与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(9) 第9章 保守という気分 2005-2006 第10章 消えゆく中道 2007―2008

 06年9月、第一次安倍内閣発足。その直前に8月15日に小泉首相靖国参拝
  小泉政権下ではケインズからハイエクへの構造転換がおこなわれたと与那覇氏はいう。
 このころから、ポスト冷戦で軽やかになったように見えていた論壇が「重くて暗い」論調へとトーンを変えていく。
 05年 藤原正彦国家の品格』。読んではいないが、何だか日本が変な方向に行こうとしているなあ、という感じがした。
 06年夏、晩年の昭和天皇靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を抱いていた旨が公表される。
第一次安倍政権が短命であったのは一部のコアな保守層には受けたが、大部分の国民の関心とはずれていたから。
この当時「ALWAYS 三丁目の夕日」が流行していた。わたくしは観ていないが、昭和への郷愁を描く時代錯誤な映画だろうと思っていた。
 わたくしは、日本人は拠り所がなくなると最後は落語の世界に回帰していく傾向があるのではないかと思っているので、この映画もその変奏であろうと思っていた。自分達の理想は落語の「人情」の世界、一方、お上に期待するのは「忠臣蔵」の世界?
 与那覇氏によれば、この時代に「中間派の消滅」が進行した。「月刊WILL」が創刊され、また「老若の分裂」が目 立ってきた。
 「月刊WILL」のような粗雑な話でアジテーションをおこなう雑誌がなぜ売れるのだろう? 売れるからこそ、この系統の雑誌が陸続と刊行されるのであろうが・・。今でも書店の一番いい場所に並んでいる。
 上野千鶴子氏の「おひとりさまの老後」も売れた。この本の内容については「若者に「ふざけるな!」と思われてもしかたがないだろう」と与那覇氏は言っているが、多くの年寄りからもやはり「ふざけるな!」と思われるはずで、わたくしから見ると、これは一時の流行語でいう「上級国民」の自慢話である。もちろん、自分からは「上級国民」とは名乗ってはいないが、自分が老後に不安を持たずにいられるのは、自分の優秀な能力のおかげであり、それにより社会の上層にのぼりことができたからである。わたしのように豊かで充実した老後をおくりたければ、今からではもう遅いかもしれないが、「もっとコミュニケーション能力を磨きなさい!」というようなことなのだろうと思う。それができない人には、「朕はたらふく食っている。残念だが、君たち無為に人生を過ごしてきて何らの特技を持たずにきた蒙昧な高齢者は飢えて死んでもらうしかない!」とでも言っているようである。上野氏が女性としてまだまだ男性社会である学問の分野で学者としての地位を登りつめるのに、どれほどの苦労をしたか。しかもフェミニズムという男社会に牙をむく学問の分野で闘ってきたことを考えれば、上野氏がその成果に強い自負を抱くのもまたやむを得ないのかも知れないが・・・。
 このころ左の論壇は「格差社会」批判一色だった、とされている。そんな中で、このような本を出すのはなかなかいい度胸ではあると思う。
 与那覇氏は、この本での上野氏は団塊ジュニアに極めて冷たいというのだが、とにかく「我が亡き後は洪水」とでもいうような、自分達は自分達で生きるから、お前たちはお前たちで「自己責任」で生きろ!という感じである。フェミニズムという少なくとも当時はほとんどが弱者であった女性に味方することを標榜した思想運動からでたひとが、こういう本をだすというのもわたくしには理解できない。(もうそろそろ出しても大丈夫と思ったのだろうか?)
 また、この頃出た姜尚中さんの「悩む力」もとりあげられていて、そこでは、姜氏はハーレー・ダヴィッドソンに乗って日本から朝鮮を駆け回るといった自分の夢を語っているのだそうである。成功した学者さんは自己の能力に酔って、普通の人がみえなくなってくるのだろうか?
 2000年の佐藤俊樹氏の「不平等社会日本」にはこんなことが結論部分に書かれているのだという。「ひとつのポスト戦後の途は、意外に思えるかもしれないが、西ヨーロッパ型の階級社会を意識的にめざすというものである。エリートはエリートらしく、中流階級中流階級らしく、労働者階級は労働者階級らしく・・・」これを与那覇氏は、「20世紀末ぎりぎりの時点では・・あるべき「社会」の全体像を提示する気風がいまだアカデミズムや出版界に残っていた」として評価しているのだが、いくらなんでも、この西欧的身分社会への回帰志向は無理筋でしょうと思う。日本には貴族がいない。だから、ノブレス・オブリージュもない。おそらく日本でこの「ノブレス・・」に相当するのが「武士は食はねど高楊枝」であろうが、もう武士もいない。(戦前まではまだ武士=サムライというエートスがかすかでも残っていたのであろうが・・。)
 中野重治に「豪傑」という詩がある。
 むかし豪傑というものがいた/ 彼は書物を読み/嘘をつかず/ みなりを気にせず/ わざをみがくために飯を食わなかった/ うしろ指をさされると腹を切った/ 恥ずかしい心が生じると腹を切った/ かいしゃくは友達にしてもらった/ 彼は銭をためるかわりにためなかった/ つらいというかわりに敵を殺した/ 恩を感じると胸のなかにたたんでおいて/あとでその人のために敵を殺した/いくらでも殺した/ それからおのれも死んだ/生きのびたものはみな白髪になった/ しわがふかく眉毛がながく/そして声がまだ遠くまで聞こえた/ 彼は心を鍛えるために自分の心臓をふいごにした/ そして種族の重いひき臼をしずかにまわした/重いひき臼をしずかにまわし/そしてやがて死んだ/そして人は 死んだ豪傑を 天の星から見わけることができなかった。
 侍というのはこういうもので(武士は食はねど高楊枝)、そしてそういう存在がなければ、中流階級も労働者階級もまた存在しえない。本当は政治家だって侍であらねばならず、学者もまた同じであるのだが・・。
 さて08年秋葉原で通り魔事件。確か休日だったように記憶するが、その日お茶の水にいて、近接遭遇した。
これは「ネット上での自己承認をめぐる病」がもたらす事件の嚆矢だったのかもしれない。今まではマスの中に埋もれて世にあらわれることなど決してなかった平凡な「個人」が何らか発信する手段を持つようになったことの帰結であることは間違いない。
 さて、わたくしは読んでいないが、2008年に宇野常寛さんが「ゼロ年代の想像力」という本を出していて、セカイ系と言われる作品を内向きのナルシズムと批判しているのだそうである。
 大体このころから?「世界観」という言葉を耳にすることが多くなり面食らったものである。マンガとかアニメとかの主人公の外界への見方を世界観というらしかった。トルストイドストエフスキーの世界観というのならともかく、たかがマンガの主人公の「世界観」? とすれば世に住むすべての人々がひとしく自分の世界観を持つということになる。わたくしが大嫌いな歌である「世界でひとつだけの花」が行き着くとこうなるわけで、ひとそれぞれの個性を伸ばすなどとおだてた結果である。ひとそれぞれの個性などというのは、多くの場合、耳が長いとか口が大きいとかと特にかわるところはないものであるのに。
 2006年、梅田望夫さんの「ウェブ進化論」。実は当時わたくしの書いていたブログの記事が梅田氏の目にとまり、感想をいただいたことをきっかけにブログを「はてな」に変えた。その前はmixiだった?
 わたくしが当時ホームページと呼ばれていたものを始めたのは野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」(光文社新書 2001)に扇動されてであるが、野口氏の本のはじめの方に「誰が見るホームページか?」という章があり、「全世界に向けて情報を発信したが、誰も見なかったということは、十分にありうる」「そうなる可能性が非常に高い」と書いてある、第三者に読まれる可能性はほとんど想定されていない。「ネット上に自分用のデータベースを作る」ことが最大の効用とされている。
