橋本治さん追悼
橋本治さんが先月29日に亡くなったらしい。新聞をとっていないので今日まで知らなかった。ネットでも、記事の片隅にでもでていたのだろうか?
近年、血管の炎症性疾患に罹病していたときいているので、それによるものなのだろうか?
氏は1948年3月生まれであるから、わたくしのほぼ1歳下なので、70歳で亡くなったわけである。
わたくしも橋本氏の名前を知ったのは1968年の例の東大駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」によってであった。今から思えばその頃がおそらく最盛期であった学生運動に対する卓抜な批評であると思ったが、才人というのがいるのだなというような感想を持つにとどまった。
10年後の1977年に「桃尻娘」でデビューしたときは、そのタイトルをみていかにも受けをねらったあざとさのようなものを感じ「とめてくれるなおっかさん」で一発あてた才人が、また何かやっているな程度の感想で、読んでみようとは思わなかった。
1987年に「桃尻語訳 枕草子」がでたときは、二番煎じ、三番煎じと思って情けないことをしているなと思った。
氏の本をはじめて読んだのは1995年の「宗教なんかこわくない」で、これは前年の地下鉄サリン事件をふくむオウム真理教の問題を中心に論じたもので、一読、完全に打ちのめされた。以後、氏の書くものを読んでいくきっかけとなった。わたくしが常々不思議に思っていた多くの知識人が抱く宗教への奇妙な劣等感を一切持たない明晰な論で感嘆した。「宗教とは、この現代に生き残っている過去である」とか、「宗教とは、近代合理主義が登場する以前のイデオロギーである。だから、近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ」とか強い断言が並んでいて驚いた。
近代合理主義は利害損得については明確な回答を出せる。しかし、それを超えた魂といった領域、生とか死とかについてかかわる領域は、近代合理主義の出番はなく、そこからは宗教を代表とする何らか超越的なもの、理屈を超えるものに委ねるほかはないというような考え、平たくいえば、世界を物質と魂にわけ、物質は近代合理主義の担当であるが、魂については合理主義の出番はないというような見方がごく普通にあるところに、「近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わるのだ」といいきる論に圧倒された。「キリスト教も仏教になる」とか、「ゴーダマ・ブッダの得た悟りとは、近代合理主義の開祖であるフランスのデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に近いのである」と驚くようなことがいろいろと書いてあった。大乗仏教について「人間というのはどうしてそんなに物事を複雑にしてしまうのか」と言い切っているのにも驚嘆した。わたくしが唯識であるとか阿頼耶識であるとかという言葉を知ったのは三島由紀夫の「豊穣の海」によってであるが、三島が懸命に説明しているのを読んでも何が何やら少しもわからなかった。
とにかく「宗教なんかこわくない」を読んで、ここに一人の自分の頭で考えているひとがいるということを感じ、以後、氏の書くものに目を通していくことになった。
次に読んだのが、「貧乏は正しい!」シリーズではなかったかと思う。これは1993年からの刊行なので、遡って読んだのだと思うが、この「17歳のための超絶社会主義読本 貧乏は正しい!」を「ヤングサンデー」というようなマンガ雑誌に黙々と書き継いでいた橋本氏に頭が下がる。当初、一回原稿用紙6枚、見開き2ページだったものが途中から3ページになったと書いてある。
この連載は91年6月からということで、その8月にソ連で保守派によるクーデター事件があって、それが同時並行でかかれている。「まだ戦車が通用する世界」と「もう戦車が通用しない世界」があるのだが、そのクーデター前後の日本のジャーナリズムの反応は、今はまだまだ戦車が通用する世界と思っているとしか思えない反応であった、と。さらに左翼思想の欠点が‟自分のため”を考えなくなったことであるという指摘もしている。今でも覚えているのが「井戸の掘り方を知っているかい?」という章である。もしもガスや水道がとまったら井戸を掘れ!という発想。
そこから先、何をどのように読んでいったかは、もう覚えていないので、以下、順不同で記す。
ちくま文庫化されてから読んだ『青空人生相談所』も面白かった。これは多分に質問も自分で創作している嫌疑がありそうな本なのだがそれでも。たとえば「老人ホームに行ったおじいちゃんのことでの相談」。いささかふざけたところでは「ブス嫌いの教師候補氏からのご相談」。その回答の頭。「ブスが何故ブスかというと、バカだからです。バカじゃなかったら、ああいうのが平気で生きていける筈はありません。」 あるいは真面目なところでは「妊娠初期に風疹にかかってしまった二十四歳女性からのご相談」あるいは「子供のことを可愛いがることができない、生活に絶望的な主婦からのご相談」。
あと、「デビッド100コラム」と「ロバート本」という、そのころ流行っていた「0011ナポレオン・ソロ」というテレビの番組の主演俳優名にひっかけただけのコラム集。橋本氏の歌舞伎好きから生まれたのであろう「完本 チャンバラ時代劇講座」。「貞女への道」という反時代的な本。
「ぼくたちの近代史」は大学紛争(闘争)というものをこれ以上うまく述べた本はないと思う。
「江戸にフランス革命を!」は近代のひとではなく近世のひとである橋本治氏の面目が躍如となっている本であると同時に最近の江戸ブームの方向にも敢然と水を指している本。
「'89」は昭和の終わりを実に興味深く論じた本。氏が元気であれば平成の終わりについてもユニークな本を書いてくれたのだろうか?
「ひらがな日本美術史」 わたくしは美術の方面にはほとんど関心がないが、そのわたくしにも実に面白く読めたユニークな本。
「ハシモト式古典入門」 こういうタイトルの本であるが、大部分の国文学者を蒼白にさせるであろう恐ろしいことがいろいろと書いてある本。
「ああでもなくこうでもなく」のシリーズ。「広告批評」をこれを読むために買っていたひとも多いのではないか?
「二十世紀」 20世紀の終わりにかかれた卓抜な通史。
「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」 近代の日本の知識人(あるいは世界の知識人)の生き方への根源的な批判。「塔のなかの王子様」というのは三島のことを差すだけでなく、ほとんどすべての日本の知識人を差す言葉なのであろう。
「権力の日本人」などの「双調平家物語ノート」 双調平家とか窯変源氏とかはわたくしはまったくだめだったが、そこから生まれた「権力の日本人」「院政の日本人」などは、今でも日本を根っこのところで支配しているものを剔抉した労作であると思う。
「失われた近代を求めて」 日本の私小説への根源的な批判。
後、「月食」という戯曲も面白かった。
ただ一つだめだったのは氏の書く小説で、「ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」だけは何とか読めたが、「巡礼」「橋」「リア家の人々」すべてだめだった。登場人物をあやつっている橋本氏の手が見える感じで、登場人物が作者の意図をはなれて動き出すところが小説の醍醐味であると思っているわたくしには楽しめなかった。
若いときに膨大な借金を背負って、たくさん書かざるをえないということもあったのであろうが、近代よりも近世に親近を感じる独自の感受性が氏の存在をユニークなものとしていたのだろうと思う。「上司は思いつきで物を言う」での埴輪製造会社のエピソードなど、日本の会社社会の前近代性を実に見事に剔抉していた。
手許には氏の本が数十冊あると思う。少しまた読み返してみようかと思う。
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片山杜秀「音楽放浪記 世界之巻」と三浦雅士氏によるその解説
以前アルテスパブリッシングというところから「音盤考現学」と「音盤博物誌」という題で刊行された本を再編集して「音楽放浪記 日本之巻」「音楽放浪記 世界之巻」の二冊にして文庫化されたものの一冊である。政治思想史を専門とする片山氏にとって音楽関係の本を世に問うたのはこの「音盤考現学」と「音盤博物誌」がはじめてであったらしい。この2008年刊行の「音盤考現学」と「音盤博物誌」の二冊はもっていて(というかこの二冊をふくむ片山杜秀の本のシリーズはすべて持っているし、片山氏の書く音楽関係の本は気がつけばすべて読むようにしているし、専門の政治思想の方面のものも一般向けのものは手にするようにしているから、片山氏の書くもののかなりは目を通していることになると思う。「音盤考現学」については2008年に感想を書いていた。
