シン・ゴジラ
今日午後暇だったので、アマゾン・プライムで「シン・ゴジラ」を初めて観た。
前半は現在のコロナ禍における日本の混乱を予見したみたいで(もちろん本作はコロナ禍以前の製作)、それなりに面白かったが、後半になると神風特攻体を想起させるような話になって、何だかなあという感じであった。大国のいいなりにはならないぞ、大和魂をみせてやるみたいな。「永遠の0」?
このゴジラという生物(だろうと思う)の説明がなんともで、進化というのが魔法のランプのように使われている。ゴジラという個体の一世代のなかで進化がおきるというのだからもう滅茶苦茶である。
初代ゴジラは確か原水爆実験の結果生まれたとされていた様に記憶しているが、どうもわれわれには、原子力というのが《現代の神》になってしまっているような気がする。
「シン・ゴジラ」のシンは、《sin》なのかなと何となく思い込んでいた。われらの罪を背負う存在としてのゴジラ。しかし、どうも」そうではなく、新・真・紳なのだそうである。ちょっとがっかりした。
G7
現在、英国でG7(2021G7サミット)がおこなわれているのだそうである。
参加国は、英米加独仏伊そして日本。菅首相はコロナ・ワクチン接種率が低いので肩身がせまい思いをしているのだそうである。
なんで、日本でワクチン接種がこんなに遅れているのか? わたくしには少しも理解できないが、あるいは、端的に日本の国力が落ちてきているということなのではないかという気もする。
G7の参加国がどのようにして決められるのかは全く知らないが、もしも日本がその参加メンバーから外されるようなことがあると、日本は大変な混乱に陥るのではないかと思う。
先進国の一つとして遇されているということが日本人のプライドを大きく支えているのではないかと思うので、その大きな根拠となっていたG7の加入国ではなくなると、その他のG7加入国への怨嗟の声が出てくるかもしれない。イタリアはまだ何で加入をゆるされているのだとか。
江戸幕府が崩れて、日本が西洋を一から学ぶ方向に転じ、臥薪嘗胆、すでに体力の落ちていた清国に勝ち、本当は引き分けであったかもしれない日露戦争を勝ったことにして提灯行列などとしているうちに、日本は英米と比肩する一等国であると思うようになり、にもかかわらず、戦艦の建造を英米から制約されると、馬鹿にされたと憤慨して勝算のない戦争に突入していった。
そして敗れて、やはり日本はまだまだだと謙虚に努力をしているうちに1960以降の高度成長で自信を回復。年功序列・企業内組合などの日本的経営がその基盤であるとして、世界の経営者よ、日本に経営法を学びに来い、などと奢っているうちに、1990年以降の停滞があり、いまだにそこから抜け出せないままで今に至っている。
日本という国は自信がないときには良く、自身をもつようになると駄目になる。
最近のIOCのバッハ会長の様々な発言が多くの日本人から日本を馬鹿にしていると大きな憤慨を呼んでいるが、事実馬鹿にされているのであり、最近の流行語をもじれば、上級国家がそうでない国を下にみているのである。欧米のなかにも当然、それを批判する人も多いが、そのかなりは「政治的に正しい」発言をしているだけなのではないかと思う。
日本にオリンピックを招致するなどというのも、日本が一流国である認知されたいという希求からという部分が多分に大きいと思う。
東洋の片隅の「まことに小さな国」が生きていくためには、胸をはってばかりではいられないことも多いのではないかと思う。
一般男性 一般女性 上級国民
最近ネットなどで良く読むことがあるが、とても不愉快な言葉に、「一般人」と「上級国民」という言葉がある。
あるところで、「一般男性・一般女性」というのは、芸能人やスポーツ選手、著作者などのようにマスメディアで活動していない人のことで、そのプライバシーを配慮してこう呼ぶ」とあった。
そうであるなら、一般男性とか一般女性でない人のプライバシーは守る必要はないのだろうかということになる。
わたくしが見るかぎり、非「一般人」というのは頻繁にテレビにでてくるひとのことをいうのだと思う。そういうひとは自分のプライバシーなどどのように詮索されても文句は言えないということになっているらしい。
しかし、何十人という相手と浮気しようと、それによって離婚しようと、それは犯罪ではなく私的な問題>であるのだから、それをオープンにされるなら、本来訴訟などをするべきであると思うのだが・・・。
一方、「上級国民」というのは、収入が桁はずれに多いとか、なんからの業績により社会から広く認知され保護されて?いる人のことで、それによって社会から特別あつかいされても、それを当然だと思っているというような人をいうらしい。
今、有名人というのはテレビに頻回に出る人のことをいうらしい。あの電気紙芝居が日本を覆ってしまっている。
何とも情けない話であるが、これは、日本が貴族制を排したことが少しは関係しているのではないかと思う。わたくしは天皇制制度自体に反対な人間であるが、叙勲などを心待ちにしている人間がたくさんいるのだから、物欲しげなひとたちを、みんな貴族にしてしまうと少しは効果がるのではないだろうか?