 それでまだそのころは「ホームページ作成ソフト」などというものがあって自作する時代だったので、苦心惨憺してホームページを作成し、ぼちぼちと自分が買った本の目録やその要旨・感想などを載せることをはじめた。ある程度それが溜まってくると確かに実に便利で、職場から自分の書斎をリアルタイムで覗ける感じで、家に帰ったら確かめようということが大幅に減ってきて仕事の効率が大幅にあがった。
 しかし時代が下ると、検索エンジンの進化によって、他人に読まれる可能性もゼロとはいえなくなってくる。
 梅田氏は「ウェブ進化論」(ちくま新書 2006)で「ロングテール現象」ということを論じている。本を売れた本から順に並べていくと、年に10万冊以上売れる本から、1冊売れるか売れないかの本まで延々と並ぶ。長い尻尾、ロングテールである。従来はほとんど人の目に触れることさえなかったその尻尾の方の本が検索エンジンの進歩によりそうではなくなってくる。人の目にふれるチャンスがでてくる。氏はその進歩によって今まで人の目に決して触れることのなかった、また「これまでは言葉を発信してこなかった」「「面白い人たち」の言葉が誰かに届く可能性」がでてきたことを指摘し、そのことに多大の期待をよせていた。
 しかし実際にネットの世界でおきたことは、発信した人がそれが他人の目にとまらないと、自分が無視された、疎外されたといった被害者意識を持つようなことが出て来たことで、また自分のネット上での見解が批判されると、自分の全人格が否定でもされたかのように怒り狂うひとも出て来たことで、梅田氏はそのことに嫌気がさして、ブログの世界から引いてしまった。
 ネットの世界が自己の承認欲求発揮の場となってしまったわけで、秋葉原の事件は、そういった〈自己承認への欲求〉が犯罪と結びついた最初期の事例であったのだろうと思う。
 さて、2008年9月、麻生政権。同7月にはアメリカで「ダーク・ナイト」公開。あまり映画を見ないわたくしもこれはDVDで見た記憶があるが、気色悪くなって途中でやめてしまった。この題名、「暗い夜」と思っていたら「暗黒の騎士」なのであった。
 2008年11月、米国大統領オバマ氏に。
 2008年10月、水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」。これは読んだ記憶があるが、随分と大袈裟な物言いの本だと思った。
 年末には中谷厳氏の「資本主義はなぜ自壊したか」が出版。この方、ある時期には「いけいけどんどん」陣営の旗を振っていたのに、リーマン・ショックで目が覚め?転向したひとだと思う。当時、この人の反省の弁を読んで、随分と軽いひとだなあと思った記憶がある。全く、武士とは遠いひとだと思った。典型的な町人?? 町人でももっと矜持を持っている? 自分が間違っていたと思ったら、それを詫びて後は沈黙するというのが人の本来のありかたで、反省してまた新たな提言をするなどというのは・・。こういう人は何を言っても信用されないだろうと思う。「転向」の問題だろうか?
 麻生政権は極端に支持率が低下して(支持していたのはアキバ・ボーイだけ?)、鳩山政権へ。その高支持率もすぐに低下するが、管政権でふたたび回復。ことろが、消費税増税の発言でふたたび低下。鳩山氏は「普天間基地の県外移設」でつまずく。
 ここでなぜか内田樹氏の話へ。氏の処女出版の「ためらいの倫理学」で《非核3原則など「そんなことは、みんな(嘘と)知った上でやっていた」》と冷や水を浴びせたというのだが、「非核3原則」など嘘八百と日本人の99%は当時でもすでにそう思っていたはずで、内田氏の指摘は当時の常識を述べただけで、氏の本が冷や水になったとは到底おもえない。またこの氏の本によって日本人の《非核3原則》への見方が変わったということもまったくないはずである。この辺り、与那覇氏が内田さんになぜ点が辛いのがよくわからない。
 私見では、「ためらいの倫理学」と「「おじさん」的思考」「日本辺境論」「私家版・ユダヤ文化論」は多くの本を出す内田氏の本のなかでも最良の著作であると思う。「ためらいの倫理学」の中の同名の論文はカミュの「異邦人」論であるが、今までの「異邦人」論とはまったく次元の異なる、とても射程の長い論である。
 与那覇氏は内田氏を「脱力主義」とするが、それも違うと思う。内田氏は「審問の語法」で語ることをしないと言っているのであって、決して論争相手の議論に肩透かしをくらわせることを薦めているわけではない。氏はきちんと正面から物事を論じるひとである。また決して「ゆるい」姿勢のひとでもない。最近の内田氏の書くものは精彩を欠くが、おそらく氏が現実の政治に関わったため、筆をおさえざるをえないためではないかと思う。
 氏は上野千鶴子氏に足払いをかけてもいないと思う。冷やかしているのでもなく同情しているのだと思う。逆に内田氏が評価する加藤典洋氏や村上春樹氏は断罪をさけていると与那覇氏はいうのだが、これは論じる対象を選んでいるからそう見えるだけなのではないだろうか? 加藤氏は断罪の人でもある。「天皇の戦争責任」など実に苛烈である。
 内田氏の「村上春樹にご用心」(アルテスパブリッシング 2007)に収められた「お掃除するキャッチャー」で、氏は「雪かき仕事」ということを言っている。「家事はとても、とてもたいせつな仕事だ。」 おそらく内田氏のフェミニズムへの反感は、フェミ陣営の人々が「女性が家事などという一切生産性のない仕事を押し付けられて、学問といった人類に大きく資する分野に参加する可能性から排除されている」として、男のしていることには全部女も参加したい」としている点にあるのだと思う。
 ここまで書いたので、もう少し続けると、歴史上、高名な女性の作曲家はほぼいない。(画家はいる) また高名な女性数学者もほとんどいない。これはおそらく脳の構造の男女差による。しかし、フェミの陣営の方々はこれを絶対に認めない。そういう議論はナチスドイツのユダヤ人差別と同根のものであって、断じて許せないという。もちろん自然科学の分野においてもS・J・グールド「人間の計り間違い」など、科学の名による人種差別・男女差別を告発した本はたくさんあるが・・・。
 「村上春樹にご用心」には30~40代の女性に薦める一冊」として「神のこどもたちはみな踊る」があげられている。この連作短編集はおそらく村上氏の最良の作で、30~40代の女性だけでなく、あらゆる世代の男にも女にも勧められるものである。内田氏は「かえるくん、東京を救う」が一番すきといっているが、「アイロンのある風景」「神の子どもたちはみな踊る」「かえるくん・・」みなほとんど完璧である。
 「ねえ三宅さん」「なんや?」「私ってからっぽなんだよ」「そうか」「うん」・・(「アイロン・・」) 「風が吹き、草の葉を躍らせ、草の歌をことほぎ、そしてやんだ。/神様、と善也は口にだして言った。(「神の子どもたちは・・・」)「ぼくのことはかえるくんと呼んで下さい。・・(「かえるくん・・・」) 「「あなたはうまく死ぬ準備ができているの?」「私はもう半分死んでいます、ドクター」・・・(「タイランド」)
 那覇氏の内田氏への評価は少しばかり辛過ぎるようにと思ったので、一内田ファンとして、以上、少し擁護の弁を書いてみた。
 さて本論に戻る。
 宮台真司氏の「14歳からの社会学」が論じられるが読んでいない。東氏も宮台氏も内田氏も求めたものにたどり着けないので、結局は現状を前提とし、あきらめてゆくしかないという心境に達していた、と与那覇氏はするのだが、内田氏は「大きな物語」を希求する路線とははじめから別の路線にいる人ではないかと思う。
 さて現実政治にもどって、東国原英夫橋下徹・・そして菅直人。わたくしは市民運動出身の政治家というのは市川房江さんをふくめみな大嫌いで、偽善者ばかりと思っている。あるいは自分に甘く、敵には厳しいひと。橋本氏については地方自治体の長をしている時の記者とのやりとりなどを見た限りでの印象だが、よく勉強している人だなという感想を持った。
 以上で第Ⅱ部がおわり、次は第Ⅲ部「成熟は受苦のかなたに」。
 その第12章は「近代」の秋 2011―2012 第13章は転向の季節 2013-2014 平成の終わりが大分近づいて来た。