誰がいっていたのかは忘れたが、片山氏はそれほど面白くないことでも、とんでもなく興味深々なことであるように語るひとといっていたが、あることを語ってそのことについて読者にもっといろいろともっと読んでみよう調べてみようと思わせることができれば著者がその本を書いたことの意義の大半は達成されたことになるのではないかと思う。
さて、この文庫版には三浦雅士氏が「もうひとつの片山杜秀論」という解説を書いている。これがべら棒に面白いのでまずそこから。
冒頭の部分。「あまり大きな声では言えないが、ほんとうは、いわゆるクラシック音楽なるものはあと何年もつか、というのが、希代の天才軽業師・片山杜秀の潜在的な主題である。」
第二センテンス冒頭。「周知のように、と、つい言ってしまうのだが、1960年代一世を風靡したモダン・ジャズがいまや常磐津・清元と同じ境遇に入った」
これはこう続く。「のと同じように、19世紀からあ20世紀にかけて世界を制覇したドイツ観念論(カント・ヘーゲルからマルクス観念論! まで)ならぬドイツ・クラシック音楽(主流がロマン派だから紛らわしいのだが)もまた、常磐津・清元と同じ境遇に入ってしまったのである。」
三浦氏によれば、「ドイツ音楽の栄光は未来永劫続くと全身で思っている」のは音楽学校の演奏家志願者と教師だけなのだそうである。
モダン・ジャズが常磐津・清元と同じ境遇に入ったのだとすれば、同じころにもともと一世を風靡もしなかったいわゆる前衛音楽などは、常磐津や清元とも違って古典芸能あつかいさえされることなく、もはや誰もそれを顧みなくなっているのではないかと思う。若いころ何かの間違いで確か20世紀音楽研究所だかが主催したブーレーズの「主のない槌」の演奏会?を聴きにいったことがある。何か宗教の儀式のめいた感じであった。ある作曲家がいっていたが、ブーレーズの音楽は楽譜を見るととても美しいのだそうである。耳できいてもよくわからないが、目でみると面白い音楽というのも不思議なものである。
そして三浦氏の論のおそろしいところは、モダンジャズと一緒にドイツ観念論もまた常磐津・清元と同じ境遇にはいった、と書くところである。しかもドイツ観念論のなかにマルクスまでもがしっかりと入っている。
わたくしの前半生ではまだマルクス主義はいきていた。モダンジャズがまだそこそこに生きていたように。しかしいまではほとんどのひとがマルクス主義について、ああそういえば昔そんなものもありましたね!、というような態度である。
マルクス主義に一生を捧げたひとも沢山いたはずである。日本共産党という政党を支持するひとは今どういう思いでいるのだろうか? 昔はそれなりの業績をほこっていたが今や時代にとりのこされてしまって衰微してしまったかつての名門企業、というような感じなのだろうか? 昔からいる従業員たちを何とか食わしていかなければならないので、潰すわけにもいかず細々と営業を続けているというような感じなのだろうか? クラシック音楽ファンに負けず劣らず、街頭で活動している日本共産党の方々も高齢化が進行しているようである。
問題はドイツ古典派音楽とそれの鬼子?たるロマン派音楽である。
それで本書は、バッハ、モーツアルト、ベートーベンのそれぞれを論じる文からはじまる。
まずバッハ。その受難曲において神や神の子の内面まで描いてみせるというのは絶対者としての神への冒涜ではないか? しかしバッハの音楽は近代ブルジョア精神の発露である人間は何から何まで理解できるとする見方がヨーロッパにおいて勃興してきていたことの反映なのである。
次にモーツアルト。モーツアルトはかつてはその音楽はその天才とそのきまぐれに帰せられて、ベートーベンなどの音楽より下におかれていた。逆にその非論理性が、頭でっかちな理屈(たとえばシェーンベルク)の音楽より、上であるとされるようになってきている。
そしてベートーベン。ベートーベンは過渡期の音楽家である。封建領主からブルジョアへと、束縛から解放へと、あるいは秩序から自由へと、の。要するに古典派からロマン派への。身体から精神への。踊りと歌から人間の内面と精神への。
精神性への傾倒の極致がかつてのフルトヴェングラーの演奏である。それへの反動の一つの現れがノリントンの演奏。
ドイツロマン派というのは、物質的?先進国のフランスやイギリスへの後進国ドイツのルサンチマンが生んだとする説がある。明らかに太平洋戦争は物質的先進国英米への物質的後進国日本の精神力を恃む乾坤一擲の勝負という側面がある。近代日本の右翼思想の研究が専門である片山氏がまた西洋クラシック音楽に関心をよせる背景もまたその辺りにあるのであろう。
戦前日本の神憑りにこりた多くの知識人は物質という精神の反対にあるもので世界を説明できているように見えるマルクス主義に傾いた。しかし現実にソ連が崩壊してみると、それもまた所詮は頭で考えた理屈であるということになった。そして後に残ったのが”事実”である。実際のところ世界はどうなっているのか? それは人間の欲望によって駆動されていて、それをつかさどっているのが貨幣であるということになった。
それならわたくしをふくむもはや化石となりつつある西洋クラシック音楽愛好家というのは”クラシック”音楽に何をもとめているのであろうか?
もちろん、それは多種多様であろうが、情動の消費という側面はあるような気がする。現実の場に余計な感情を持ち込まないように、そこで感情を消費してしまうこと。しかし、それよりも何よりも、わたくしの世代が西欧近代の子であって、そこから到底まだ逃れられていないこと、西洋近代というものをもっともよく表しているのが西洋クラシック音楽と、同じくこれもまた西洋近代の産物である小説であることによるのではないかと思う。
西洋近代の命脈はそろそろつきかけていて、それにかわって帝政ロシアとか皇帝たちの中国がとってかわるのかもしれないが、それでもまだ西欧近代もしばらくは生き残っていくのではないか? それが片山氏の議論から三浦氏が引き出す「いわゆるクラシック音楽なるものはあと何年もつか」ということの問いの意味するところであり、片山氏の著書が答えようとしていることなのではないかと思う。
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自分にとっての昭和と平成
わたくしは昭和22年生まれであるので、昭和が終わった時には42歳、平成が今年に31年で終わるとそれから30年ちょっとということになる。物心ついてから自分が自身で経験した昭和は36~37年間となるので、ほぼ平成と変わらない年月ということになるが、自分の実感からすると自分にとって大事な経験はほとんどが昭和の内にあって、平成というのは何もおきなかった時代であるような気がする。もっとも平成元年から2年あたりにあった、ベルリンの壁の撤去、東西ドイツの統一、ソ連の崩壊、EUの創設、そして日本のバブルの崩壊などを昭和の延長のなかでおきたことと考えればということであるが。
平成になっておきたことは天変地異だけなのではないかという気がする。神戸の震災、東日本大震災、原発事故・・・。地下鉄サリン事件をも天変地異というか否かは問題であるが・・・。
バブルの崩壊は1990年(平成2年)とされているようであるが、それは後知恵で、その中にいた人間の実感としては、その当時はほんの小休止といった感じで、数年すればまた成長がはじまると思っていたのだが、案に相違して、何年たってもそうならない、それでいつのまにか時間が過ぎ、気がつけば失われた10年とか20年とかいうことになっていったように感じる。そしてわたくしにとって、平成というのは《失われた30年》といった何もなかった時代のように感じられるのである。
バブルの崩壊後、いつまでも景気が戻ってこないことに対し、犯人捜しが随分と盛んにおこなわれた。プラザ合意がまずかったとか日銀総裁が無能であるとかいろいろ言われた。速水総裁など随分な言われようであったことを記憶している。みんな高度成長がいつまでも続くのが当然であって、それがたまたまそうなっていないのはどこかでやりかたを間違えているからだと信じていたのである。そして、そのうちにそのうちにと思っているうちにいつのまにかうかうかと30年が過ぎてしまったというのが平成という時代であったのではないだろうか?
