千葉雅也「現代思想入門」 4 ドゥルーズ

 わたくしはどういう訳かドゥルーズの翻訳本を二冊もっている。
 1986年刊の「アンチ・オイディプス」と1994年刊行の「千のプラトー」である。しかし読んだ形跡はほとんどない。あまりに難解でどこにも取り付く島がなかったのだろうと思う。
 だからここでいえるのは、それがどんな本かということだけである。前者は細かい活字で二段組で528ページ、後者も2段組656ページ、前者が定価4500円、後者が6900円、今ならともに1万円をこえているだろう。そういう本なのに、当時、書店で平積みになっていて、結構、売れていた。時代というのは恐ろしいものだと思う。

 とにかく、わたくしをふくめ大多数の読者は読んでもほとんどなにも理解できなかっただろうと思う。
 前者の巻頭はこうである。「第一章 欲望する諸機械 第一節 欲望する生産 〔〈それ〉(エス)。機械の機械〕〈それ〉ca(cのしたにはフランス語特有のひげが着く。セ・セディーユと言うらしい)は作動している、ときには時々とまりながら、いたるところで〈それ〉は作動している。〈それ〉は呼吸し、〈それ〉は熱を出し、〈それ〉は食べる。〈それ〉は大便をし、〈それ〉は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらをひとまとめに総称して〈それ〉le ca と呼んでしまったことは、何たる誤りであることか・・・。

 この本を独りで翻訳した労倉宏祐氏の苦労たるや大変なものであったろうと思う。
 これはまだ巻頭のページの1/4で、これが500ページ以上延々と続く。

 精神科医ガタリとの共著とされているが、どこかからドゥルーズか、どこからがガタリかもわからない。
 おそらくドゥルーズの書いたものをダタリが修正し、それをまたドゥルーズが修正しをくりかえすことを集成して出来上がっていったのかと思うが、それ自体が本は単一の著者が書く本という当時(今でも?)当たり前であった前提を崩していくことを目指したものではないかとおもわれる。
 当時当たり前であった全てにnon!といって、反旗を翻す、疑ってみるということが第一で、とにかくその当時当たり前とされていたことすべてに次々と疑問を呈していく、その必要性を読者に伝達するために選ばれたのがこの共著という手段なのだと思う。
 最初に否定されるのが「個人」なのだから、単著ではなく、共著的な本が要請される。
 とにかくこの本から感じ取れるのは、今の世の中ではいけない!という著者ら(?)の苛立ちである。
あるいは「個人」という西欧伝来の思考法の基礎を否定すること。「個人」という単位は否定され「個人」同士が根っこでは繋がっているのだという「リゾーム」というイメージが提示される。

 千葉氏はドゥルーズのもっとも大事なものは「差異」であるという。同一性より差異が先に来る。しかも「個」的なものは相互に絡み合っている。世界は時間的ですべては運動の中にあるとされる。

 人間は動物ではない。なぜなら人間は脳神経が過剰に発達しているから。人間は他の動物とは異なる脳が過剰に発達した狂的な存在であるであるといった主張はそのころの日本にもあったと思う。
 例えば、丸山圭三郎氏の「ソシュールの思想」(岩波書店 1981)でのラングとパロールの対比。言語の恣意性という考え方。
 また「文化記号学の可能性」(日本放送出版協会 1983)での、人間と人間以外の動物は不連続である。なぜなら人間は言語を持ってしまったゆえに、モノ自体から疎外され、言葉によって間接的にしかモノと接することができない狂った動物=ホモ・デメンツである、といった見方。
 また「ものぐさ精神分析」(青土社 1977)でのフロイトの理論はまず社会心理学・集団心理学であり、後の神経症患者治療理論はその応用にすぎないという岸田秀氏の主張、そしてまた同氏の、日本は1853年のペリー来航によって精神分裂病的素質をもつようになったという、かなりハチャメチャな展開など。当時の日本の学問世界は活発だったと思う。必ずしも専門家ではない人も参加してにぎやかだった。

 しかし千葉氏のいう現代思想の世界はいままことに静かである。我々には、そこからは何の言葉も聞こえてこない。外からみていても、蛸壺のなかで何かが密かに議論されている微かな音が時に聞こえてくるだけである。