エルノーさん

 今年のノーベル文学賞にエルノーさんというフランス女性が決まったらしい。
 どこかで聞いたことがあるような気がしたので調べてみたら「シンプルな情熱」というのを読んだことがあるのを思い出した。もう30年位前かも知れない。本当に単純に女の人が男の人が訪ねてくるのを待っている話で、確か男はオートバイで訪ねて来るのだったような記憶がある。ある女医さんが「これ面白いよ」と貸してくれた。そのひとはわたくしの十倍は本を読んでいる超濫読家で、こちらも本を読むのを知って、キングの「IT」を教えてもらったり、随分とわたくしの読書の範囲を広げるのを助けてくれた。当時ミステリなどという分野にはまったく関心がなかったので、キングという名前もきいたことがなかったと思う。今ではキングの本の過半は読んだと思うが・・。
 ところで、エルノーさんの本の内容を考えると、ひょっとすると何か別の意味があったのだろうか(笑)。

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(8) 第7章 コラージュの新世紀 2001―2002 第8章 進歩への退行 2003-2004

 小沢一郎 小泉純一郎 橋本行革・・などが論じられるが、現実の政治には関心があまりないのでパス。このころ覚えているのは、テレビをみていた母親「何だか、小泉さん怒っているよ!」と教えてくれたことくらいである。竹中平蔵さんの写真もでているが、どうもこの人の顔は好きではない。

 2001年9月11日のテロ。わたくしが文明の衝突を本当に感じだしたのはこの時からと思う。この時のイラクの戦争への自衛隊の派遣からほぼ20年、「憲法9条」を経典として信じてきたひとたちも高齢化し、気息奄々になってきているとは思うが、1970年前後のできごとが人生で最大の経験であり、それをその後に活かすのがなによりの生き甲斐だったというひとが健在であるうちは、まだ細々とは生き延びていくのだろうと思う。今度の「国葬」反対のひともほとんどがその残党であったようである。まことにささやかなものであっても、日本にもささやかな「文明の衝突」がおきていたのかもしれない。イスラムに相当するのが「急進護憲派」??