それではわたくしの経験した昭和というのは何であったかというと、東西冷戦の時代である。第二次世界大戦ではアメリカとソ連は連合軍であったわけであるが、それが昭和25年には朝鮮戦争で対峙している。チャーチルの「鉄のカーテン」の演説は昭和21年、わたくしの生まれる前年である。
東西冷戦の時代、つまりわたくしが経験した昭和とはマルクス主義と共産主義が現実の思想であった時代であり、平成の時代とは「え?、マルクス主義? 何かそんなものが昔ありましたなあ!」ということになった時代である。
わたくし個人にとっての人生最大の出来事は東大紛争(東大闘争)に遭遇することになったことで、昭和43年(1968年)である。そして、この東大紛争(東大闘争)に色濃く影を投げかけていたのがベトナム戦争であったと思う。ベトナムというアジアの地で東西の対立が顕現したわけだが、それは単に東と西の争いというだけはなく、ほとんど善と悪との闘い、正義と不正義の戦いというイメージをもって捉えられていたのではないかと思う。だから東大紛争(闘争)というのも、無給医局員の処遇云々といったことにかんするものではなく、正義と悪との闘い、正義の側に立つ善なる若手医師たち(あるいは若い学生たちや若い研究者たち)対権力を持つ悪の権化たる教授たちといった図式がかなり大真面目で受け入れられていたような気がする。昨日まで佐世保でアメリカの原子力空母エンタープライズの入港阻止闘争をしていたひとが今日は教授会に乱入して教授たちを拘束してつるしあげるというようなことが大した違和感なくおこなわれていた。
当時の学生運動というのはヘルメット・覆面・ゲバ棒という扮装で投石するというスタイルであったが、ヘルメットは色分けされ、革命的マルクス主義者同盟とか社会主義青年同盟解放派とか名乗っていた。ここにでてくる社会主義とかマルクス主語というのが一体何を指すものであったのか、今となってはまったく不分明というしかないが、それが東西冷戦の構造の中でベトナムというアジアの地で現実の戦闘が行われているという背景なしには出てこないものであったことは確かなのではないかと思う。つまり、昭和20年以降の昭和の時代というのはゾロアスター教的世界観の元にあった時代なのだと思う。一部のひとは東側を平和勢力と呼び、東側の核はキレイであると言っていた。
冷戦が終焉して「歴史の終わり」が来たかといえばフクヤマの予言は完全に外れて、いままで視野にもはいっていなかったイスラム世界が表舞台にでてきて、タリバンだとか9・11だとかISだとかが話題になったし、これからもいろいろなことがおきると思うが、非イスラム世界においては平成の時代は広い意味での西欧的価値観に収斂していった時代であったように思う。
そして平成が終わろうとする今、多くのひとが感じているのではないかと思うのが、広い意味での西欧的理念への信仰が薄れてきて、かわりにもっと土着の何か、皇帝たちの中国、帝政ロシアの過去、ヨーロッパといった抽象的理念よりも個々の国々の現実の歴史、あるいはまた白人至上主義(これもまた土着のもの?)といった方向に世界が分解していくというような方向なのではないかと思う。
わたくしが生きた昭和の時代というのは「思想」というのがあった時代で、平成というのは「思想」がなくなった時代、みんながまどろんでしまった時代で、だからみなを眠りを覚まさせるために、時々、天災がおきて覚醒をうながすことになったのかもしれない。
わたくしは昭和の時代を生きるうちに、広い意味での西欧的価値観を自分の方向として受け入れてきたように思う。一言でいえば、それは文明という言葉につながる何かなのだが、平成の後に時代にはそれらは旗色が悪くなり、もっと野蛮で野卑な方向が力をえていくのではないかと感じている。
今、塩野七生さんの「再び 男たちへ」を思うところあって読んでいるのだが、この本はソヴィエト崩壊前後に書かれた文章を集めたもので、それでゴルバチョフのことも出てくる。ゴルバチョフが出てきた時の一部の日本の知識人たちの彼への期待というはとても大きなものであったことを覚えている。ようやく言葉が通じる人間がソヴィエトにもでてきたとでもいうような。そしてこれは日本だけのことではなく西欧全般で見られたことでもあったと思う。要するに西欧的価値観をわかる人間がソ連にもでてきたということである。ところが、亀山郁夫氏と沼野允義氏の「ロシア革命100年の謎」では、ゴルバチョフがロシアで不人気であったのは公式の場に夫人をつれてくるような人間であったからだといわれていた。奥さんをそういう場に連れてくるような人間はロシアでは絶対に信用されないのだろうである。
そして今、ロシアはプーチン、中国は習近平の時代である。アメリカはトランプ大統領。ドイツでもフランスでも移民排斥派がトップになるかもしれない。どこかで流れが変わったのかもしれない。
次の年号がどのようなものになるのかはわからないが、その時代はもう少し動きのある時代になるような気がする。近々72歳になる身ではそれを傍観していくしかないが、ものごころついてから自分なりに構築してきたものの見方や考え方とは異なる方向に時代が動いていくことはほぼ間違いないように感じている。もともと自分の思うことや感じることが時代の多数派になったと感じたことなどは一度もないのだから、それはそれで少しも構わないのだが、自分が仮想敵とひそかに考えて人たちがいつの間にか舞台から消えてしまっていた。代わって、わたくしには理解できない物の見方や考え方をするひとが主流になってきている。それは思考というより感受性とか性格というのに近い何かかもしれないので、そもそも議論の対象にすらならないのかもしれないのだが。
しかし、わたくしのような《へたれ》がとにかくも今まで生き延びてくることができたのだから、昭和の後半も平成もいい時代であったに違いない。戦前の昭和に生まれていたとすれば、とてもそこでサバイバルすることはできなかったと思う人間として、これからももう少し、思うところ感じることを書いていきたいと思う。
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年表 昭和・平成史 1926-2011 (岩波ブックレット)
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池澤夏樹他「堀田善衛を読む」
集英社新書 2018年
このような本が刊行されたのは今年が堀田氏生誕100年(没後20年)にあたるということのためらしい。わたくしは堀田氏の本は「ゴヤ」しか読んでいない。手許の本の奥付は1977年刊の10刷となっている。30歳の年であるが、何でこれを読もうと思ったのかはおぼえていない。読後、何となくスペインという国について少しわかったような気がしたことだけ覚えている。
本書に鹿島茂氏の「「中心なき収斂」の作家、堀田善衛」という論があり、そこで鹿島氏が solidarité 連帯 ということを書いている。その辺りを少し引用してみる。
「フランス語に‟solidarité”(ソリダリテ)、連帯という言葉があります。これはフランスを理解するためのキーワードです。この‟solidarité”を求めるということは日本にはない。これが日本という国の一つの特徴です。フランス文学はどんなに身勝手な文学のように見えても ‟solidarité”つまり社会というものを通して他の見ず知らずの人と、ある種の連帯を求めていくという要素があります。
ところが、日本の私小説は、個人主義的というところは似ていますが、社会の部分が決定的に欠けている。だから、日本の私小説はかなり特異な文学になるわけです。
この社会とは何かと言ったら、自分ではない他者です。他者の中に自分を見出し、自分の中に他者を見出す。そいう視点が日本の私小説には決定的に欠けている。」
ここの部分を読んで、この solidarité は自分にも決定的に欠けているものであることを感じた。以下、それについて少し書いてみる。
このsolidaritéは、コミュニタリアニズム(共同体主義)とはまったく異なるものなのだろうと思う。リバタリアンがある局面においてはリバタリアン同士が結びつくというような方向なのではないかと思う。
「池澤夏樹、文学全集を編む」という本の、石牟礼道子との対談で池澤氏が自分について、「皆で一緒に何かやるというのが本当にだめなんですよ」といっている。「チームを作るのがだめなんですね」、と。池澤氏というのは今一つよくわからないところがある人で、眼高手低というか、いささか理論倒れの傾向があるし、自分(あるいは自分の理論)へのこだわりがちょっと強すぎる感のあるひとで、それにわたくしの偏見であるがいかにもインテリ風で、髭なども生やしているし、あまりそばにいてほしくないタイプのひとであると感じるのだけれど、ここでいっていることは実によくわかる。君子の交わりは「淡きこと水の如し」をよしとするはずで、自分を君子であるというつもりはさらさらないが、べたべたとひっついている奴に碌なのはいないとは感じる。