 90年代以降のバブルの崩壊と期を一にしてドゥルーズのブームも去ったと千葉氏はいう。その後に出て来たのが、デリダであると千葉氏はいう。しかし、90年代の現代思想はとても辛気臭いものになったと。
 そこでは、インターネットの普及で、それとともにドゥルーズの「横に繋がっていく多方面な関係性」を「リゾーム」(根茎)とよんでいたことがあらためて思い出された。インターネットで相互がつながる状態はドウルーズのリゾームではないか? しかし、その期待も、ネット社会が管理社会的なものへと劣化していったことで裏切られた。

 実はここまではイントロで、その後に本論?にはいるのだが、「差異は同一性に先立つ」「ヴァーチャルな関係の絡まり合い」「すべての同一性は仮固定である」「プロセスはつねに途中である」「家族の物語ではなく、多様な実践へ」といった項が並び、千葉氏にはわかるのだろうが、こういう本を読みなれないわたくしのような読者には何の  『存在論的な意味で「無関係性」を肯定』なんてことを入門書に使うのはまずいと思う。
 「ノマドのデタッチメント」?? こういうのを読んでいると、どうしても学者さんの御高説じゃないかという茶々を入れたくなってくる。

 「千のプラトー」を解らないながらもパラパラと再読をしていたら、グレゴリー・ベイトソンの名前が目がついた。過去にかなり真剣に読んだことがあったので。わたくしの持っているベイトソンの本は「精神と自然 生きた世界の認識論」(思索社 1982)と、「精神の生態学」(思索社 1990)の二冊だが、前者は生きているものとそうでないないもの分けるということを主な論題としている。
 この本では作者がなにを言いたいのか素人の読者にでも何とかわかる気がした。またドウルーズの本にはでてくるはずもないが、当時日本ではそれなりに読まれて丸山圭三郎氏やも岸田秀氏の本もそうである。

 どうも2000年前後が分岐点だったような気がする。かろうじて、素人でも思想世界に参加できていた時代から、専門家が一般の人への伝達をあきらめ、内輪のひと同士での議論に自足するようになってしまった時代への変化がその辺りにおきたのではないだろうか?
 ドウルーズがこんなにも難しい本を書いて、しかも高価なら、普通であれば、一般の読者は逃げてしまう。
 しかし、何も理解できなくてもそこには何か大事なことが提示されているのではないかとおもわせるものがそこには朧気に感じられたのだと思う。それが難しい点である。その何かは平易に書こうとすると消えていってしまう何かなのである。
 とすると、ドウルーズを嚙砕いて紹介しようとすること自体が無謀な試みということになるのかもしれない。

 それは量子力学を素人に説明するようなもので、なにしろあのファインマンさんが量子の世界がどうなっているかは説明できても、なぜそうなっているかは説明できないといっているくらいなのだから。
 ということで本論部分は割愛して、次は懐かしい「パノプティコン」の話も出てくるフーコーへ。

千葉雅也「現代思想入門」(3)デリダ

 わたくしはデリダをまったく読んでいない。
 千葉氏は「二項対立という見方では捉えられない具体性に向き合うというのが現代思想の一番の根幹であり、そういう考え方を打ち出したのがデリダである。それを現代思想では二項対立の「脱構築」と呼ぶのだ」とする。(「二項対立」というのはある種の観念論だと思うけれど、「脱構築」というのはもっと「具体的なもの」に焦点をあてるということなのだろうか?)

 フランス現代思想を理解するには「差異」がキーワードになると氏はいう。二項対立の場では差異を重視し、ズレや変化を重視するのが現代思想の大方針なのである、と。(これもよくわからない。差異が認識されるからこそ二項対立が生まれるのではないだろうか? 千葉氏は「仮固定的」な状態とその脱構築が繰り返されていくというイメージでとらえてほしい、というのだが、「仮固定的」などというという日常の言語では全く用いられない、いわば現代思想業界でのジャーゴンのようなものをいきなり持ち出してきて、さらに「脱構築」などという業界用語がそれを追い打ちするのだから、この本が現代思想についての初心者を対象にしたものという千葉氏の主張がにわかには信じられなくなる。

 さて、「デリダにおいては、「話し言葉」(声)と「書かれたもの」の二項対立がすべての根底に想定される。そこでマイナス側におかれるものを本当にマイナスなのかと考えるのが「現代思想」の行き方で、それを「転倒」と呼ぶ」とされるのだと。「転倒」というのは「ひっくり返る」ことであって「ひっくり返す」のは「転倒」ではないと思うだが・・・。どうも用語の選択がわからない。フランス語で読めば理解できるのだろうか?