 2000年6月から柄谷行人氏がÑAMという社会運動を開始している。当時わたくしはこの運動の話のことをきいた時、狂ったか、正気なのか?と思った。数名のインテリが徒党を組んで社会運動をはじめて一体どのような意味があるというのだろう? 自分が社会にどの位の影響を持つと思っているのか? 知識人のおごりの極致ではないか? 観念論の極致ではないか? 数十名が徒党をくんだ鉄砲ごっこで革命を起こせると信じた学生たちの運動とどこが違うのか? この組織は2年ほどで自壊したようだけれど、よく2年も持ったと思う。はたからみていただけでも、ただただ不愉快だった。知識人の醜さと傲慢の極致だと思った。

 日本の外では1971年にロールズの「正義論」がでている。わたくしは「無知のヴェール」といった話も観念論の極致としか思えず、なんで今ごろ、そんな幼稚な話がでてくるのか?まったく理解できなかった。東西で一斉に知識人の頽落が始まっていたのだろうか?

 p262にまた柄谷さんの話が出てくる。氏は、マルクスヘーゲルを継承したのではなくカントの徒であったとしたのだそうである。カント流に、アプリオリに存在するものとしての規範があるのだ、と。つまり、現実の流れなどを超越したところに、全員が従うべき規範がある、のだと。これではほとんど「神」を信じるに等しい。あるいは柄谷氏が神になった。この柄谷氏によって知識人の傲慢は頂点に達した。とすれば、後は転落していくだけである。
 まさか柄谷氏は日本人すべてがカントやヘーゲルを読んでいると思っているわけではないだろうが。そもそも、現代において、ヘーゲルとかカントとかを持ち出すことにまだ少しでも意味があるのだろうか? そんな本今どれくらいの人が読んでいるのだろう。氏は日本人のすべてが自分のような知識人であると思っていたのだろうか? わたくしはヘーゲルの「精神現象学」はまったく読んでいない。コジューブの本(それもまたしっかりとは読んでいない。その拾い読みだけである。カントの「純粋理性批判」はかろうじて一度だけ読んではいるが、少しでも理解できたとは思えない。ヒュームが「われわれは決して真理にいたることはできない」ことを示したと信じ、それに心服していたにもかかわらず、「ニュートンが真理にいたった」と考えたことがカントの思索の出発点になったというようなことをどこかできいたことがある。だがカントは誤解をしたので、ニュートンの「万有引力」の論はアインシュタインの「相対性原理」により否定された。つまりカントは「科学」というものを誤解した。数学には真理があるのかもしれないが、自然科学の分野ではわれわれは仮に「真理」にいたっても、それが「真理」であると知ることはできない。現在はまだ反証はされていない「仮説」とだけ認識できるだけである。
 東浩紀さんの「動物化するポストモダン」の話もまた出てくるし、264ページには網野善彦氏とデリダの死が比べて論じられる。
 以下はまったくの貧しい私見であるが、自国をどう見るか? 自国を包むもっと広い文化をどうみるか? について、ヨーロッパではそれを論じる基礎になる相互に共有された「理念」があるが、日本ではそのような「理念」を欠くと思う。
 ブッシュ政権イラク戦争につきすすむ中、ヨーロッパ圏の指導者であるシラクシュレーダーはそれを批判した。共通通貨のユーロも機能していたし、EUもまだ拡大を続けていた。ヨーロッパの「理念」はまだ死んではいなかった。(現在、イタリアでもEU離脱の可能性が議論されているらしい。ウクライナの戦争で辺縁ではEUの加盟国は増えているが、中核の国々では動向があやしい。) 私見が続くが、結局ヨーロッパ文明を作って来たのはドイツであって、バッハ・モツアルト・ベートーベン・カント・ヘーゲル・・・の系譜がヨーロッパを支配した。その外の国では音楽ではフランク位? 哲学ではようやく20世紀になって、フランスでサルトル・・。イギリスではほぼ皆無で、そこでは生活の改善が最優先された。

 問題はヒトラーもまたドイツの産物であることであり、もっといえばマルクスもドイツが生んだ。現実を見ないで、ドイツ人は観念だけで突っ走るが得意であって、その反省が現在のドイツを規定しているのだと思う。
 わたくしが私淑する吉田健一氏の「ヨオロツパの世紀末」では表題に反してドイツがほとんどとりあげられない。ゲーテの詩がほんのちょっとだったような気がする。

 いろいろと私見ばかり述べてきてしまったが、ここまでが第7章で、以下が第8章「進歩への退行」2003-2 郵便民営化とか靖国問題などが論じられるが自民党内のゴタゴタとしか思えないのでパス。このころの保革の対立は、保守対「左翼」から保守対「リベラル」へと移行していった、とされる。
 2003年の大ベストセラーが養老孟司氏の「バカの壁」である。
 わたくしはその頃、養老氏の本が出ればみな買うようにしていたので、その初版本を持っている。東大医学部解剖学教授が何だか変な本を書いていると聞けば買わないわけにはいかない。とはいっても、さすがに氏の最近の本は、過去の繰り返しが多く息切れが目立つので、今は全部は買っていない。「まる ありがとう」は買ったが・・。
 氏の読むに値する本はほぼすべて「バカの壁」以前に出ていると思う。『脳の中の過程-解剖の眼』『形を読む-生物の形態をめぐって』『からだの見方』『唯脳論』『身体の文学史』『「都市主義」の限界』・・・。特にわたくしには『唯脳論』『「都市主義」の限界』にいろいろと教えられた。
 『バカの壁』以降のものとしては、『運のつき』であろう。これは氏の本としてはあまり知られていないと思うし、読者を選ぶ本である。自身が被害者?であった全共闘運動へのうらみつらみを延々と書いた本である。いかに氏がしつこい人であるかが良くわかる。「だから東大紛争は私の人生を変えたと、いつまでもいうんです。自分の意思で闘争に参加したんじゃない。強制的に参加させられたんですわ。・・全学共闘会議の議長だった山本義隆は平成十五年度の毎日出版文化賞と、朝日新聞社大佛次郎賞と、ダブル受賞の本を書きました(『磁力と重力の発見』2003年)。・・議長だった山本義隆が、物理学の歴史なんか書いているのに、全共闘になんの関係もない私が、ありゃなんだったんだと、考えている。変なものですな。・・・「山本義隆、こらお前、総括しろ」。そんな気持ちがないかといえば、嘘になります。・・・だから山本義隆の受賞に対して気持ちが複雑なんですよ。・・ゲバ棒を持って研究室を封鎖に来た学生たちの言い分は、「俺たちがこんな一生懸命やっているときに、なんだお前らは、のんびり研究なんかしやがって」というものだったと思いますよ。それは戦争中の非国民の論理とまったく重なる。・・・」
山本義隆氏は将来を嘱望されていた物理学者であったのだそうで、氏が全共闘運動に参加することで正統の物理学の道から外れたことは日本の物理学界の大きな損失であったというようなことを聞いたことがある。
紛争時、養老氏はすでに学者になっていたわけだが、わたくしはまだ学生であった。そこで何より嫌われたのが、「自分はこの闘争には何の関心もない。勉強したい。有志何名かと授業を受けて早く進学したい!」と言い出すような人達だった。「スト破り」(養老さんのいう「非国民」)とか言われて猛烈に糾弾されていた。ようするに闘争が命、学問は捨てたというようなごく一部のひとを除けば、多くは、いずれこのストは終わると思っていたので、ストが終わった時に、だれかがすでに自分より先にいるということは許せないと思っていたわけである。
 わたくしも東大闘争(紛争)の渦中にいた人間(といってもノンポリの一般学生)だったわけだが・・大体わたくしのような「良家のお坊ちゃん」は年長の教授などをつかまえて、「手前!土下座しろ!自己批判しろ」などと罵ることは決してできないのである。・・変な話かもしれないが、最近の「国葬反対!」を叫んでいる方々をみると、紛争?闘争?中にヘルメットを被り、覆面して、ゲバ棒を持って「シュプレヒコール! 東大を解体せよ!」などと叫んでいた人たちを思い出してしまう。まあ同じ人達なのかも知れない。養老氏はゲバ棒大東亜戦争時の竹槍を想起させたといっていた。
 ということで、養老さんの本のベストはわたくしにとっては、『唯脳論』『「都市主義」の限界』『運のつき』だと思っている。
 さて与那覇氏は、養老氏の考えには山本七平氏の考えが影響しているとしている。
 また養老氏の著作の根っこにある「脳」へのこだわりへの批判者として精神科医斎藤環氏が紹介されている。この斎藤氏もはじめは『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)という超オタクな本で世に出た人である。
 ところで、養老氏は「すべては脳内物質の働き」だといったのだろうか? むしろそれへの批判者だったのではないだろうか? 島田雅彦氏との対談本のタイトルは「中枢は末梢の奴隷」(朝日出版社 1985)である。末梢からの入力がない中枢神経などは全く意味が無い。この本の42ページにはすでに「バカの壁」という言葉がでてきている。
 この島田氏との対談本のp130にベイトソンの名前も出てきていた。必ずしも肯定的にではないが・・。その「精神と自然 生きた世界の認識論」(思索社 1982)などわたくしは一時耽読したものだった。・・「アメリカでもイギリスでも、おそらく西洋世界のどこでも学校教育は真に重要な問題はすべて避けて通っている・・」。
 一番の問題は「生きている」とはどいうことかであるはずなのに、医学でさえ、死体学ではないか、あるいは電子顕微鏡写真ではないかという感じをこちらは当時抱いていて、それでベイトソンなどにも惹かれたのだと思う。