池田清彦氏に「他人と深く関わらずに生きるには」という本がある。タイトルを知っているだけで、どんなことが書いてあるのかは知らないが、でもそうだなあと思う。この反対が余計なお世話である。池田氏はリバタリアンを自称しているひとであったと記憶している。吉田健一は、友人の苦境に対してできることは見て見ぬふりをすることだけといっていた。
大岡昇平の「鉢の木会」という文章に、「「鉢の木会」の連中(神西清、中村光夫、福田恆存、吉田健一、三島由紀夫、吉川逸治、大岡昇平)はみんな孤独である。徒党を組むなんて、殊勝な志を持ったものは一人もいない」とあった。わたくしには、人が一緒になにかをするということが、すぐに徒党を組むという方向に思えてしまう。
しかし、そういう方向に話が向かうということは、わたくしが日本人であって、日本での中間団体というと、鹿島氏にいわせれば家の延長であり、ムラ社会を引きづっていて、機能集団とは決してならないということがある。
日本の中間団体は共同体化する、あるいは共同体化しない限りうまく機能しないということを何とか克服しようとして堀田氏が志向しようとしたのが、フランスで solidarité といわれるような何かであったというのが鹿島氏のいわんとすることなのだろうと思う。
堀田氏もとりあげたいわゆるフランス・モラリストの系譜のモンテーニュなどがその例として取り上げられている。しかし、たとえば渡辺一夫さんのようなひとが日本で何らか一定の影響力を持ったかといえば、そういうことはなかったように思う。モンテーニュは決して潔癖主義的なひとではなかったということも鹿島氏は指摘し、禁欲主義的方向の危険性ということもいうのだが(これはおそらく吉本隆明経由)、どうも日本では(あるいは世界のどこででも?)清貧の思想にはフランス・モラリスト路線はまず勝ち目がないのではないかと思う。
禁欲主義といえば本家本元はもちろんピュウリタニズムであって、わたくしなどには、最近の#me too運動にも微かにピュウリタニズムの匂いを感じる。(現在のピューリタニズムの象徴が禁煙運動であって、この運動が一定の成果を上げた後は矛先は今度は飲酒に向かうはずである。) それでカトリーヌ・ドヌーブさんのいうことにも一理あると思ってしまう。もっともドヌーブさんのいっているのは恋愛方面の話であるのに対し、#me too運動はもっと即物的な方面の話なのであろう。
ごく最近では、何とかという写真家がセクハラ云々で問題になっている。わたくしなどはまったく知らない名前だったが、一部の方面では著名な人であったらしい。一部の方面というのはいわゆる進歩陣営といわれる方面で、わたくしが若い頃、進歩的文化人と呼ばれる人たちがいて随分と偉そうな顔をしていたものだが、その人たちがシュンとしてしまったのが、いわゆる全共闘運動の成果の一つだったのでないかと思う。要するに進歩的文化人というのは偉そうな顔をしたいひと、人の上にたって下のものを指導する立場にあることに快感を感じるひとがその大勢を占めていて、その時々で偉そうな顔をできる問題を探し当ててそこに参加してくるわけであるが、もとより一兵卒として働くつもりはさらさらない。大学教授などというのにはそういう人がたくさんいて、その学説は民主的、教室では暴君などというひとが掃いて捨てるほどいた。
鹿島氏がいう ‟solidarité” はこれとはまったく異なるものであるが、日本にはこれは根付かないような気がする。なにしろ日本では上下関係がわからないと対人関係がはじまらない。それゆえの名刺交換である。
日本での人間関係はとにかく疲れるので、鍵のかかる部屋にこもってひとりで考えるということが、個人の基本的なありかたになってしまう。それではまずいぜというのが、鹿島氏のいわんとするところであると思うが、そうはいわれてもである。
最近のフランスでの黄色い服を着たひとたちの運動も ‟solidarité” のあらわれなのであろうか?
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上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」(2)
「世界一「考えさせられる」入試問題」という本が最近文庫化された。オックスフォードとケンブリッジの入学試験での面接問題を紹介し、著者が回答例を付したもので、そこに「フェミニズムは死にましたか?」というケンブリッジ大学古典学での問題も紹介されている。よくこのような地雷を踏むような問題を出せるものだと思うが、別に正解があるわけではなく、当意即妙に論理的かつ根拠をもった解答をすればいいらしい。
ここでの著者の解答例は穏当かつ微温的なものだと思うが、「この言葉(フェミニズム)は1880年代にフランスで生まれ、イギリスには1890年代に女性の権利を求める女性たちを揶揄する言葉として導入された」というような歴史的展望が示され、しかしこれが広く女性運動を指すようになったのは1960・70年代であり、いわゆる「ウーマン・リブ」の運動の過激あるいは行き過ぎによって、この言葉は否定的な意味合いも帯びることになった。それで1998年の「タイム」誌に「フェミニズムは死んだか?」という有名な質問がでることになったが、これは女性運動一般が死んだか?という意味ではなく、1960・70年代のフェミニズムは今でも有効であるかという問いであったのだという。
女性参政権運動のように、それが達成されれば使命を終える運動もある。60・70年代の運動も90年代にはその掲げた目的の多くが達成された。そのことが「フェミニズムは死んだか?」という問いがでてきた背景だったのだ、と回答例には書かれている。その後、女性たちは「女の子パワー」を楽しむようになった。最近の報告では、多くの女性たちがフェミニズムを拒絶しはじめているとされ、それはフェミニズムの中核をなす価値観に女性たちが疑問を抱くようになったからだという。
この前の(1)で紹介した「ウーマン・リブ運動は超観念論的である」という丸谷才一氏の揶揄はおそらく1960・70年代の運動、男こそが諸悪の根源であり、戦争も暴力もすべて男がもたらす厄災であり、この世が女性の支配する世界になれば、すべての不幸が地上から消えるであろう(とここまで極端ではないかもしれないが)といった方向をからかったものだったのだと思う。そして男性からフェミニズムの問題をみる場合、大きな声ではいわれないかもしれないが、ウーマン・リブやフェミニズムの運動というのは不美人たちのしている運動に違いないという抜きがたい偏見がそこに伏流しているように思う。丸谷氏の論も「今度、一度運動の集会を見にいってみよう。少しは美人もいるかもしれない」といった結びになっていたように記憶している。女たちは自分たちを能力でみてほしいと言っているのに、男たちは美人か不美人かという視点からしか女をみない、それが許せないというのがフェミニズムの起点にあるものだという思い込みが男の側には抜きがたくあって、フェミニズムの運動が不美人の失地回復運動のように見えてしまうのである。「わたしを容姿だけで評価しないで、もっとわたくしという人間全体をみて!」
これもまた(1)で紹介した三島由紀夫の「第一の性」で、女性は自分に対する賛辞を決して素直に賛辞であるとは受け取らず、その賛辞の頭に「美人ではないけれど」をつけて受け取ることをするとある。「あなたは頭がいいわね。(美人ではないけれど)」 では美人であればいいのかといえば、「あなたとてもお綺麗ね。(頭は空っぽだけど)」ということになるらしいから、とにかく難しいわけである。
「男流文学論」で、小倉千加子さんが「関西でいったら甲南を出て、あるいは神戸女学院を出て、そしてこういう(谷崎松子のような)優雅な生活を送っている人」ということをいって「私は向こうの方が賢くて私はアホな生き方をしていると思っている」という。ここが問題なのだと思う。フェミニズムというのはたまたま女性に生まれるということがたまたま男性に生まれるのより絶対的に不利であるという前提が出発点になっているのだと思うのだが、女性に生まれたことも悪くない、女の子であることを利用しよう楽しもうという方向もでてきているということである。「女の子パワー」である。上野さんはそれに否定的なのだが。
本書「女ぎらい」第3章は「性の二重基準と女の分断支配―「聖女」と「娼婦」という他者化」と題されていて本書の理論的背景を述べた章なのであると思うが、なんとも観念的である。「二重基準」「分断支配」「他者化」などこなれていない言葉ばかりである。たとえば、ここではサイードの「オリエンタリズム」が援用され、男が西洋、女が東洋といった類比が展開されていく。そしてオリエントの女としてプッチーニの「蝶々夫人」が例示される。「西洋の男」に都合のいい「東洋の女」の物語である、と。プッチーニは家庭生活に悩まされた人で、おそらくヴィクトリア朝道徳の偽善にふりまわされたひとだろうと思うので、「蝶々夫人」という夢物語に惹かれるところがあったのであろう。そもそも、オペラの筋などというのは荒唐無稽なものと決まっているのであるから(例えば、「トゥーランドット」におけるカラフのトゥーランドット姫への一目ぼれ、そしてリューという都合のいい女・・)、男というのはこういう夢をみるものなのか、哀れなものだなあ、と思って大所高所から見物をしていればいいのに、上野氏は「蝶々夫人」を見るたびにむかついて、気分よく見ていられないのだそうである。なんだか心が狭いような気がする。