 「今までマイナス側に置かれていたものに光をあてて本気でそれを再評価することで、世の中を開放的にする。それがデリダの目ざした方向である。」と千葉氏はいう。
 この見解自体は理解できないことはないけれど、「正統」と「異端」ということで言えば「異端」は「正統」があればこそ存在できるのだと思う。それとも現在においては「ポストモダン思想」が「正統」になったということなのだろうか?

 ここまで千葉氏の主張を書き写してきたが、正直なんのことやらよくわからないところが多い。
 いままでの思想界で正統とされてきた見解にわざと逆張りしていくというのがポストモダン的な行き方ということがいわれているように思えるのだが、そういうのは「二流」の人がすることで、デリダというひとがそんなことに満足した人とはわたくしには思えない。
 デリダは西洋の伝統的な思考法を根底から覆すことを目指した人なのだろうとわたくしには感じられる。「位階序列を転倒させる」といっているのだから。
 ポストモダンという場合のモダンとは西欧近代のことを指すのだと思うが、それが「自由・平等・友愛」などということではなく、「不自由・不平等・敵対」というきわめて息苦しい状況に本人さえも気がつかないうちにいつのまにかなってきている、それを打破して本来の西欧近代の理想をとりもどそうというのがポストモダンの根源的な志向であると思うが、それは逆にいえば「自由・平等・友愛」という目標についてはモダンの人もポストモダンの人も共有していることを暗黙の了解として前提にしていることでもある。
 しかしそういう西欧の(甘い?)理想を強権で否定していくような動きが公然化してくるようなことがあれば、それに対抗するものとしてはポストモダンの思想は弱いということは間違いないと思う。

 千葉氏は、二項対立においてプラス(強い側)とマイナス(弱い側)で、後者の味方となる論理を考え、両者が拮抗し、相互が依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けを留保した状態を作り出すというのが脱構築の作業であるとする。「プラス」を崩すことで、世の中をより開放的にできるというのがデリダの思想の根っこにあるものだ、と。
 さてここからがわからなくなるのだが、デリダは、
 直接的な現前性 本質的なもの パロール
 間接的な再現前(性の誤植?) 非本質性なもの エクリチュール
という区分けをしたという。ここにパロールだとかエクリチュールだとかがいきなりでてくるのが学者さんの困ったところで、話されたこと、書かれたもの、とでもしなければいけないと思う。そうしないと素人さんは逃げ出してしまう。
 わたくしはパロールなどときくと、ソシュールを連想してしまう人間なので驚かないのだが(昔、丸山圭三郎さんのソシュール論などをかなり真面目に読んだことがある。「ソシュールの思想」など)、実際、本書ではすぐにソシュールへの言及があった。46ページに全く説明なしにパロールエクリチュールという語が導入されるというのは本書が現代思想に素人である人にむけて書かれたという主張を裏切るものとなっていると思う。

 いずれにしても、デリダの思想は「他者のほうへ」。これはデリダの独自の考えではなく、レヴィナスなどにもみられるとして、デリダレヴィナスの比較論が始まるのだが、本書に想定されている読者はレヴィナスの名など聞いたことおなく、その本などまず読んでいないだろうから(わたくしもレヴィナスのお弟子さんの内田樹さんの本を読んだことがあるだけで、レヴィナス自身の著書は一つも読んでいない)、どうも本書が想定している読者というのがよくわからなくなってくる。

 ここで「本当の大人」とはという話題が論じられているが、ポストモダン思想というのは、あえて子供の視線でいくという方向ではないかと思うので、これもよくわからなかった。