 さて次に韓流ブームが語られるが、「冬ソナ」など見ていないのでパス。
韓国の後は中国の台頭。
 この頃、公共哲学が一時的にブームになったとし、アーレントの「人間の条件」などが言及されるのだが、あんなに難解で小難しい本を一体どのくらいの人が読んだのだろう。シモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」とか「神を待ち望む」を連想させるような実に重たい本で、「神」を戴かぬ我ら日本人にはまったく縁のない本であるように思った。
 一方、左翼の方は、カルチュラル・スタディーズだとかポストコロニアリズムとか舌をかみそうな方向に逃げて、自壊していったと。
 この年に邦訳されたネグリらの『〈帝国〉』ももてはやされたとされているが、それは、本来はGAFAのような国境をこえた組織を論じた本であるにも関わらず、「帝国」という題名から、日本の知識人たちからは〈反帝国主義〉の本であるという旧態依然の読み方で読まれことにもわかるように、日本の知識人の知的レベルはそのころには、どんどんと低下してきていた。

 ここで第8章が終わり、次は、第9章「保守という気分 2005-2006」である。次の第10章「消えゆく中道」までいくかは未定。この10章のはじめの方に、安倍晋三氏が翌年結婚する昭恵氏と並んだ写真が出ている。

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(8)第6章 身体への鬱転 1998-2000  第7章 コラージュの新世紀 2001-2002

 何だかなかなか進まないので、今回は2章をまとめて5年分。

 与那覇氏は、1999年は「言語から身体へ」の転換が動き出した年であったという。すなわち「何が語られているか?」から「誰が語っているか?」へ。この年都知事になった石原慎太郎自死した江藤淳。前者が肉体、後者が言語。
 江藤氏という人は人間として今一つ成熟していないというか、情緒不安定というか、氏が晩年に勤めていた大学で職場をともにしたひとは、とにかくあまり一緒に働きたくはない人といっていた。氏の代表作は「成熟と喪失」であると思うが、実際の氏は、そこで描かれた孤独なカウボーイのように母に捨てられた感情が一生ついてまわり、それが夫人への過度の依存に転化していったというというようなことがあったのかもしれない。
 それに対して石原慎太郎は肉体の人で、氏の都知事当選は身体の勝利を意味したとされているが、いきなりそこから宇多田ヒカルの話になるので混乱する。「First Love」なんて聴いたこともないからから、このあたりもパス。
さて江藤氏は60年安保で挫折して転向?したわけだが、要するに子供の遊びとしての政治ごっこに辟易し、もっと成熟した大人による政治を希求したということになるのかもしれない。
 現実の政治をするのではなく、自分たちが掲げる政治目標の正しさに自分で陶酔することが「政治」の目標になるという倒錯である(これは最近の「国葬」反対運動にも強く感じる。そういう反対運動によって「国葬」が中止になる可能性など少しも信じてはいないが、「国葬」に反対するほど意識の高い自分をアッピールする機会にはなる。そういうのは決して政治運動ではなく、単なる「自己満足」運動だと思うのだが・・・)。
 ここから小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」に話が移るが、これも読んでいないのでパス。
 それで、話は柄谷行人氏の方へ。しかしここでも論はすぐに当時大バッシングをうけた加藤典洋氏の「敗戦後論」にうつり、さらに東浩紀のデビュー作、「存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』(新潮社 1998年)へとうつっていく。「存在論的・・」は持っていないが、「郵便的不安たち」(朝日新聞社 1999)は持っていた。しかし、あまり読んだ形跡はない。
 少し読んだ形跡があるのは「東浩紀コレクション」という講談社から2007年にでたなんだか変な装丁の4巻本である。こいうものがそこそこ売れていたのだから、このころまでは、まだ「ポストモダン」も現役の思想だったのかもしれない。
 「存在論的」とは「固有なもの」に迫ろうという考えかたで、ハイデガー―柄谷路線を指し、一方、「郵便的」とはデリダに由来する、「固有なもの」を否定し、《メッセージが誤読される過程》に創造性を見出すやりかたなのだそうである。もうベタな精神分析は死んだ!としたのだという。
 わたくしが文系の人が書いたものを読んでいて時々感じるのは、フロイトは人間にかかわる真理を発見したとおもっている方が少なからずいるのではないかということである。理科系の分野に携わる人であれば、われわれは決して真理に到達することはできない。われわれが知り得ることの出来るのはすべて《仮説》までである、というのは当然の前提となっていると思うのだが、文科系ではまだまだそうなってはいないようである。
 さて話題は飛んで、福田和也氏の「作家の値打ち」へ。ワインの品評のように、文学作品も点数で評価しようという試みである。わたくしもちょっとみてみた記憶があるが、石原慎太郎氏の作が最高位にランクされていて、それはないだろうと思った。
 福田氏は執筆に4~5年かかった労作「奇妙な廃墟 フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール」(国書刊行会 1989 ちくま学芸文庫 2002)でデビューし、それを江藤淳に見出されて世にでた人である。コラボラトゥールというのは、先次大戦においてナチスに加担したフランスの文人をさす。
 文庫本でも500ページをこえる大著であるが、文庫本での「解説」を柄谷行人氏が執筆している。そこで柄谷氏は「福田氏が考えていることを理解できるのは私のような人間であって、いわゆる保守派の人たちではないという確信を抱いていた」といったなかなかのことをいっている。そしてまた「ラカンフーコードゥルーズデリダなどはもっぱらフランスから来た思想であるが、しかし数学的体裁や記号論などをのぞけば、戦前の反近代主義、日本でいえば「近代の超克」の運動の再現であった。なぜなら、みなハイデガーを重視していたではないかというようなこともいっている。T・S・エリオットエズラ・パウンドもアクション・フランセーズから強い影響を受けていた、と。日本でも、西田幾多郎や京都学派などについては、戦争イデオローグであったことを無視して評価するか、戦争イデオローグであったということだけで、何も考えずにその業績は無視されるのだ、と。
 ということで筋金入りの「文学者」である福田氏が「作家の値打ち」のような本を書くということは、もう文学の世界はいやになったという宣言もあったのであろう。事実、氏はその後、文学の方面ではまともな本をかいていないと思う。
 「作家の値打うち」が出た2000年に、アマゾンが日本に上陸し、また2ちゃんねるが始まっている。Twitterも日本には2008年に来ている。
 さて、p234に小泉首相がらみでどういうわけか、エンニオ・モリコーネの名前が出てくる。「マカロニ・ウエスタンなど、殺伐とした西部劇のスコアが本業」という註がついているが、これではいくらなんでもモリコーネさんに失礼だと思う。現在の映画音楽の分野の巨匠の一人とでもしなくてはいけないのではないだろうか? 「ニュー シネマ・パラダイス」「ガブリエルのオーボエ」・・・。「ニュー シネマ・パラダイス」の有名な旋律は息子さんが作ったものらしいが・・。
 さて日本ではヨーロッパと違い、ヨーロッパにおいては志向された「現実化した中道左派」の方向が、日本では希求されなかった。右が「自民党公明党」で固定し、左は「最左派の野党としての共産党」が定着した。日本共産党ソ連・中国の両共産党から独立する独自路線をとっていたにもかかわらず、冷戦の終結時にうまく舵をきって転換することができなかった。それは、大東亜戦争時、幹部のほぼ全員が拘束されていたため、非転向、妥協の拒否こそが党のモラルとなってしまっていたからである。
 与那覇氏は、ベトナム戦争で共産側が完勝した1975年は「社会主義への移行が人類史の必然であり、それを止め ようとする資本家の断末魔のあがきがファシズムだ」というような歴史像が説得力を持ちえた最後の時代だったという。
 わたくしが不思議だったのは、サイゴン開放の後、ベトナムからの報道がばったりと途絶えたことである。天国になったはずのベトナムからはどういうわけか、ボートピープルが逃げ出し、中越間に戦争がおき・・、一体なにがおきているのか? まったくわたくしにはわからなかったが、それまでも胡散臭く思っていたベトナム反戦運動の化けの皮が剥がれて来たのだと感じた。
 当たり前かも知れないが、「ベトナムに平和を!市民連合」などという組織もあっという間に解散してしまい、あれだけ応援していて、ようやく解放された戦後ベトナムの復興に今後応援協力していくなどという話もどこからも聞こえてこなかった。要するに、ベトナム戦争までで左側のプロパガンダの賞味期限が切れたのだろうと思う。
 さて、p235に護憲派として大塚英志氏の名前がでてくる。わたくしが大塚さんの本で一番よく覚えているのは「物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン」(朝日新聞社 2000 朝日文庫 2003)である。その第三講で、蓮實重彦氏の「小説から遠く離れて」が紹介されている。そこで蓮實氏が、井上ひさし吉里吉里人」、村上龍コインロッカー・ベイビーズ」、丸谷才一「裏声で歌へ君が代」、村上春樹羊をめぐる冒険」などが同一のプロットでできていることを指摘してことが紹介されている。みな《天涯孤独の主人公が誰かに依頼されて宝探しの旅にでる。》話のヴァリエーションだというのである。丸谷氏の小説がこれにあてはまるかは微妙だと思うが(「エホバの顔を避けて」や「笹まくら」の孤独な文学青年路線、政治から兵役から「逃げる」小説・・「だめだらめておれはとけてゆくちひさな」・・から、市民を主人公とする小説への転換を図ったのが「たった一人の反乱」であり「裏声で・・」だったと思うが、時代はすでに丸谷氏の先にいってしまっていたと思う。それで「裏声・・」がこの蓮実氏の図式に当てはまるのだろうかについて、わたくしは疑問に感じる。丸谷氏は「たった一人の反乱」とか「裏声で歌え」というのが世相をとらえたもので、それゆえ流行語になることを期待していたのではないかと思うが、「面従腹背」とか「個人がひとりひとり起こす反乱」とかの穏健路線?はもはや時代に遅れていたとわたくしは思っている。)「コインロッカー・・」もいわれてみれば蓮実氏の図式に当てはまりそうな気がする。
 そして、恥ずかしながら、実はこの本で蓮実氏の名前を初めて知った。何だか偉そうなものいいをする、上から目線の人だなあと思った。
 これで第6章までが終わったので、次も「第7章 コラージュの新世紀 2001-2002」 「第8章 進歩への退行 2003-2004」の4年間を一緒にしてみていく予定。60ページもあるが・・。