さて、本章には「人種」も歴史的な構築物であると書かれ、「人種」という概念は帝国主義の世界支配のイデオロギーと共に誕生したとされる。しかし、われわれには同胞と余所者を区別する仕組みが長い狩猟採集生活の中で生得的に備わっているのであるから(農耕の生活に入って以降の人類の時間はその影響が遺伝的に固定されるにはまだ不十分であるとするのが常識的な生物学的見解であろう)、「人種」というものがかりに歴史的構築物であるとしても、そういう歴史的構築物をつねに必要とする志向というものがヒトには備わっているということを無視すると議論が平版になってしまうと思う。
だから、ジェンダーという概念が歴史的構築物であるとしても、セックスの方は生物学的なものであり、男と女でそもそも染色体構成が違い、ホルモンが違い、そのホルモンの違いが胎生期の脳の形成に決定的な影響をあたえるのであるから、生物学的に男女には決定的な違いがあって当然なのであるが、どうもそのような点はほとんど視野にはいってきていないようにみえる。
「男が男として性的に主体化するために、女性への蔑視がアイデンティティの核に埋め込まれている―それがミソジニーだ」というのが上野氏の定義なのであるが、何だか頭でっかちで、普通に読んでもなかなか理解できない言葉である。「男が自信をなくした時、それでも自分は女よりはましなのだと思って自分をなぐさめる」というような意味合いかと思うが、しかしと上野氏はいう。そういう男でも母から生まれたという事実はある、と。だから、それを救うための女性崇拝という側面もミソジニーにはあるのだ、と。そこから性の二重基準(男と女で性道徳が異なること)が生じることがいわれ、「聖女」と「娼婦」、「妻と母」と「売女」、「結婚相手」と「遊び相手」、「地女」と「遊女」といったように女性が二種類にわけられることになることがいわれるのだが、しかし、男がそのようであることについては、かなり強固な生物学的な基盤があることは、「利己的な遺伝子」をわざわざ繙くまでもなく、人間を進化の観点から論じた本にはどこにでも縷々書かれているところであると思うのだが、それらは無視されている。
人類が一応一夫一婦制をとってきながら、実態としては男が娼婦あるいは婚外の異性の存在を必要としてきたことの背景には上記の生物学的基盤があることは間違いない。男性同性愛の場合にはパートナーとは一期一会なのだそうであるが、女性同性愛の場合にはきわめて強固なパートナー形成になるのが普通だそうである。「分割して統治」しようとしてそのような二重基準を男が作ってきたというのはあまりに理論倒れしている、あるいは被害妄想が生んだ論であると思う。
男がしていることを女にもさせよ!というがフェミニズムの基礎であるとすれば、女性が解放されれば、女性もまた「結婚相手」と「遊び相手」の双方をもつことが望ましいことになるのだろうか? おそらく行き着く先は「結婚相手」が消滅してすべてが「遊び相手」になることが望ましいという世界であろう。
上野氏の理想とするところは一夫一婦制の堅持の方向ではなく、まともな大人同士の自由な交流という世界なのではないかと思う。18世紀フランスのサロンのような世界かもしれない。しかし、ここに男女の絶対的な非対称性が出てきて、それは妊娠出産は今のところは女性にしかできないということで、少なくとも妊娠の時期には女性に圧倒的な身体的負荷がかかり、子育てにも大きな負担がかかるということである。
どうも上野氏が攻撃している男性というのはあまり上等でない部類に属する男ばかりであるような気がする。男にも女にも上等な人とそうでない人がいるなどといってしまえば、あまりにも身も蓋もない話になってしまうが、上野氏が口をきわめて罵っている吉行淳之介も男であるわたくしにはなかなか上等な人間にみえるというあたりに、おそらく問題が潜んでいるような気がする。
前の(1)で紹介した三島由紀夫の「第一の性」で、三島は男性の特性はデリカシイであるといっている。これを訳すと「思いやり」あるいは「見て見ぬふり」になるのだと。わたくしは吉行の文学というのは人間関係へのデリカシイをひたすら描いたものであると思っているので、吉行がそんなにダメな人間であるとは思えないのである。上野氏が激しく非難する吉行のミソジニーというのは、女性がそのデリカシイの欠如の故に自分の内面にずかずかと踏み込んでくることへの拒否ということなのだと思う。この自分の内面に他者が入り込んでくることの拒否という姿勢はまた三島にも強くあって、そのことを橋本治は「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」で「塔の中の王子様」として強く批判している。三島にとって他者とは自分の絶対性を脅かしに来るものであったのだが、それは三島が自分の絶対性を信じる近代的な知性の持ち主だったからなのだと橋本治はいう。一部引用する。「男にとっての「他者」とは、別に「女」だけではない。それ以前、「自分以外の男」はすべて「他者」である。「他者」によって自分が脅かされる―それは最大の危機である」 この議論のほうがずっと射程が長いと思う。要するに、吉行は別に「女嫌い」なのではなく、自分のなかにずかずかと踏み込んでくるような無神経な他者が嫌いなのである。そして女性がたまたまデリカシイの欠如によって自分の内面に踏み込んでくることが男性の場合より多い、という理由で「女嫌い」に見える、というだけのことなのである。要するに吉行も三島も人間嫌いであったという身も蓋もない話になってしまうのかもしれないのだが、それゆえに橋本治はいう。「女達の声が生まれる―どうして他者と向き合えない? どうして他者を愛せない?」 何で自分だけを愛しているのだ! もっと他者に目を開け! 上野氏もいう。「どうして女と向き合えない! どうして女を愛せない!」 しかし、それができない理由は男性が女性を支配しようとするためではなく、男性が女性よりもずっと弱い性であるからというのが三島由紀夫たちのいいたいことなのではないかと思う。
バロン=コーエンによれば、共感する能力は平均して女性のほうが男性よりも優れている。それに対し男性の脳は論理化する能力において平均して女性よりも優れている。そうであれば、デリカシイ(≒共感能力)が欠如しているからという理由で男が女を嫌うというのは理論にあわない。しかし三島由紀夫はたとえばこんなことをいう。「男が女より強いのは、腕力と知性だけで・・、その知性というのも、もともと男が感情の弱さをカバーして、女に負けないようにと発明した一種のルールにすぎない・・。男心と来た日には、正に、「複雑微妙、感じ易く、傷つき易く、ガラス細工のように高尚な芸術品・・(だから)男のデリカシイは、(それを防御するための)一種の社会的訓練の結果と言えます。」 そしてある女性同士の会話を示して、「ここにはデリカシイというものがみじんもありません」という。だが、デリカシイが社会的訓練の結果男性が後天的に獲得したものというのはバロン=コーエンの生得説と対立することになる。
まとめてみる。男性は生得的に論理的であり、一方女性は生得的に共感能力にすぐれる傾向を持つ。また進化論的必然から男性は多婚的であり、女性は単婚的である。しかし、ここからは男性が傷つきやすい性であるとか、それにくらべて女性はタフで打たれ強い性であるといったことは導出されてこない。そこでもう一つ、男性は自己批評的な性であり、女性は他者批評的な性であるという補助線を導入してみる。これを少し延長すると、男性は自己否定的な性であり、女性は自己肯定的な性であるという命題も導出されてくる。つまり男性は自分を好きになれず、一方、女性は自分が好きであるということになる。吉行淳之介や三島由紀夫の人間嫌い(≒女嫌い)はここからでてくる。だから男性がそれでも自己を肯定できるようになるために多大な努力を払うことが要請されることになる。一方、女性は何もせずにいても自己を肯定できる存在であるということになる。だが、これは上野氏が書で描く男性像・女性像とは大きくことなる(正反対?)の像であるのかもしれない。
上野氏は女性のなかでは際立って論理化能力に優れたひとなのだと思う。それにもかかわらず論理化能力での競争において、対等なリングにはたたせてもらえず、女性であるということの故につねにハンディキャップを負って闘うことを強いられてきた、そのことへの怨嗟が氏の行動にパワーを与えてきたのであろうと思う。一般的にフェミニズムの運動は男性と平等な場で競えることを目指すものである。