 以上、よくわからないまま、デリダの項を終え、次はドゥルーズへ。
 
ソシュールの思想 (丸山圭三郎著作集 第I巻)

千葉雅也「現代思想入門」(2)

 さて、現代思想とは?
1) 秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。
2) それが今、人生の多様性を守るために必要だ。
というのが千葉氏のp14での論。
 翻訳すれば、「俺が何しようと勝手だろ。いちいちうるさいこというな、ほっといてくれよ!」 排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことが20世紀の思想の特徴である、と。
 このような管理、秩序維持をいたってソフトな形で、一見そうとはわれわれが気づかない形でおこなっているのが現代管理社会の特徴と指摘するというのがポストモダン思想の言説のかなりの部分をしめていたようにわたくしは記憶するのだが、ではそういうソフトな形ではなく、もっと直接に剥き出しに権力が個人に介入してくるような事態がおきた場合には、ポストモダンの思想家たちは、まだソフトな管理がまし、ハードな管理はお断りというだろうか?
 もはやハードな管理など先進国では過去のものとなっているというのが、ポストモダン思想の前提となっていたように思う。つまりヨーロッパという存在を前提とした思想。

 ここで千葉氏は、実に奇怪なこととわたくしには思えることを言い出す。「ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害は法によって遂行されたのであり、抵抗するには違法行為=逸脱が必要だったのです。」(p15) つまり、もしも逸脱が認められないのであれば、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に抵抗することも是認されないだろう、と。
 しかしこれは、万引き・窃盗・強盗といった犯罪とナチス・ドイツによるユダヤ人迫害とをただ「逸脱」という言葉の次元で同一視するという言葉の遊びであり、私見によればポストモダン思想にはこのような言葉を持て遊ぶという傾向がいつも潜在してきているように思う。

 科学哲学の分野では例えば、ファイアーベントの『方法への挑戦  科学的創造と知のアナーキズム』がある。「科学は本質的にアナーキスト的営為であり、科学を進歩させる為の唯一の原理は、Anything Goesなんでもありである」と。
 しかし今、科学哲学の方法論としてファイアーベントを読むひとはまずいないだろう。これは1968年前後の世界の空気を強く反映したもので、ポストモダン思想の一時の隆盛も、同様に1968年という時代背景がなければありえなかったのではないかと思う。今はパリは燃えていないし、造反有理!を叫ぶ若者たちもいない。
 そのような空気は今では消滅している。だからどうしても議論は学者社会という閉じた蛸壺の中での些末なものとなっていき、普通の生活人には全く届かないものとなってきているのだと思う。

 千葉氏は現在のソフトな管理社会は戦時中のファシズムに似ているという。「秩序をつくる思想はそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたい」のです、という。
 しかし「秩序をつくる思想はそれはそれで必要です」なんて弱気なことを言っていては、思想としては決定的にパンチが足りないことにはならないだろうか? ニーチェはそんなことは決して言わなかっただろうと思う。

