもいかず、仕方なく宣教師たちは「御大切」としたのだそうである。確かに、それでは「愛欲」とは結びつかない。
 西洋世界においても、歴史学の重鎮であるセニョーボスという人が「愛、この十二世紀の発明」と言っているそうである。つまり「愛」という言葉はヨーロッパでも千年足らず、日本では明治維新以降のわずか百年近くの歴史しか持たない言葉であるわけである。
 戦後の価値観の根底にあるのは(西欧近代的な)「個人」であるのだが、一夫一婦制は「近代的個人」と整合性があるだろうか? 「近代的個人」と整合性があるのは「乱婚制」なのではないだろうか? あるいは一昔前の言葉でいえば「フリーセックス」。
 もう今は忘れられた作家である倉橋由美子さんが、その「修身の町」というエッセイで「わたしはいわゆる「フリーセックス」的な考え方を採ることが出来ない人間」であるといっている。しかしマスコミに出てくるような著名人の大部分は「フリーセックス」を支持しているのだが、それは「過去の規範にとらわれない新しい人間はそうでなければならない」という思い込みからそうなっているのだ、としていた。(「わたしのなかのかれへ」(講談社 1970年)
 男女平等という考えによる「近代的な個人」という考えでいえば、一番問題となり桎梏となってくるのが「育児」であろう。実際にその立場からは「育児」にも男女が平等にかかわるべきという意見が出てきている。
 しかし男には子供を産めない。いくら男が子供を産みたいといったとしても「生物学的」に無理で、「育児」ということには「生物学的」な要因を多く含む。人間は生物学的に早産であるから誰かが育児をしなければならない。それは男が育児、女が育児、男女が共に育児の三択となる。生物学的にはヒトは生得的にはメスが育児に強く関わるように設計されているように見える。しかしそうではあっても人間がいつまでも生物学的な軛にしたがわなければならないということはない。男女平等という理念からは「育児」に関しては男女平等にかかわるべきという考えもでてくる。もっといえばそんなことは「国家」がやればいいので、男も女もそういうものから解放されるべきという考えさえでてくる。(ハックスレー「素晴らしき新世界」?)

 さて本題は《自分に正直に生きたい》であった。これは《自分の気持ちに正直に生きたい》であり、もっと言えばその時々の自分の愛情(情欲?)の動向に正直でありたいということである。昔においては、それは多くは男の側の言い分であった。だがそれは経済的余裕がなければ出来ないことであったので、昔は妾の4~5人も持っていれば大した甲斐性だと尊敬さえされたのかも知れない。
 そして日本も豊かになり、女性の側も男性と同じことを要求し始めたのかも知れない。しかしまだ完全に男性並みとはいえず、対象は男であれば誰でもではなく「愛情を感じる誰か」でなければいけないようであるが。
 呉氏は、「戦後、「性の解放」と「愛の賛美」とが並行関係にあった」としていた。わたしがまだ若いころ女性は二十五歳までに結婚しないと「行き遅れ」だといわれ、寿退社などという言葉もあって結婚=退社が当然視されていた。わずか50年で時代は変わる。
 しかし会社勤めの男性は《自分に正直に生きて》いるだろうか? 決してそんなことはないと思う。多くはじっと自分を殺して生きている。仕事とは「他人の需要に応えること」であって「自分のしたいことをする」ことではない。であるなら。せめて仕事の後くらい《自分に正直に生きたい》ということになるのだろうか?
それはわからないが《自分に正直に生きたい》という時代になれば「少子化」はそれに伴う必然の産物であるということになる。託児所をつくるなどというのはまるで明後日の方向の方策である。ではどうしたらいいか? わたくには見当もつかないが・・。
 封建時代に戻るというのが唯一の方策であろうが、まさかね。
 幸い?地球の環境も狂い始めているようである。しかし狭い地球には住み飽きた、というわけにもいかない。とすれば、大いに《自分に正直に生き》ながら優雅に滅びていくというのも一つの選択かもしれない。
 作曲家の吉松隆さんに「朱鷺によせる哀歌」というとても美しい曲があるが、そのノートに吉松さんが、もしも人間が滅びる時にも、朱鷺の時と同じように「地球から美しい生き物がまた一つ消えた」と嘆いてくれるような誰かがいるだろうか、と記していたのを思い出す。