ここで、論理と共感以外にもう一つの因子を導入してみることにする。客観性ということである。それは自分をも客観的に見る能力をふくみ、それゆえに自分を笑うことのできる能力でもあり、ユーモアとも通じる何かである。この能力は相対的にみると男性のほうに女性よりは多く配分されていると仮定する。この仮説が正しいとすると、男性は女性にくらべ自分を信じることができにくい性であるということになる。
デリカシイを共感と結びつけると話がうまく展開しないのだが、デリカシイが自己批評・客観性と結びつくのであれば、それが相対的に男性に多くみられるとすることを説明できるのかもしれない。ここから女性がタフで、男性が傷つきやすいとする説がでてくることも導出できるのかもしれない。
自分が信じられる性と信じられない性が相対したら、自分が信じられる性のほうが強いに決まっている。吉行淳之介が「春夏秋冬 女は怖い」というのはそのことであるのだろうとわたくしは思う。
「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」で橋本治は、三島の最大の禁忌は「安全な場所にいる私を脅かしに来る者があってはならない」であり、「恋によって自分の絶対が脅かされること」であったという。なぜそのようなことになるか、それは三島が「自分の絶対性を信じる近代的な知性」の持ち主だったからだという。女だけではなく、自分以外の男もすべて他者である。その他者にむかって歩き出すことができない。なせか、認識者である三島が自分の正しさに欲情しているからだという。
三島が信じたのは知性であったかもしれないが、吉行の場合はそれとは違う皮膚感覚といったものであったかもしれない。吉行の場合もそれは絶対であって、それを基準に他を裁く。そして自分の皮膚感覚に違和を生じさせるものを排除し、拒絶する。
「男流文学論」で富岡多恵子が「三島が死んだのは結婚がいやだったから」という説を披露している。「要するに、たかをくくっていたわけよ。結婚ぐらいできる、と・・・だけど、やってみたら、そうはいきませんよ。…結婚はやっぱりそんなになめたものじゃない。彼はなめてかかっていたのと違いますか」 上野千鶴子は口をとんがらせて「結婚なんて女を殺さないと同じように男も殺さないですよ。」と反論しているが・・。小倉千加子がおちょくって、「上野さんは女三島由紀夫なんですよ。」といっている。三島は、自分は相手が全部理解できるが、相手は自分のことは一切理解できないという関係が可能であると信じて結婚したが、結婚してみて、そうは問屋がおろさなかったという話なのだと思う。上野氏は「貴族的な結婚というのは、愛情の交流などはなから期待しないのではありませんか?」といっていて、ここらに氏の本音があるのではないかと思うが、「どうして女と向き合えない! どうして女を愛せない!」などというのはフェミニストの建前ではあっても本音ではなく、貴族主義的なサロンでのその場限りの淡い交流といったほうがずっと上野氏の理想に近いのではないかと思う。
「鏡子の家」の清一郎が問題なのだと思う。「鏡子の家」を執筆した当時の三島の想定していた生き方というのがそこに描かれているはずである。しかし、「鏡子の家」が発表当時不評であったのは、そこに描かれた生き方があまりに子供っぽいと読者には感じられたたためではないかと思う。「金閣寺」流の華麗なレトリックをとりさってみると、三島の小説で描かれているものは案外と凡庸で底の浅いペシミズムあるいはニヒリズムのように見えてしまうということである。
近世のひとである橋本治は近代のひとである三島由紀夫や吉行淳之介の抱える病弊を糾弾できるしっかりした物差しをもっている。しかし、上野氏は近代の人であって、氏がミソジニーとして糾弾するものも近代の産物なのであるから、それを切ろうとすると刃は自分のほうにも向かってくることになるのではないかと思う。
ものごとを最低の鞍部で乗り越えてはならないといった言い方がある。あるひと(もの)を批判しようとするならば、そのひとのつまらない欠点などをあげつらってはならず、そのひとのもつ最高の美点において批判しなくてはいけないといった意味なのだろうと思う。どうも上野氏の三島批判や吉行批判は最低の鞍部でそれを越えようとしているように見える。
わたくしがなぜ吉行や三島にこだわるのかといえば、わたくしの大学1〜2年のときの神輿が吉行や三島だったからで(高校のときは太宰治)、どうも吉行や三島への批判が他人事とは思えないからなのだと思う。一浪してなんとか大学に潜り込んで、やれやれこれでもう勉強しなくてもすむなどと思って、まただらだらと小説などを読むようになったのだが、最初にいきあたったのが吉行で、ちょうど吉行がマンの「トニオ・クレーゲル」や萩原朔太郎をみつけて救われたと思ったのとちょうど同じことが、自分には吉行によっておこったのだと思う。要するに自分と同じような感受性を持つ人間をみつけたといった感じである。しかし吉行ほど強い人間ではないわたくしは、どうも吉行路線一本でいけるかなという不安もあったようで、それでいろいろと読んでいくうちに、吉本隆明経由で福田恆存にいきあたったことについては、ここで何回か書いていると思う。もっともその当時の福田理解はかなり吉行にひきつけたもので、福田=ロレンスの「山に入って、道を説くな。そうすれば涅槃にはいれるであろう」というのも吉行路線だと思っていた。多分、D・H・ロレンスも上野氏からはミソジニーの人ということになるのではないかと思う。その数年後にでた庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」をも福田恆存路線を喧伝する本である思っていたのだから、わたくしの読みは随分と偏っていたのであろうと思う。吉行をぐだぐだと読んでいて、やはりこれより福田恆存路線かな?などを思っているうちに、東大闘争というか東大紛争というかの渦中に巻き込まれることになり、福田恆存の属した「鉢の木会」のつながりで三島由紀夫や吉田健一を読むことになり、三島がああいう死に方をしたので健一路線一筋でいくことにしたということについても何回か書いていると思う。そしてわたくしが愛読してきた著者のほとんどが上野氏からはミソロジーのひとといわれるので、口を尖がらせてグダグダとあれこれ書いているのだと思う。
それでは吉田健一もまたミソロジーのひとかといえば、この人そもそも女にあまり興味がなかったひとなのではないかと思う。だから自分なりに女を描こうとしたのであろう「本当のような話」は随分と無理をしているというかつくりものめいた感じをあたえる。それゆえ、吉田健一の描く女はみな男性の同類の嫌疑があり、鎧兜をまとっているようでウッカリ手も握れまい、などと石川淳にからかわれることにもなる。
人類の歴史において、そのほとんどは人間=男であったわけで、いまだにそれは大きくかわってはいないのかもしれない。だいぶ以前、おそらくわたくしが22〜23歳のころ、NHKの教育テレビの成人の日の特集か何かで「大人になるとはどういうことか」といったテーマで討論会のようなものをやっていたのをみたことがある。福田恆存とか庄司薫とかもでていたので見たように記憶しているが、そこで喧々諤々、大人になるとはという議論が続いて、かなり終わりに近づいたころ、ある女性の参加者が、「何だか議論が、男性が大人になるという方向ばかりで、女性が大人になることについての議論が足りないような気がするのですが」といったことをいって、それをきいて男の参加者達が「ああ、そうだ、この世には女というものもいたのだ!」とはじめて気がついたような本当にびっくりしたような顔をしていたのをいまだに鮮明に覚えている。フェミニストたちの憤怒を思うべし!
この「女ぎらい」に文庫版増補として「諸君! 晩節を汚さないように―セクハラの何が問題か?」という30ページ長の結構長い、最近の「#MeToo」運動などをからめた文章が収載されている。ここでいわれるのはセクハラが生物学的なセックスの問題ではなく、社会的に構築されたジェンダーの問題であるということである。男が自分が優位な性であることを確認するための行為であるというのである。これまた随分と理屈っぽい文章であるが、わたくしからみるとセクハラをするようなひとは社会的地位とは関係なく人間としてあまり上等ではないということにつきるのではないかと思う。人間として上等でないひとはたくさんいるから、そういうひとが社会的地位をえるとセクハラをする。要するに、今、男性が権力を握っているからセクハラをするのが男性の側であるが、もしも女性が権力を握るようになれば、女性にも人間としてあまり上等でないひとはたくさんいるから、女性だってある割合セクハラをする人間がでてくるに違いない。それではこれは、女が自分が劣位な性ではないことを確認するための行為ということになるのだろうか?