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(7) 第5章 喪われた歴史 1996―1997

 平成9年(1997年)は後世から「右傾化の原点」と記されるかもしれないと与那覇氏はいう。同年1月に西尾幹二藤岡信勝の体制で「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、さらに5月には「日本会議」が結成されたからである。
 わたくしはこの「新しい歴史教科書をつくる会」の騒動をひたすら馬鹿々々しいと思ってみていた。それに反対する人たちは、人間は教科書に書いてあることをそのまま本当のことと信じると思っていただろうか?
 いくらでも読むものがあり、見聞きするものがある時代に、いくら教科書に右派が自分達の「見解?」「偏見?」を書きこませることに成功したところで、そんなものは焼け石に水、海に捧げる美酒一滴であって、時代をほんの少しだって変えることなどできるはずがないとわたくしは思っていた。
 この与那覇氏の本は、知識人の復権を目指すものであると思うが、左右知識人の椅子取りゲームを論じても意味はなく、この「新しい歴史教科書をつくる会」の結成がその後の市井の日本人にどのような影響を与えたか与えなかったかが大事なはずである。わたくしは、影響はほぼ皆無と思っていたのだが、そうではなかったのだろうか?
 わたくしは麻布中高という庄司薫氏が「赤頭巾ちゃん・・・」で描いた都立日比谷高校ほどではないにしても、まあそれに似たいやったらしい学校で学んだ人間なので、すでに擦れていたのだが、東大には入ってびっくりしたのは、地方の普通の公立の高校などから出て来た人などには(なにしろ先生が解らなくなると「お前教えろ!」というというような環境で学んで来たので)、「ひょっとすると俺は日本で一番頭がいいのではと、ここに来るまでは思っていた」というようなことをいう人が一定数いた。しかも、そういうひとが、「自分はいままで教科書に書いてあることはみんな正しいと思っていた」というのである。確かにそういうことはあったが・・・。
 「日本会議」のほうにもあまり関心はなかったが、いままで「進歩」陣営の人々から抑圧されて悔しい思いをしてきた右の側の人たちが、ようやく俺たちも発言できる時代が来たとして声をあげた、というようなものと解していた。それまで左の人たちはそういう人たちに発言させないことに多大の力を注いで来たのだから、「日本会議」が時代を変えたのではなく、時代がかわったので、日本会議のような方向の人達もようやく発言できるようになってきたということではないかと思う。
 わたくしは、西尾幹二氏はミニ福田恆存と思っていたが、藤岡信勝氏はその著書をただの一冊も読まないまま、この人「頭が悪いのじゃない」と思っていた。聞こえてきた話があまりに大雑把なように見えたからである。
 次に、1996年には、丸山眞男高坂正尭司馬遼太郎の三氏人が死んだことを那覇氏は指摘する。
 丸山氏の言葉。「マスコミはひどいですよ。「社会主義の滅亡」とか「没落」とかね。・・第一に理念と現実との単純な区別がない。・・ これは当時さかんにいわれていた「社会主義の滅亡」論についても同じ。現実におこりつつある「ソヴィエト連邦の崩壊」と、理念としての社会主義は峻別して議論しなくてはならない。・・・」
ここで丸山氏が提示するのは、「ギルド社会主義」といういかにも学者さんの頭の中にしか存在しえないように思える構想なのだが・・・。
 そして丸山氏はこうもいう。「僕は社会党はホントにバカだと思う。国連の改組というのが全然でてこないの・・・。国連の主権国家単位を根本的に改組しなくては、独立の軍備を持たない国家は国家じゃない、という議論に対して対抗できませせんよ」、と。
 とすれば、社会党立憲民主党?)は未だにバカのままということなのだろうか?
この点に関しては、わたくしは彼らから未だにoccupied Japan 意識が抜けないのが一番の問題なのではないかと思っている。最近の国葬反対でも、見てまず感じるのが「大人気ない。子供っぽい。」ということである。被占領意識がぬけないから、父親になれず、責任は回避してただただ子供っぽい批判のみのように見える。懐が狭いというのか?あるいはそもそも懐というものがない?
 次に高坂正尭氏。氏は晩年、「憲法、とくに第九条は日本人を深く考えさせるのではなく、思考を停止させるという性格が強まってきた。」としていたのだという。湾岸戦争への「進歩」側の対応をみても、第9条が(ただの?)錦の御旗になってしまった、と。
 ここで沖縄大田昌英知事が出てくる。わたくしは沖縄の問題の一番の根っこは地政学的な問題があると思っていて、それがあまり論じられないのが不思議だと思っている。
 とにかく、藤岡信勝氏は「昭和のホンネ」というというパンドラの箱を開けてしまった。知識人の間で「それをいっちゃおしまいよ!」としてみんな見て見ぬふりをしていたものを「王様は裸だ!」といってしまったわけである。
さてここから話の方向が急に変わることになる。
 1996年に、ハンチントンの「文明の衝突」が刊行された。これはフクヤマの「歴史の終わり」(三笠書房 1992)への批判として書かれた。フクヤマは確かコジェーヴのお弟子さんで、この「歴史の終わり」にもコジェーヴへの言及が頻繁にある。コジェーヴは「冷戦の終わり、西側の勝利」を見て、もう哲学にはやることがなくなったとして国連の職員かなにかになったのではないかと思う。
 邦訳「歴史の終わり」の原題は「歴史の終わりと最後の人間」である。「最後の人間」というのはニーチェの「末人」であり、要するに、西洋はついに勝利はしたが、そこでこれから生きていく人は、何らの気概も持たない「末人」「スノッブ」である、というあるという含意の題名であり、ある意味では、西欧の勝利の賛歌ではなく、ペシミスティックな本でもある。
 コジェーヴは「ヘーゲル読解入門 『精神現象学』を読む」(国文社 1987)で、氏が日本に来た時見出した、《鎖国により大きな国内戦争が300年なく過ごして来た日本で発達してきた能や茶道や華道といった洗練されたスノビズム》こそが「歴史の終り」の時代以降を生きる「末人」たちの目指すべき方向である、といった多分に日本へのリップサービスのような註(邦訳p246~247)を後から加えている。それを読んだポストモダンの陣営の人達がなぜかえらく嬉しそうにしていたのを思い出す。
 コジェーヴは、ヘーゲルなどという今やだれも読まないかもしれない哲学者について延々と論じているわけである。
 そのお弟子さんのフクヤマとその「歴史の終わり」においても、プラトンを論じ、「気概≒自尊心」とし、「魂の三分説」(欲望と理性と気概)などを延々と論じているのであり、「歴史」が終わった後はニーチェの言う「末人」の世界になるといった、はなはだ抽象的でかつ検証のしようもない話に終始している。東側の崩壊の原因も、それが人々の「気概」を満たせない体制であったからといったはなはだ抽象的な議論に終始している。
 「歴史の終わり」の訳者である渡辺昇一氏の著書「新常識主義のすすめ」(文藝春秋 1979)には「不確実性の哲学―デイヴィッド・ヒューム再評価―」という40ページほどの論が収められている。そこに、1974年のハイエクノーベル賞の受賞記念講演である「Pretence of Knowledge」(知ったかぶりをすること?)が紹介されている。ハイエクの論にはヒュームの名前はでてこないが、これはヒュームの思想そのものだということが言われている。
 「人知の限界」対「構成的主知主義」。わたくしはコジェーヴフクヤマも、そしてヘーゲルマルクスは言うまでもなく「構成的主知主義」の側の人間だと思うので、この二つに対する渡辺氏の姿勢がいまひとつよく理解できない。
 われわれは「人知の限界」に制約されるが、その「人知の限界」を認めない「構成的主知主義」の考えの上に立った東側は崩壊して当然であったということになるのだろうか?
 もちろん実際の歴史をみれば「歴史の終わり」などおきなかったわけで、ハンチントンの「文明の衝突」のほうが正しかった。西側とイスラムの対立がおき、世界の争いは延々と続き今にいたっている。現在ロシアでおきていることだって、西欧の現在を「末人」化とみて、それに同じることはできないと感じる人間が、「人間はもっと崇高なものだぞ!」と叫んでいることに起因しているのかもしれない。9・11だってもちろんそういう方向である。
 わたくしからみると、渡部昇一氏はなんといっても「知的生活の方法」(講談社現代新書 1976)の著者である。それが出版された当初、「何が知的生活だ! 気取りやがって! 嫌な奴」と思って手にもとらなかったが、ある時、何かで手にすることがあり、すっかり打ちのめされた。佐藤順太先生もさることながら、p145~150に示されたいくつかの書斎の設計図にやられてしまった。いいな、いいな、こんな書斎を持ちたいなぁと思った。
 本を読んでいると、「あっ、この話〇〇さんがどこかで書いていたことと関係あるな!」という閃き?のようなものを感じることがある。こういう閃き?がおきたらおそらく5分以内位に〇〇さんの本を参観できないと閃きはどこかに消えていってしまう。だから誰々さんの本は本棚のどのあたりにあるかを大雑把にでも把握していないといけない。しかし本が増えてくるとそれがとても難しくなっていく。ということで本棚を並べた小さな図書館のようなスペースが自宅にあって、そこに自分なりに整理し分類した本を配した書架がないといけない。様々な著書についての自分なりの相関図を反映したライブラリがなくてはいけないことになる。
 今、私は3千冊くらいの本を持っているかと思うが、数年前の転居前は一万冊くらい持っていたのではないかと思う。実家が比較的広かったのでそれが可能になっていたが、今の家は狭いので、文庫本など(たとえばキングのミステリは30冊くらい?・・)の大半は古本屋さん行きとなった。いまではいざとなればアマゾンに頼めば、早ければ翌日に本が届くといういい時代になったから、普通に流通しているポピュラーな本は手許におく必然性はあまりなってきているのかもしれないが・・。しかし渡部氏の本の書斎の設計図をみると、やはりうらやましいなあという気持ちがこみ上げてくるのは否めない・。
 だから「絶景本棚1・2」(本の雑誌社 2018 2020)などというのを読む(見る?)と羨ましくもあり、まあ凄いひとがいるものだと感心もする。「1」の第一章は松原隆一郎氏、京極夏彦、萩原雷魚渡辺武信氏、成毛眞氏・・・。まず松原氏のライブラリ、おそらく本の収納のために新築したものであろうがどのくらいのコストが?と他人事ながら気になる。またどの人のライブラリを見ても床が抜けないかが気になる。
 「作家の家」(平凡社 2010)もいい。わたくしの敬愛する吉田健一氏にはじまり、山口瞳渋沢龍彦井上靖・・などの各氏。井上靖氏や岡部伊都子氏のように整然と整理された家もあるようだが・・。
 いずれにしても物書きになるためにはどれ程の本を読み、手許に置くことが必要か?ということである。学者さんも同様であろう。本を読むのもアマチュアの方が無難ということであろう。
 ということで、この「知的生活の方法」を読んで、一生本を読んで暮らしていこうという気持ちが固まったことは確かで、それについて後悔したことは、その後一度もない。
 さて、渡部氏をもちあげてきたが、氏は男女関係といった方面にはいたって不調法な方なのではないかと思う。「新常識のすすめ」(文藝春秋 1979)に所収された同名の論で、アメリカの某大作家が匿名で書いたという「彼」というポルノ小説を論じている。わたくしはこの作家の「彼女」という同じ系統の小説は読んでいるが「彼」は読んでいない。しかし小説についてはそんなに理屈をつけてまで、小難しく読まなくてもいいのではないかと思っている。
 「知的生活の方法」でも、家族、結婚、夫婦、家庭生活についていろいろなことを書いているが、実生活においては奥様というお釈迦様の掌で踊っていたのではないだろうかと想像している。違っていたら、妄言多謝であるが・・。
 さて与那覇氏の本に戻る。なぜかいきなり安室奈美恵の話になる。更に宮崎駿の(第一回目)の引退。次に、高畑勲氏やスタジオジブリの話。これらは、こちらが全く知識を持たない話なので、パス。
 で、次がまたいきなり97年のアジア通貨危機の話になる。当時これには本当に驚いた。ヘッジファンド(という言葉もその時、初めて聞いた)といわれる一私企業が国家を沈没させてしまうまでの力を持つこともあるということに驚いた。
 また95年にはアマゾンが開業している。最初本屋さんだと思っていたらいつのまにかネット上のスーパーマーケットになってしまった。しかし梅田望夫さんがいっていたロングテールのかなり端っこにあるような本もかなりの確率で入手できるようになったのはとてもうれしいことである。(梅田望夫「ウェヴ進化論 -本当の大変化はこれから始まる」(ちくま新書 2006))
 さらにハイテク大国日本の凋落の話。山一証券は潰れ(社長さんが泣いていた)、この頃から、バブルの崩壊が日本で実感されるようになり、日本全体に何だかわが国はまずい方向に向かっているのではないの?という見方が広がっていったように思う。
 そして、99年末には、ロシアでプーチン氏が大統領に就任している。
 その後、臓器移植の話になるが、もちろんこういう話に結論がでることはない。