 さて千葉氏は「現代思想全体が今では解けない暗号文みたいになってしまい、どういう周辺知識がいつ必要かも含めて説明しないと読めないものとなってしまっています。」という。(p19) たった50年前の言説が今では暗号文になってしまっているというのが、ポストモダン思想の最大の弱点の一つと思うが(ソーカルらの論難はそこをついたものだったと思う)、千葉氏はこのことについて特に考察せず、だから「プロ」のわたくしが「一般」の読者のみなさんに現代思想の基礎を教えて進ぜよう、という方向に向かう。それが不思議である。
 ポストモダン思想というのはあのような難解な書き方を要請したのであり、それと表裏一体なのであり、やさしく解説などしたら、その最大の美点がどこかに消えてしまう性質のものだと思う。
 ポストモダン思想というのはプラトンからカント、ニーチェからフッサールレヴィナスなどを読み込み読み飽き、数学基礎論などにも一家言持つような「高級な」人のためのものであって、「一般の人」とは接点を持ちえないものであると思う。
 「一般の人」ではなく「レヴィナスの人」である内田樹さんは従って、ポストモダン思想に反応(反発)する資格を持つ。で、氏の最初の単著である「ためらいの倫理学」には「ラカン派という症候」というラカンを疑う文も収められることになる。
 そこで内田氏はいう。「同職者集団でしか通用しない語法は、必ず無限循環に陥る。」もしもポストモダン思想が同職者集団でしか通用しない語法によってしか成立しないものであるなら、それはドツボにはまっていく運命にあるということである。
 また同書には「「分かりにくく書くこと」の愉悦について」というソーカルの「「知」の欺瞞」の書評もある。「「ポストモダニストの悪口」をここまで徹底的に書いた本はない。」と内田氏はする。ドゥルーズデリダガタリ、イリガライ、ラカン、ラトゥール、リオタール、セール、ヴィリリオらの書いたものを、彼ら自身も自分が使っている数学概念をまったく理解していない、とソーカルらは批判するわけであるが、こういう「難解な部分」を取り除いてしまうとポストモダン思想(千葉氏のいう「現代思想」)って「なんだ、たいしたことはいってないじゃん」となる可能性は決して低くはないのではと思う。
 だからこのような本を千葉氏が書く事が現代思想にとっていいことなのか? え? 現代思想ってたったそれだけのことなの? となり、射していた後光が消えて有難みがなくなることはないだろうか?と思う。

 さて、いままでわたくしは「ポストモダン思想」という言葉を使ってきたが、千葉氏は「こちらは悪い意味で言われることもあるので、あまり使いたくない」としている。(p20) 悪い意味というのは批判的という意味ではないかと思うが、批判に真摯に向き合うというのがあらゆる討論の前提ではないかと思うので、これもちょっと解せない点である。

 千葉氏は「ポストモダン思想」という言葉をきらうということだが、「近代」と「ポストモダン」へと論が進む。
 「近代は「人間は進歩していくんだ、と皆が信じている時代、その後、価値観が多様化し、共通の理想が失われ、「大きな物語」が失われたのがポストモダンの時代」であるという。

 ポストモダン思想はよく相対主義だと批判される。相対主義では「なんでもあり」になる、という批判がある。しかしと千葉氏はいう。「真理の存在が揺らぎ、人々がバラバラになるのは世界史のやむをえない成り行き」だとしている。
 しかし「真理」というのが歴史を超越した普遍的なものなのか?時代に相対的なものか?というのは大問題ではないか思うので(カントの哲学というのは、われわれは「真理」に到達できるはずはないのに、ニュウトンはなぜ真理へ到達できたのかという疑問への回答の試みだったのではないかと思うが、その後、相対性原理によってニュウトン理論が相対化したとしても、それを単なる世界史の成り行きとしていいのかについては大きな疑問を感じる)、このあたりあっさりと大した検討もせずに「世界史のやむをえない成り行き」として通りすぎることには大きな疑問を感じる。

 さて千葉氏は「みんなバラバラ」でいいというのではなく、一度既成の秩序を徹底的に疑ってみることで、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことが出来るだとしている。
 しかし、氏が「現在思想」研究者集団というすでにできあがっている秩序をラディカルに疑ってみているようにはわたくしには思えない。

 さて23ページから「現代思想」の前にある「構造主義」の紹介が始まる。
 まず「構造」とは概ね「パターン」と考えていいと。それはレヴィ=スとストロースの文化人類学が起源になるといわれる。
 わたくしは「悲しき熱帯」と「野生の思考」は読んだ記憶はあるが50年くらい前のことなのでほとんど何も覚えていない。しかしそれほど難しい本と思った記憶はない。千葉氏は比較的これらは「静的」な論だったとする。つまり現代思想はそれとは違って「動的」なのである。

 パターンから外れるもの、逸脱を問題にし、もっとダイナミック・動的に世界を見るのがポスト構造主義であると氏はする。氏は静的なものを嫌い、動的なものに共感するようである。
 氏は、「現代思想」が論じる場合、それは基本的に「二項対立の脱構築」つまり「二項対立」的な見方をいったん留保することから始まるとする。
 それで、デリダは「概念の脱構築」、ドゥルーズは「存在の脱構築」、フーコーは「社会の脱構築」を考えたという大雑把な方向が提示される。「概念」や「社会」を所与のものとせずに改めて疑うというのは何となくわかる気がするが、「存在」を考え直すというのはなかなか理解しづらい。だから「現代思想」は難解とされるのであろう。
とにかく「両義性」が肝要ということがいわれて、本論のデリダ論にはいることになる。