男はポルノを読む。それなら女でこれに相当するものはおそらくハーレクイン・ロマンスのようなものであり、最近はそれのポルノ版のようなものもでてきているらしい。ポルノは大人の童話であるといわれる。ハーレクイン・ロマンスもまた大人の童話なのであろう。
男であるわたくしの偏見であるかもしれないとも思うが、ポルノにはどこか含羞のようなものがあると思う。「こんなことに熱中しちゃって、へへへ、お恥ずかしい」といった感じである。含羞というのは自己批評の産物である。一方、最近の女流作家の書く小説の一部には女性の感じている性感というのがいかにすばらしいものであるかということをただただ書きたいのではないかと思うものがあって、そこには含羞といったものは微塵も感じられない。
伊丹十三の「女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!」の巻頭に「性感論的女性論」という村上節子との対談が収載されている。そこで村上氏は「性は女が神と交合するための儀式で、男はその儀式の道具になって生を燃焼しつくす」などということを言って、それに対し伊丹氏は「どうも、とてもついてゆけない話ね、それは、なんで神が出てくるのかね、・・・どうも女の人というのは肉体、あるいは生理について過大な意味づけをしたがるようなんだけど、そういう思い込みは一種の性の神秘化であって、むしろ性差別の産物なんじゃないかね」と答えている。この対談でめだつのは伊丹氏が「なんだか馬鹿な話してるね、どうも(笑)」といった自己批評あるいは韜晦のようなものをつねにもっていうのに対し、村上氏が一貫して真剣であるということである。ここでも伊丹氏は「男であることの一つの証明としてのセックス」という上野氏と同様の視点をとっているし、「おそらく、女のほうが男を人間としてちゃんと見てるんでしょうね」ということもいっている。また女性の「対人関係における感度の良さ」ということもいっている(これを伊丹氏は生物学的な脳の構造によるものではなく、性差別の社会が生み出したものとしているが)。
もしも男が女よりいくらかでも優れていることがあるとすれば、男の自己批評性というか自己を客観的にみる視線のようなものだけではないかと思うのだが(ユーモアというのはそこから生じるのだと思う。ユーモアは男性のものであるといえば女性から怒られるだろうか?)、そういう良さというものを上野氏の議論は根扱ぎにしてブルドーザーで一気に消し去ってしまう、いささかデリカシイに欠ける行き方になってしまっているのでないかと思う。それは吉行や三島の文学を最低の鞍部でこえてしまうことで、あまり実りのあるものとはならない非生産的なもののように思えるのである。
「フェミニズム」は死んだのだろうか? 最近の上野氏はもっぱら介護の専門家であって、フェミニズムの陣営の一部からはわれわれの戦線から逃亡したといった批判もでているらしい。上野氏はきわめて明晰なひとであるから、フェミニズム運動の場の生産性がめっきりと低下してきていることは感じているだろうと思う。
巻末のセクハラを論じた文で、大学におけるセクハラ問題が表にでた嚆矢として京大矢野暢教授事件(1993年)がとりあげられている。矢野氏の本は何冊か面白く読んでいたので、この報道があった時は意外に感じたものだった。現在も社会学者として大いに活躍されているO元京都大学教授もセクハラで退職したという噂をきく。知的能力があるひとが人間として上等であるとは限らないのである。別に京大にそういう人間が多いということではなくて、本書によれば、東大でも「出るわ、出るわ」だということである。この京大の2例はたまたま文系であるが、東大の場合には「文系より理系」なのだそうである。大学の出世競争で偉くなるひとが人間として立派であるとは限らないことは、少しでもそこにいたことのある人間であれば誰でも知っていることであろう。それで、上野氏は東大でのセクハラ撲滅のために大いに頑張っているらしい。上野氏はセクハラは女性蔑視と男としてのアイデンティティの確認が核心にあるというが、セクハラをする偉いさんというのは別に女性だけでなく、自分の下の男性だって蔑視しているに違いない。
男としてのアイデンティティの確認ということについていえば、伊丹氏は「数の人」ということをいっていて、「数の人」はセックスをやらないと鼻血がでるというようなことではなく、自分の男らしさの証明がすんでない人が、自分で自分の男らしさを納得するための手立てなのだといっている。上野氏の論と伊丹氏の説は一見すると同じことをいっているようにみえるが、上野氏によれば男性性の根源からそれは発生するとされているのに対し、伊丹氏の場合は男性が成熟すればそれは克服されるものとみなされているようである。もっとも両氏ともに広い意味での精神分析学的な見方を採用しているという点で通底するものがあると思われる。
伊丹十三は「男たちはみんな男らしくあらねばならぬ」と思っているというし、三島由紀夫も男は「何くそ! 何くそ!」と人の笑い者になるまいとして歯をくいしばって生きてきているという。どうもここらへんがわからないところで、わたくしなどははじめから競争から降りているというか、社会の中でどこかに自分の居場所さえあればいいと思っていて、ひとを押しのけてなどという気持ちが欠けているように思う。男らしさが足りないのであろう。
吉行淳之介は「戦中少数派の発言」で、昭和十六年十二月八日、真珠湾の戦果に歓声をあげる当時中学五年生の同級生のなかで、一人そこから孤立していた自分を回想している。吉行氏はそれを生理とか心の肌の具合とかいっているわけであるが、わたくしも自分に何か男として足りないものがあるように思っていて、競争原理からはじめからおりてしまっているところがあると感じている。わたくしは大学にはいって吉行氏が「トニオ・クレーゲル」や萩原朔太郎に発見したようなものを吉行氏の初期の創作に発見したわけで、どうも上野氏が「女ぎらい」の代表例として吉行淳之介を挙げるのをみると、理屈以前に生理的に反発するものがあることを感じる。そういうことがあってここでは必要以上に上野氏に厳しいことを書いてしまったかもしれないが、わたくしは吉行氏はセクハラをするようなひとの対極にいるひとであると思うので、どうにも本書でいわれていることに納得できないものが残ってしまうという感じを禁じえないのである。たぶん、繊細さが足りないと感じるのであろう。何だか上野氏の論がブルドーザーで地ならしをしているように見えてしまうのである。もう少し惻隠の情のようなものがあってもいいのではないだろうか。武士は相見互い、というのも男世界でしか通用しない言葉なのであろうか。
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女たちよ!男たちよ!子供たちよ! (文春文庫 (131‐5))
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上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」(1)
朝日文庫 2018年10月
2010年の刊行された単行本の文庫化で、文庫化に際し2編の文が追加されている。
この本を読んで、どこかで丸谷才一氏が、まだウーマン・リブと呼ばれたりもしていたころのフェミニズムのある集会を評して、観念論に門構えとしんにゅうをつけたみたいと揶揄していたのを思い出した。随分と理屈っぽい本である。
本書は学術論文ではないのだからそれでもいいのかもしれないが、フロイトやセジウィック、フーコー、サイードといったひとの言説があたかもそれが真理をいいあてた説であるかのように自明のものとして導入されているところが多々あることに面食らった。人文科学の分野ではまだまだこんな手が通るのだろうか? そしてそれと裏返しの関係として、生物学からの観点をほとんど完全に欠いているように見える点も気になった。進化論とか脳科学とか進化心理学などの成果は一顧だにされていないように思えるし、精神医学といえばフロイトとラカンではちょっと困るとのではないかと思う。
本書はジェンダーを論じたものであるので、生物学からみたセックスとは異なる視点がとられていること自体は当然なのであるが、従来は文化的なものとされていた男女の差が、本当は生物学的な基礎をもつのではないかと見直されてきているものが多々あるのであるから、それへの配慮を欠いていることはやはり問題であると思う。どうも本書は自分に都合の悪い言説は一切無視するという傾向がみられるように思う。
「共感する女脳、システム化する男脳」というタイトルで訳されている本(原題は The Essential Differense 「本質的な違い」2003)の著者サイモン・バロン=コーエンは「(この本で論じているようなテーマは)政治的に扱いが難しく、1990年代にはとても発表することができなかった」と書いている。フェミニズムの運動はある時期、脳科学の学問研究に抑圧的であったのである(今でも禁煙運動はタバコに関する学問研究に抑圧的に作用しているのではないか、とわたくしは疑っている)。
さて、表題にあるミソロジーというのはまだ日本語として熟していない用語であるが、通常の訳は「女性嫌悪」あるいは「女ぎらい」、もっとわかりやすくは「女性蔑視」のことであると上野氏はいう。しかし、通常の日本語での「女嫌い」「女性蔑視」とは随分と趣の異なる含意をもつ特殊な用語である。この言葉は男性にとっては「女性蔑視」、女性にとっては「自己嫌悪」と性によって非対称にあらわれてくる、と上野氏はいうのだが、本書で扱われるのはほとんどが男性の女性蔑視のほうである。