 以上で第一部が終り、次からは第Ⅱ部「暗転のなかの模索」となる。まずその第6章の「身体への鬱転 1998-2000」へ。この章では3年がまとめて論じられている。

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(6) 第4章 砕けゆく帝国 1995

 最初に三島由紀夫の「太陽と鉄」からの美文の引用、次に「新世紀エヴァンゲリオン」への言及。
 「太陽と鉄」は昭和43年(1968年)講談社刊。裏表紙には篠山紀信氏の撮った、褌一つで鉢巻きをし、日本刀を半ば抜刀してこちらを睨んでいる三島氏の写真。エピローグとして「、F104」という自衛隊機搭乗記。エピローグの最後に〈イカロス〉という詩のようなものが付されている。
 いまから思うとこれは明らかに三島氏の遺書であると思うが、その当時は縦の会も映画の「憂国」もこの「太陽と鉄」も、みんな一種の三島美学の表明ではあっても、世間をからかう氏の優雅な遊び、道楽だと思っていた。
 わたくしが何か変だと思い出したのは1970年4月に「新潮」に連載が開始された「豊穣の海」最終巻の書き出しを見た時である。もっとも後から見ればすでに第3巻の「暁の寺」からおかしくなっていたのだが、いずれ完結したら読もうと思って読んでいなかった。最終巻は当初「月蝕」という題が予告されていたが「天人五衰」という変な題に変わっており、しかも安永透という安っぽい、作者の愛情が微塵も感じられない名前がつけられた人物がいきなり主人公として登場してくる。ああ、三島さん小説書くのがいやになってしまったのだな、とその時思った。三島氏は1970年の日本が左右勢力の激突で大混乱となることを予想しており、第4巻はその騒乱をリアルタイムに取り入れながら書いていき、そして騒乱が頂点に達した時点で盾の会のメンバーともども切り込んで死ぬ、それで、小説は未完で終わるということを想定しており、にもかかわらず70年には何も起こらなかったことに絶望した結果があの行動だったのだと思う。死の少し前に「デーパートで家具を買っている人をみると吐き気がする」というようなことを言っていた。それでは小説など書けるわけがない。

 与那覇氏は2007年に大学教員になって日本文化史を講じるためにはじめて「エヴァ」を読んだのだそうであるが、大学教員ではないわたくしは読む義務など当然ないわけだし、これからも読むことはないだろうと思う。(息子は高校生のころ「エヴァ」にはまっていたようなので、父親に対して複雑な感情を抱いていたのだろうと思うが、今頃そんなことがわかっても、あとの祭りである。
 本章の最初の副題が、「エヴァ、戦後のむこうに」であり、そこに「「団塊親」としての碇ゲンドウ」が続くのであるが、なにしろ碇ゲンドウなんていわれても何もわからない。仕方がないので、この辺りはスキップして、106ページ、江藤淳が出てくる辺りに飛ぶことにする。
 しかし「特務機関ネルフと国家ごっこ」といわれても・・。ネルフって何?

 さて与那覇氏によれば、1960年の安保は「戦後民主主義を守れ」の運動だった。
 だが、1070年の安保は「戦後民主主義なんて糞くらえ」という運動だった。平和とか民主主義とか、そんな聞こえのいいことばかりを安全な教壇・論壇の中からお説教をたれている奴らはみな偽善者だ!
 その観点からは彼らは三島由紀夫にも共鳴した。しかし、無数の碇ゲンドウエヴァンゲリオンに出てくる主人公のお父さんらしい)は「父」になれるか?というのが、与那覇氏がここで提示する問題である、あるは与那覇氏がみた当時の一番根っこにあった問題である。
 江藤淳がこの問題に対して示した回答は「米国に従属するのではなく、安保を改定して米国と対等になること」であったが、与那覇氏は、戦前の満州に注目する。あまり勉強しているわけではないが戦前満州というのは実に興味深い場所で、岸信介らが、満州というミニ国家で自分のやりたいことを好きなように実験している感じである。
 江藤淳の「成熟と喪失 ―“母”の崩壊―」(河出書房1967)はいわゆる「第三の新人」論であるが、同時に“治者”をも論じたものでもあって、まず安岡章太郎を導入として、小島信夫の「抱擁家族」を主たるターゲットとし、遠藤周作吉行淳之介に寄り道して、最後、庄野潤三夕べの雲」にいたるという構成である。
 吉行にもっとも辛く、庄野への評価が高い。ここに論じられるのは表題通りの“母”の崩壊なのであるが、その論の前提として「父の不在」ということがある。明治大正の日本文学の大きな主題であった「父との対立」はどこかに消え去り、戦後には「家」の束縛などどこかに霧消してしまった。
 おそらく戦後日本では父の役割はアメリカになってしまった。だから「拝啓 マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙」(袖井林三郎 岩波現代文庫 2002)ということになる。「米国代表マッカーサー閣下 謹啓誠に申兼ね候へ共日本之将来及ビ子孫の為め日本を米国の属国となし被下度御願申上候・・・」
 袖井氏はいう。「マッカーサーは占領下の日本人にとって父であり、男であり、告白聴聞僧であり、ついには神の座にあるとさえ思いかねない存在であった。」
 「エンタープライズ入港反対!」というのもアメリカという父への反抗期の子供の叫びであったのかも知れない。
 さてp109からは「慰安婦問題とフェミニズム」。そこで議論されるのが、上野千鶴子氏。また大澤真幸氏。大澤氏は「学生との不適切な関係」で2009年、京大教授の地位を追われたかたという以外には多くをしらないが、その当時は東浩紀氏や宮台真司氏らとともにニューアカデミズムの旗手といわれていたらしい。オウム事件などについても論じていたようである。
 細川政権は唐突な消費税の7%(3%から)への増税を提案して自壊した。増税の根拠をきかれて「腰だめで」などと言っていたことを覚えている。ブレーンから吹き込まれたことを口にしただけで、自分でもよくわかっていなかったのだと思う。なにしろお殿様だから、ワーワー批判されて、うるさいなあ、もう辞めるよ、ということになったのではないだろうか?
 これで94年、村山富市を首班とする自社連立政権が発足。このころ、社会党の人間をトップに据えるという自民党の策略を見て、なんて凄いと思った。社会党より何枚も上手。なにしろ村山氏は自衛隊の閲兵までさせられた。踏み絵である。95年すぐに、阪神淡路大震災。すぐの3月にオウムによる地下鉄サリン事件。ついでに同年11月には、Windows95発売。
 思想の世界ではこの年1月に加藤典洋氏の「敗戦後論」。しかし5月には野口悠紀雄氏の「1940年体制」も刊行された。
 社会党は1945年の結党当時から英語での党名は、Social Democratic Party of Japan 日本社会民主党!だった。しかしタテマエではマルクスレーニン主義を掲げ続けた。
 このあたり、小室哲哉さんとかは華原朋美さんとかいった名前がでてくるのだが、この方面にもまったく疎いので、よく理解できない。(大体、華原朋美って名前、全然聞いたことがない。有名な人?)
 ここでいきなりドゥルーズ(の自殺)の話が出てくる。自殺については病気を苦にしてなのであるから一私人の行動であり、はたからとやかくいうことではないと思うが、現在の管理社会、すべてがデータ化される世界のを予言したものとして、ある短い文が引用されている。
 時代は「自由な個人」の方向に向かっているのではなく、われわれが戴いていると思っている「西欧の思想」のその本家本元のヨーロッパでさえ、それへの信頼が崩れようとしていることを、その時の日本論壇の人達は捉え損ねた。それが、その後の反=知性主義~「知識人の凋落」に繋がると与那覇氏はしている。

 昭和48年にサンケイ新聞に連載された司馬遼太郎の「人間の集団について」というベトナム紀行(中公文庫 1974)に、氏の友人の元曹長が「まったく目に力のない若者がおおぜいで笑いさざめいているのを見て、十年前はこうではなかった」と慨嘆した話を紹介している。
 しかし司馬氏は、日本は昭和30年代の終わりになってやっと飯が食えるようになった。飢餓への恐怖をお伽噺としか思えない世代がやっと育った。国家的緊張はなく、社会が要求する倫理も厳格さを欠く。キリスト教国ではないから神からの緊張もない。そういう泰平の民がようやくできあがった。痩我慢を必要としない時代がやっと来たのだ、と。
 三島由紀夫は「目に力のない若者」など軽蔑し嫌悪しただろうと思う。(盾の会の若い会員たちは目に力があったのだろうか?)三島の死の直後、ああいうファナティシズムに巻き込まれるな!とかなり強い調子の文を司馬氏が書いていたのを思いだす。
 倫理というのは確かにどこかで「臥薪嘗胆」といったものと結びつくのだろうと思う。

 さて全く関係ない話であるが、本日の国葬における菅前首相の追悼の演説はなかなかのものであったように感じた。菅氏はとても口下手なひとだと思っていたのだが、「剛毅朴訥仁に近し」ということなのだろうか? 「剛毅」という印象はない人だが・・。政治家というのは皆「巧言令色 少なし仁」のひとばかりということでもないのだろうか?
 それにしても、最近の国葬についての議論をみていると、日本人がどんどんと子供っぽくなってきているように感じる。杞憂だろうか? それとも子供のままでも生きていけるいい時代になったということなのだろうか? 江藤氏が「成熟と喪失」で描いた時代がまだそのまま続いているのだろうか? 江藤氏もまたかなり子供っぽい人であったようにも思うのだけれど・・。