方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム
「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)
ためらいの倫理学 戦争・性・物語 (角川文庫)

千葉雅也 「現代思想入門」(1)

 実はこの本をなんで購入したかをよく覚えていない。この頃アマゾンで本を買うことが多く、そうするとこの本もどうですかというのも出てきてついポチっとしてしまうことが多い。この本も新書だし、そんな高くないしということでポチっとしたのだろうと思う。

 「現代思想入門」というタイトルではあるが、ここでの「現代思想」とはいわゆる「ポストモダン」思想であり、わたくしが若いころにはそれなりに活況を呈していたこの業界も最近ではとんと噂をきかなくなっているので、最近はどうなっているのかなという興味と、おそらく最近のウクライナの状況から、西欧はポストモダンどころかまさにモダンに先祖返りしているように見えるので、そこのあたりがどうなっているのかなという興味もあったのだが、後者は本年3月20日初版の本書ではもちろんふれられていない。もう半年後の刊行であれば、どうしてもふれざるを得なかっただろうし、そもそも全体の構想も根底から変えなくてはいけなかったはずである。

 要するにポストモダン思想というのはモダンの世界が存在することを前提に、その中で駄々をこねている不良息子みたいなものなのだから、モダンの世界が崩壊してプレモダンに戻っていくようなことになると反抗する対象の怖い親がいなくなり、自己の存在の基盤が崩れてしまうことになってしまうのではないだろうかと思う。

 もう一つ気になったのがフロイト精神分析が自明の真理であるように論じられていることである。実地の精神科医療の分野ではもはやフロイト流の精神分析は治療法としてはほぼ過去にものとなっているはずである。(千葉氏はフランスではまだ現役の精神科治療法としておこなわれているとしているが。)

 ポストモダン思想(日本ではそれが「現代思想」と呼ばれたと千葉氏はしている)も主としてフランスでおこなわれて来たわけで、フランスローカルの思想をなぜわれわれが今学ばなければならないのか? フランスは哲学の分野での世界最進国であるので、それをわれわれもまた学ばねばならないということなのか? 林達夫氏はどこかで洋学乞食ということをいっていた。

 また、ポストモダン思想への批判(たとえばソーカル等の「知の欺瞞」)への言及も一切ないことも気になった。
さらにポパーの「あらゆる知識人はもっとも簡潔でもっとも明瞭に、かつもっとも謙虚なかたちで説明する責任があります。」「もっとも悪いことは、知識人が自分の仲間に対して、大予言者気取りでたちまわり、彼らをご神託の哲学で感化しようとすることである。」(「大言壮語に抗して」「よりよき世界を求めて」所収)
 これはポストモダン思想を対象にした論ではないけれども、どうもポストモダン思想には「大言壮語で煙に巻く」といった方向が濃厚にみられるように思うので、その方向への言及がないのも気になった。あるいは、だからこそ千葉さんがこういう本を書く事になるのかもしれないが・・・。

 さて、千葉氏はこういう。
現在思想を学ぶと「複雑なことを単純化しないで考えられるようになる。」「単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになる」「世の中には単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」・・・
こんなことを言っていたら足元が腐ってくるまで動けなくなるのではないだろうか? 「見る前に跳べ」というのは大江健三郎だったか?

 現代では「きちんとする方向」「秩序化」が進んでいる。でも、それって窮屈じゃない? そこからはみ出すものもあるのでは? 個別具体的なものが見えなくなるのでは?と千葉氏はいう。

 そこで現代思想とは「秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、つまり「差異」に注目する」のだと。それが人生の多様性を守るためには必要であり、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定する。それが20世紀の思想の特徴である、と。すなわち、過剰な管理社会への警戒!