そこで、とてもわかりにくいミソジニーという言葉を理解するための具体例として上野氏が提出してくるのが、吉行淳之介である。上野氏のいう「女好きのミソジニーの男」である。下世話にいえば、人間としての女は嫌いだが、生物といしての女は好き。
しかし、ここでの吉行氏をめぐる議論は人文科学の学問的手続きとしても、かなり杜撰なものであるように感じる。上野氏にいわせると、吉行は「女の通」ということになっていたが、「性の相手が多いことは、それだけでは自慢にならない。とりわけ相手がくろうと女性の場合には、それは性力の誇示でははなく、権力や金力の誇示にすぎない」として、「作家吉行エイスケと、美容家として成功した吉行あぐりの息子として生まれた淳之介は、カネに困らないぼんぼんだっただろう」という。しかし、いささかでも吉行の書いたものを読んでいれば、吉行淳之介はぼんぼんなどではなく、しばしばカネに困っていたひとであると思っているのではないかと思う。金持ちのボンボンと思うひとはまずいないはずである。あまり売れない作家であったエイスケは淳之介が中学五年の時に急死しているわけだし、あぐりさんの美容室がどのくらい流行っていたかはしらないが、淳之介が親の金で遊び暮らすぼんぼんの生活をおくっていたとは到底思えない。
また、吉行が銀座のバーでモテたのは、「カネばなれがよいだけでなく、「ボク、作家の吉行です」と自己紹介したからこそだろう」と書く。これまた「だろう」という推測ではあるのだが、かつて吉行読者の一人であったわたくしとしてはは(そしてある程度吉行を読んでいるひとならみなそう感じるのではないかと思うが)、吉行は「ボク、作家の吉行です」というようなデリカシーのないことは決して口にしないひとであったであろうと確信している。そういうことを平気で言う人であれば、氏の書く小説があのようなものになったはずは絶対にないとわたくしは感じる。もしも氏がモテたとすれば、氏がある種の繊細さを持つ人であったからであろうと思う。「原色の街」での一エピソード、望月五郎と春子という女の写真撮影をめぐるエピソードを耐えらられないと感じる主人公元木英夫は、それを自分の感受性の鋭さではあっても優しさではないと自己分析をする。吉行氏の小説のモチーフはそういう感受性あるいは繊細さの提示であって、物語はそれを具体的に示すための装置に過ぎない。上野氏は吉行氏の小説やエッセイをどのくらい読み込んでいるのだろうかと疑問に感じる。そしてミソジニーということの一般論からの類推で勝手に吉行氏の像をつくりあげているとすれば学問的手続きとしては論外である。「吉行を読めよ。女がわかるから」という男とか、「女が何か知りたくて、吉行を読んでいます」という女というのもいたのかもしれないが、それはどこの世界にも程度の低い人間はいるというだけの話であって、そういう人間から上野氏は被害を被ったらしいけれども、それだからといって吉行淳之介が悪いということにはならないはずである。そもそも何かのために文学を読むということ自体、文学の享受のしかたとしても論外である。
上野氏は、吉行の作品を読んでわかるのは女がどのようなものであってほしいかについての男の幻想であるとして、なんとサイードの「オリエンタリズム」まで議論に持ち出してくる。男(西洋)が女(東洋)に抱く幻想が書かれているのが吉行の作である、というのである。なんとまあ大袈裟な! 牛刀で狗肉を割くような野蛮である。そういうことをしたら文学の繊細な手触りなどどこかに消し飛んでいってしまう。
上野氏は吉行が自作の指標の一つとしたであろう永井荷風の場合、荷風と娼婦との関係は「女がその境界を越えて自分の領分に入ることを決して許さない。女と目線の高さを同じくしてつきあったというより、女を別人種と見なすからこそ、成立した関係である」としている。そして吉行もまたそうなのである、と。それはその通りである、と思う。
橋本治は「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」でのなかで、三島の原理を「安全な場所にいる私を脅かしに来る者があってはならない」であったとしている。それゆえに、恋愛というのがその原理を覆す可能性のある恐ろしいものとなりうるがゆえに排斥されるのだ、と。そして三島に体現されたこのような原理は多くの男に、大なり小なり共有されているものであるから、そこに女たちの「どうして他者と向き合えない? どうして他人を愛せない?」という声が生まれてくるのだという。
ここで上野氏がいっていることも、それと同じことなのだと思う。なんで男は女と向き合えないのか? 女をモノ扱いするのか、一個の人間として見られないのか?
中村光夫の最初の長編小説「『わが性の白書』」に、ある男が銭湯にはいっている場面がある。何でここでは気が晴れるのだろうと考えて、たぶん女が絶対に這入ってこないせいだろう、と思う。この場面を、ある女性評論家がバカじゃなかろかというように言っていた。しかし、かつてイギリスのクラブは女人禁制であったという話もある。イギリスでの女性参政権獲得が1928年である。
吉行淳之介に「春夏秋冬女は怖い」という本があって副題が「なんにもわるいことしないのに」である。それによると、男は自分というものを客観的にみている。しかし、女は自分しか見ていない。男は繊細であるから、見て見ぬふりということができる、しかし女は平気で人の中にまで踏み込んでくる。だから怖いということになる。
三島由紀夫はその「第一の性」で、男はみな英雄で男の栄光の源はすぐに足が地につかなくなってしまうことにあるという。ところが地に足がついていて地上の現実こそがすべてである女は、それゆえに愛の専門家となるのだが、「(地に足がつかず、現実がみえない)男は愛についてはまだお猿クラスですから、愛されるほうに廻るしかない」ことになる、という。男は自分のしたいことをしたいから、抛っておいてほしいのだが、女はそれを許してくれない。「わたしはあなたが好き」といって勝手に侵入してくる、だから女は怖いということになる。ミソジニーの根源は男だけのクラブには勝手に侵入してこないでほしいという男の切なる願望に発するのだと思うが、女から見ると自分の中に閉じこもっていて自分のほうに目をむけてこない男が許せないわけである。
そして、男が女を怖いもう一つの理由として、男は自分に自信がもてない存在であるということがあるのだが、それなのに(男がら見ると)女がなぜか自信をもっているように見えるということがあるのではないかと思う。そのあたりのことはたとえば山崎正和氏の戯曲「おう エロイーズ!」などによく描かれているように思う。山崎さんというひとは政治とかいった自分の外部のことを論じている場合と、戯曲で個々人を描く場合とで、まったく別人なのではないかと思うくらい肌合いの違う論をなす不思議なひとである。
その山崎氏をふくむ丸谷才一と木村尚三郎の「鼎談書評」で、吉田健一の「まろやかな日本」が論じられている。そこで丸谷氏は「吉田健一にとって、人の足を引っ張るという日本社会の習慣は不思議でしょうがないものだったんですね。吉田さんという人が一種の奇蹟的存在であったいちばん大きな特色は、こういう現代日本の村落的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如ではないでしょうか」といっている。
本書の第二章で、上野氏は「男の値打ちは、男同士での覇権ゲームで決まる。男に対する最大の評価は、同性の男から、「おぬし、できるな」と称賛を浴びることではないだろうか」と書いている。「男でないわたしにはよくわからないが」という但し書きつきではあるが、上野氏もまた村落的学者共同体のなかで生きているひとなのではないかと思うので、女性としては例外的に「おぬし、できるな」という賞賛に反応するひとなのではないかという気もする。叙勲などというのも公認「おぬし、できますな」であると思うが、上野氏などにもいずれその順番がまわってくるのだろうか?
「第一の性」で、三島由紀夫は、男は子供の時から競争原理の中で生きてきて、その英雄ごっこの延長戦上にあらゆる政治・経済・思想・芸術の成果が生まれてきたのだといっている。こういう競争原理がどれくらい日本の村落的性格に由来するのかはわからないけれど、上野氏を駆動してきたものの根源に、もしも自分が男と差別されずに公平に扱われるならば、もっと上にいけるのにという心情があったのではないかと思う。「セクシー・ギャルの大研究」などというのを書いていたころには、まさか将来、自分が東大教授になるとは考えてもいなかっただろうと思う。
氏に「ケアの社会学」という本があって、何だかものものしい本で本屋さんで見て、何で今頃こんな本を出すのかなと思っていたら、学位論文なのだった。東大教授になってからのものである。上野氏には「家父長制と資本制」というこれまたものものしい雰囲気の本があって、学位論文なのかなと思っていたら、違っていたらしい。上野氏ほどの盛名があって東大教授にまでなれば、今更、学位なんて関係ないのではないかと思うのだが、学者社会のメイン・ストリートに入ることになるとそうでもないのだろうか。江藤淳さんが東工大教授になってから学位をとったことを思い出した。
くだらないことばかり書いていたら、なんだかまだ30ページくらいまでである。もう少し書くつもりでいる。
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セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (岩波現代文庫)
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