 さて、次は「第5章 失われた歴史 1996-1997」 丸山眞男の写真が出ている。

与那覇潤 「平成史 1989-2019 昨日の世界のすべて」(文藝春秋 2021)(5) 第3章 知られざるクーデター奇妙な主体化 1993-94

 与那覇氏は1993年の細川連立政権発足が日本の政治の分水嶺だったことを否定するひとはいないだろうとするが、国民の政治改革熱が高まった要因はその5年前の1988年のリクルート事件だったという。
 確かリクルート社というのは、1960年3月、 江副浩正氏がまだ大学在学中に学生仲間と、「東京大学新聞」の広告代理店として設立した、「大学新聞広告社」がルーツになったと聞いている。企業と学生を仲介する会社である。物を作る実業ではなく、人と人を結びつけるという虚業?の方向に目をつけるあたり、やはり並みのひとではない。
 1985年には、「フロムエー」を発刊。そして、1988年に- リクルート事件、バブル景気の崩壊に伴い、不良資産問題が顕在化したため、1992年江副氏が保有株式を中内㓛氏に譲渡、というような経過であったようである。
 田原総一郎氏は後年、リクルート事件を冤罪であるといっているのだそうである。未公開株を有力者に譲渡して、会社に箔をつけるのは当時広く行われていた慣行であったが、ある有力代議員に渡す場面が隠し撮りされていたから問題が大きくなって検察も動かざるを得なくなった。しかも95年のオウム真理教事件の報道でのマスコミのおかしなやりかたへの不信がたかまり、メディア先行であった細川護煕内閣にも厳しい目がむけられるようになったのだと。
 この細川氏の政策を影で立案したのが香山健一氏であったのだという。香山氏は「未来学」などいうわけのわからないことを論じていたひとで、わたくしは何だかつまらんひとと思っていたのだが、96年に64歳で亡くなられているようである。
 わたくしは当時の政治をみていて、裏で動いていた小沢一郎が細川を担ぎ上げるのを見ていて、うまいなあと感嘆していた。いかにも「悪人面」「政治家面」をした小沢一郎が裏にまわって、なんにでも「よきにはからえ」といいそうな茫洋とした熊本藩主末裔を祭り上げてくるというのは何という「政治の才」なのだろうと思った。
 ここで小選挙区制の話がでてくる。当時は中選挙区制であったわけだが、中選挙区制であれば、3人区で自民党から2人当選などということは普通に起きうるわけで、これが自民党政権を延命させている。小選挙区であれば、政党が掲げる政策の選択になりようやくまともな選挙になるといったことがいわれていたように記憶している。
 1993年に小沢一郎の「日本改造計画」は出たことは知っていたが、読もうとは全く思わなかった。安倍さんの「美しい・・」と同じである。
 この頃の政治論壇におきた世代交代のことが詳しく論じられているが、多分に大学人としての与那覇氏の関心に偏しているように思うので、ここではスキップするが、86ページからの「転向者たちの平成」については個人的な興味もあり見ていきたい。
 香山健一氏は60年安保で活躍した共産主義同盟(一次ブント)の創設者、西部邁の先輩。
 佐藤誠三郎氏は都立日比谷高校で民青同盟のキャップ。
 「転向」とは戦前は官憲の弾圧により起きたが、戦後は左翼思想への「失望」を契機にしたものが多い。
 戦後初期;渡邊恒雄・氏家斉一郎・・共産党への入党歴あり。
 共産党の武闘闘争への反発から:網野善彦
 60年安保の挫折から:香山健一・西部邁、あるいは江藤淳石原慎太郎も?
 70年安保の挫折から:猪瀬直樹(信州大で全共闘議長)

 わたくしなどは転向とか関係なく、この辺り、60年安保の時の「若い日本の会」を思い出すのだけれど。
 石原慎太郎谷川俊太郎永六輔大江健三郎黛敏郎福田善之寺山修司江藤淳開高健浅利慶太・羽仁進・武満徹・・。
 実に錚々たる顔ぶれである。
そして、谷川俊太郎作詞、武満徹作曲の「死んだ男の残したものは」。これは1965年の「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられたものだそうだけれど・・。
 1994年のベストセラー?「知の技法」の編者の小林康夫船曳建夫両氏も東大紛争(与那覇氏の記載に従う。これを「紛争」とするか「闘争」とするかは、このことを論じる場合にいつも問題となる)の闘士だったのだそうである。
 さてここでいきなり「幻冬舎」の話になる。その創立者見城徹氏もまた慶応大学での全共闘運動闘士だったのだそうである。
 さてこの当時に時代に抗する学者として登場した人として挙げられるのが宮台真司氏と上野千鶴子氏である。ともに「女」を論の中心においた。宮台氏は当時ブルセラ云々を論じていたと思うが、最近、氏の論を読む機会があり、ゴリゴリの「共同体主義者」「コミュニタリアン」に変貌しているのを知って一驚した。どうしたのだろう?
 上野氏については、とにかく氏が自信満々なのが嫌いなのだが、平安女学院短期大学講師から出発し、「セクシィ・ギャルの大研究」というきわものでデビューした人間が、東大教授にいたるまでの道のりがどれほど障害の多い苦難に満ちたものであったかは想像に難くないわけで、まああまり嫌ってはいけないのだけれども・・。「いまや未来に向かって進むなだらかな道は一つもないから、われわれは、遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害が起こったにせよわれわれは生きなければならないのだ」というのはまた上野氏の境地でもあったかもしれない。
 氏の「おひとりさまの老後」(法研 2007 表紙には 東京大学大学院教授 とある)は全くタイトルに偽りありで、氏はおひとりさまでもなく寂しくもないひとなのである。大晦日にはシングルの男女4人と年越しソバとシャンパンでカウントダウンパーティー、新年にはシングルの女性ばかりの新年会で、渡辺淳一の「失楽園」にならって、鴨とクレソンの鍋。流石にシャトーマルゴーは続かなかったと書いているが、いい気なものである。
 要するに「上級国民」である。上野氏によれば、こういう会を続けられるのは己のコミュニケーション能力の賜物ということになるのだろうが、シルバー起業せよとか、年金はあてにならないから少しは稼げとか、もう言いたい放題である。
 2015年にでた「おひとりさまの最期」(朝日新聞出版)では随分と大人しくなっていて、終末期医療などについてああでもないこうでもないといろいろと迷っているようである。在宅医療に携わる医師などとつきあううちに、医者は「社会性のない高ピーなひとびと」という先入観が壊れて来たと書いている。個人的には「社会性のない高ピーなひと」というのは上野氏のことのような気もしないでもない。あるいは「社会性はあるが高ピーなひと」
 なんだが、厳しいことを書いているが、上野氏が論じているような分野というのは絶対に正解がない、あるいは正解に到達していても、われわれはそれが正解であるとは知ることができない分野なので、そのややこしさから逃げて、氏もフェミニズムの分野から段々身をひいて、介護の分野に逃げたのかもしれない。介護の分野であれば、まだ正解を論じることが不可能ではないかもしれないから。
 上野氏はその頃「正気の、醒めた理想主義を、私は新保守主義と呼ぶ。・・新保守主義者は、現状の変革を認めるが、・・それは一つの悪夢が少しだけましなべつの悪夢にとって代わるだけだということを、知っている理性のことなのである。」と書いていることが紹介されている。
 これは保守主義の定義そのものであると思うが、上野氏がこれを是としているのかはわからない上記はフェミニズムとは真逆の考え方であり、フェミニズムというのは観念論の極致にあるものとえあたくしは考えるからである。
 なお1989年、平成元年の流行語大賞の新語部門は「セクシャルハラスメント」、流行語大賞が「オバタリアン(旋風)」であったのだそうである。
 宮台氏の当時の立場は「少女マンガのほうが少年漫画よりえらい」だったというのだが、マンガと映画というのはわたくしのまったく苦手で縁遠い部門なので、これについては何もいえない。大分昔、大岡昇平の「成城だより」を読んでいて、そのどこかに少女マンガを論じているところがあり、「えっ、大岡さん、こんなものまで読んでいるんだ!」と驚いたそんな旧弊な人間なので、この後でてくる「エヴァンゲリオン」がどうとかの話にまったくついていけないので甚だ困っている。

 次は「第4章 砕けゆく帝国 1995」であるが、今まで2年きざみで進行してき本書がここだけ1年である。それにしてもまだ100ページである。500ページの本書を論じると後どの位かかるか? まあ、頑張るしかない。