それにしても「武士は食わねど高楊枝」などというのに共感しているのだから、もう完全に時代に遅れた人間になっていることを強く感じる。
コロナ・ワクチン接種の予診票の問題
今日の朝日新聞の3面に「接種 予診票の質問で混乱」という記事がでていた。この3面はすべてコロナ・ワクチン関連の記事でその中でも目立たない記事である。
この「接種 予診票の質問で混乱」というタイトルでは「あ、また混乱ね!」と受け取られるだけで、この記事の意味するところはほとんど伝わらないだろうと思う。タイトルの下の「かかりつけ医に相談」厚労省削除へ」というのが眼目で、本来ならこのタイトルが表にこなくてはいけない。
予診票に「かかりつけ医に事前に接種の可否を確認したか」という項目があるが、医師への問い合わせがあいついだり、現場で混乱が生じているので、削除するという内容である。
予診票には「現在、何らかの病気にかかって、治療(投薬など)を受けていますか。」という欄があり、病名 治療内容を問う項目があり、最後に「その病気を診てもらっている医師に今日の予防接種を受けてよいと言われましたか。」という項目がある。これを削除するということである。
しばらく前にネットでみた話に、接種の予診票でこのような項目があるのは日本だけで、これがあるのは予診票作成過程の直前に医師会が強引にこれを追加させたから、ということがでていた。
医師への「自分は接種しても大丈夫ですか?」という問い合わせの電話に対応することが診療行為にあたるかは微妙であるが、来院して直接面談した場合には再診料を請求することになるのだろうと思う。おそらく医師会が「かかりつけ医に大丈夫といわれましたか」という項目を強引に追加させたのはそのためだろうと思う。
実際に今外来診療をしていると、この種の問い合わせで相当な混乱が生じている。
この項目が削除されたということが周知されればかなりの混乱回避が期待できるはずである。とすれば公器たる新聞の使命は、これから接種をうけるかたに、予診票のその項目への記入は不要です、ということを徹底させることであるはずである。
しかし片隅に一見しただけでは、その項目への回答は不要になったということとは気がつかないような記事を載せるというのは、新聞社もまた医師会に配慮忖度しなければいけない立場なのかなあ?ということを感じた。
ワクチンの打ち手
最近、コロナワクチンの接種が少し進んできて、打ち手の問題がクローズアップされてきている、
要するに接種の筋肉注射は医療行為であるから、癌密に資格を有するひとのみが行えるものであるということで、医師・看護師などに限定されるという話である。
しかし、テレビなどで接種の現場をみたかたはお分かりになるだろうと思うが、これは誰にでも行える単純な行為である。確かに人の体に針を刺すというのを行うのは怖いだろうが、針は細く、長さも短く、打つ方向も一定であり、数十回、模型などで練習すれば、大丈夫なはずである。
専門家が必要なのは問診、そして万一副反応が出た場合の対応である。
どうも医師会は、なるべく医者でなければできない行為を残しておきたいらしい。
大分昔であるが、血圧測定は神聖な医療行為であり、素人が計るなどトンデモないといって救急車で消防隊員が血圧測定するなど断じて許さないなどといっていた時代もあるらしい。今なら機械が血圧を測る。
医療の世界のIT化が遅れていると言われているが、医師会の一部の老先生は未だにコンピュータが苦手で、メールが使えないというのが現状で、そのためいまだに連絡には公式にはファックスが使われている。
つまり、厚生労働省が直接各病院診療所に直接命令を出すことはできず、いまだに医師会にお願いして、そこから展開されるという体制になっている。
わたくしが医師会に属していたのは10年前までなので今は変わっているかもしれない。
なぜ未だに医療行為は細々とは続けているのに、10年前に退会したのかというと、病院長は医師会に入会するのが義務であったからである。院長になるまでは医師会にはまったく関心がなく加入もしていなかった。