 しかし「現代思想」全体が一般の人には今では解けない暗号文のようなものになってしまっている。であるので哲学のプロの世界では共通認識となっている現代思想の基礎を一般に開放したいというのが、本書執筆の動機なのだとされる。

 だが、こういうのって「排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定する」のではなく、「正統的解釈」を無学なものに教えて進ぜようという姿勢で、まさに思想の世界の管理社会化なのではないだろうかと思う。

 などと文句ばかり言っていても仕方ないので、次はもう少し具体的に本書をみていきたい。

現代思想入門 (講談社現代新書)
「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)
よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

一般人

 最近、ネットやテレビをみていて、なにより不愉快なのが、「一般人」という言葉である。それの対になるのは「有名人」? そして「有名人」とは現在ではテレビに出てくる人ひとを指すのではないかと思う? テレビに出るなどというのも一つの仕事であって、それこそ「一般人」の人がしていることとなんら変わりないことであるはずなのだが、かれらは特別人であって、そうであるならあらゆることに独自の見解を持っていることを期待されているので、それに応えて、ぺらぺらと(へらへらと)滔々と(だらだらと)見解を述べる。わかりません。そのことについては、特に見解はありませなどという人はいない。
 最近の北海道の船の沈没事件にしても、「お気の毒だが運がわるかった」という以上の意見がでるはずもないのだが、「誰が悪い。体制が悪い。」と滔々と意見を述べている。

 誰かテレビの世界に出ている有名人が、普通のサラリーマンと結婚すると「一般人」と結婚したと報道される。そもそも結婚というのはプライヴェートなことだから、報道されること自体がおかしいと思うのだが、テレビに出ている人達はマスコミに報道されることが命であるらしいので、嬉々として出てきて「新しい命を授かりました。暖かく見守っていただければ」など言っている。

 もう60年くらい前に父がテレビにでていたことがある。昼のワイドショウというやつで、そこに「育児の相談コーナー」というのがあって、テレビ局のすぐの病院に小児科医として勤めていた父がひっぱりだされたらしい。驚いたのは夏休みで帰省などすると、地元のひとから父は「神様扱い」というのは大袈裟にしても、「大名医」あつかいなのである。テレビというのは本当におそろしいと思った 。

 テレビを「総白痴化」といったのは大宅壮一だったと思うが、われわれはどんどんと白痴化しているのであろう(白痴という言葉が変換されない・・・言葉狩り!)。

きみのみじめさは
内部に 大河をもっていないということに
尽きる
・・・
山あいの川が
見えはじめた
どこまでも 川はあった
自分のため だけに 流れている
ほんものの 川だった

・・・
テレビをきらっていては
生きてい行けない
(きみがじいっとがまんして
テレビを見る練習をした一刻一刻)
日本中がテレビを囲んで 放心している。
・・・

「川と河」 飯島畊一詩集 バルセロナ」部分

読んで来た本(8)K・ポパー(1)

 ポパーを読むようになったのは前稿で書いたように村上陽一郎氏を通じてであるが、すぐにポパーは科学哲学という狭い領域におさまるひとではないことがわかってきた。

 ポパーの著作は「客観的知識」や「推測と反駁」などの主著も持ってはいるが、全部は読んでいない。「歴史主義の貧困」「開かれた社会とその敵」も同様。繰り返しよんだのは「果てしなき探究 知的自伝」で、最初の「岩波現代選書」がぼろぼろになってしまったので、岩波同時代ライブラリー版、岩波現代文庫版までもっている。
 それ以外では「より良き世界を求めて」であろうか? 様々な講演を収めたもので、そのためか読みやすい。
 たとえば、「書物と思想、ヨーロッパ最初の本」では、氏のいう「世界1」「世界2」「世界3」が簡潔に説明されている。「世界1」は物理的意味での物体の世界。「世界2」とはわれわれの人格的、主観的体験、希望、目標など思考の世界、ここまでは客観と主観という範囲に収まるであろうが、「世界3」というのがポパーが晩年に唱えた独特の考えかたで、われわれの思考がアウトプットされたもの、人間の精神作業の産物の世界を指す。つまり、われわれが文書を書いたり、絵画を描いたり、音楽を作ったりすることで作成され世界は、単なる個人の主観の産物ということではなく、その作品は人間の精神が生み出した世界であるが、ポパーによれば、世界2は世界1と世界3との相互作用で発展するということである。印刷術の開発の結果として書物というものが出来てくると、書物間の競争がおきるのだ、と。
 「文化の衝突について」という章では、次のようなことが言われている。
 ヨーロッパ文明の特徴と起源とは? それはギリシャ文明に起因する。それは地中海東方における文化との衝突から生まれたのだ、と。しかし、このような衝突はいつも流血と破壊をもたらすのではなく、時には実りゆたかな発展へのきっかけにもなるのだ、と。ギリシャ文化もローマ人との衝突を通じてローマ人に引き継がれた。そのギリシャ文化も、アラビア文化との衝突のあとのルネッサンスで復興した、と。
 