その時の経験では、医師会の先生方はいたって地味で、バッハ会長のような方はひとりもいなかったし、その奥様方もミンクのコートというようなこともなかった。
おそらく今でも、開業の先生のほとんどは外来だけで病床は持っていない。そしてつい最近まで医科大学の新設に一貫して反対してきた。これは根拠があることで、それをしてこなかった歯科は、歯科医院がふえて、経済的に厳しい状況になっているらしい。
そして病院ができると患者さんの多くがそちらにいってしまう。
しかし、平時には経済合理性があった医師会の主張も、非常時には機能しなくなる。現在、その問題点が一斉に露わになってきているわけである。コロナ対応病床を作れといっても、ものだけ作ってもダメで、呼吸器などを問題なく使える人材もそろえなくては機能しない。
それには少なくとも数年の時間が必要なはずである。
ワクチンの打ち手は誰がやってもいいと思うが、呼吸器の操作などはそうはいかない。日本は軽症の慢性疾患への対応を中心におこなわれてきたので、そのつけが今まわってきて、あちこちで問題が露呈してきている。しかし、もしコロナの感染が終息すると、またもとに戻ってしまうのではないかと思っている。
開戦前夜?
最近、オリンピックをめぐって色々な意見が飛び交っている。そこでは今の感染状況でオリンピックが開催できるだろうかという一見科学的なあるいは客観的にみえる議論においても、その根底には日本はバカにされている、あるいは日本人の見方は無視されて、欧米の上流階級がしたいようにしているといった気分あるいはうっぷんが潜在しているのではないかと思う。何か嫌韓嫌中と似たようなものを感じる。
嫌韓嫌中は一部の方であると思うが、それが日本人のかなりに広がっているように思えて、ちょっと気になる。
第二次世界大戦(大東亜戦争?)開戦直前の日本では欧米列強にしたいようにされているといううっぷんが充満していたが、開戦とともに頭上の暗雲が一気に払われて、清々しい晴天になったような清明な気分になったといわれている。
菅首相はオリンピックを強行にでも開催することで国威発揚になると思っているのかもしれない。一方、オリンピック中止を言っているひとの(一部?)は、それを中止させることで、日本が欧米と(あるいは中国とも)対等の一流国家で自分を貫ける気概を持っているのだということを示したいのかもしれない。
昔、ある通産官僚の方が、日本はまだまだ駄目だと思って坂の上の雲を目ざして上っているうちはいいが、もう一流になったと思って慢心するようになるとすぐに坂の下の沼に落ちてしまうといっていた。
わたくしは日本はアジアの辺縁の小国であると思っているので、最近の気分はちょっとあぶないなと感じている。
東京の街並み
最近わけあって散歩をする機会がふえている。それで近所を散策してみて感じたことを少し書いてみる。
一言でいうとまことにつまらない街だなあということである。
ヨーロッパにいっていつも驚くのが、街並みがとても整然としていることである。皆、似たような建物で屋根の色も一緒、全体としての街並みというものがある。最近、日本では同調圧力ということが言われているが、ヨーロッパでは家を建てるに際し、同調圧力のようなものが働くのだろうか?
わたくしが住んでいるのは杉並だが、おそらく前に住んでいたひとの土地が2等分、3等分されて、そこにほぼ似ているが微妙に異なる家が二棟・三棟建てられている。完全に同じならまだある種の美ができるかもしれないが、微妙に自己主張しているので統一性は感じられない。壁は合板というのだろうか、木とか土は使われていない。おそらくそういうところに住んでいると自然への希求が生じるのであろう、花などが小さな庭に植えられている。
ヨーロッパの街にみられる自分たちが住んでいる町を残しておきたいという意思のようなものが少しも感じられない何か殺伐とした街並みなのである。