 ポパーは、西洋文明は多々非難さるべき点をふくむとはいえ、人類史上、もっとも自由でもっとも正しく、もっとも人間的で、もっともよいものであると思われると主張する。(ただし、自由は法によって制限されなければならないが。)

 争いのまったくない世界は人間の世界ではなく蟻の世界である。

 だが問題は残る。ナショナリズムという問題である。もっといえば民族国家というイデオロギーの問題である。すなわち、国家の境界線は民族が入植している領域の境界線と一致すべきであるという要求である(民族というのは国家によってつくられたものであるのに・・・)。
 ヨーロッパの住民は民族の移動の結果として生まれた。原住民、それ以前の移住者との衝突のすえに生まれた。
いたるところで、スラブとドイツの同化の痕跡が残っている。ドイツの貴族の多くはスラブに由来する。
「西側は何を信じているのか」という章が現下の状況では一番問題であろう。

「正しいのは誰か」ではなく「、要求されるのは「客観的真理への接近」であり、「予言者のポーズをとらないこと」であるが、ドイツの思想家はしばしば予言者のポーズをとって来た。
 啓蒙はイギリスの知的風土から来た。
 啓蒙家は決して人を説き伏せようとはしない。他者の批判や反論を待つ。なぜなら数学といった限られた分野を除いてはいからる証明もないことを知っているから。
 イギリスもヨーロッパも宗教戦争を経験している。寛容というのはその苦い経験に由来している。
 この議論はまだソ連が存在していた時代になされているが、共産主義という「宗教」に対し、ヨーロッパの基礎は「多数の理念」を持っていることにあるとしている。理念の多様性と多元主義
 しかし、合理主義は伝統なしにはありえない、と。

 最近のテレビを見ていると、現在のロシアの政治体制をロシアの人々が圧倒的に支持をしているように見えるのは官製の情報しか与えられていないからだということがいわれている。
 しかし、われわれもまた非常にモノトーンな情報しか与えられていない。何だかゾロアスター教善悪二元論の世界に戻ったみたいである。西側の最大の理念が多様性にあるとすれば、今、それが大きな危機にさらされているように思う。

 「文藝春秋」の今月号(五月特別号)に岡部芳彦氏の「ゼレンスキー「道化と愛国」」という文が掲載されている。
 それによると、ゼレンスキー氏は1978年のまだソ連が健在な時代にウクライナ東部に生まれたのだそうで、東部地区はロシア語を母語とするひとが多く、ゼレンスキー氏も大統領になってからあらためて、ウクライナ語を学びなおしたのだそうである。
 19歳くらいから主に政治風刺をする劇団を作り、主としてロシアで活動していたのだそうである。
 しかし2014年のロシアのクリミア占領を期に、ロシアから出入り禁止を言い渡され、それを期にウクライナに活動の場を移したのだそうである。
 当時、ウクライナ汚職が蔓延し、議会では議員同士が殴り合う政治的後進国で、それへの民衆の失望感がゼレンスキー氏を大統領に押し上げた一つの要因らしい。
 さて、この氏の経歴ひとつだけみても、現在の事態を単純化してみることが危険であることがわかる。西欧は多様であることによってその優位性を示せるのだから、今の西欧はロシアと五十歩百歩の状態になっているのではないかと危惧する。

 さて、ポパーはもちろん科学哲学者でもある。本稿では西欧の擁護者としてのポパーをみてきたので、次は科学の方法論を論じるポパーをみていきたい。