野田宣雄「ドイツ教養市民層の歴史」

 [講談社学術文庫 1997年1月10日 初版]

 
 三浦雅士「青春の終焉」で紹介されていた本。
ドイツの「教養市民層」についてイギリスの場合と比較しながら論じたもの。 マックス・ウエーバーのイギリス・コンプレックスなど面白い指摘がいくつもある。著者も「はじめに」でいう通り、明治以来の日本のエリート層は深く「ドイツ教養市民層」の影響を受けている。
 野田は、「ドイツ教養市民層」が内心もっていた宗教への軽蔑心が、明治以来の日本のエリートたちの宗教への態度に影響をあたえているのではないかといっている。
 「教養人」は現世的・世俗的・合理的で、来世的な超越への関心をもたない。
 一高寮歌祭的なエリート意識、人格の陶冶といった考え方が、この「ドイツの教養」に起源をもっていることは明らかだと思われるが、それらは、60年代の学生の反乱にも遠くこだましていないだろうか? なぜなら「ドイツ教養市民層」の第一の条件は、大学教育を受けていることなのだから。
 野田によれば、ドイツとイギリスではエリートのありかたが著しく異なっているのだが、ノブレス・オブリージといった考えは、「教養」とどうかかわってくるのだろうか?
 この本で、通奏低音として流れているのは、「教養」は「生」に意味を与えうるか?という問題である。「教養」は「宗教」を無効化していく。真の「教養人」は宗教をもたずに、「教養」だけで「生」を充足しうるが、一般の人間はそうはいかない、一般人には「宗教」も有効であろうという考え方がそこにある、人間には二種類あるという考え方。これは倉橋由美子も「城の中の城」で展開していた。
 この本で提示された、イギリスの歴史で果たしたジェントリィの役割という指摘は大変興味深い。中央に抵抗する地方にいる「まともな」人間。官僚化に抵抗するもの。おそらく、それ相当するものは日本にはなかった。



(2006年3月11日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • この本を読んだのは。教養ということに関心があるからである。教養ということとアマチュアということは関係しているように思う。多分、イギリスのジェントリーもまたアマチュア精神と関係するであろう。教養と宗教の関係にはきわめて微妙なものがある。科学を学べば自ずと無宗教になるはずであるという見方がある。ここで野田氏がいっていることはそれとは少し違って、多くのことを知り、広い視野をもつならば自ずと宗教からは離れるであろうというようなものである。しかし宗教は「深い」のであり、広く「浅い」教養などは、本当に根源的な人生の機微には触れることができないという見方もまた有力である。教養をえることで人は幸福になれるのだろうか? それとも教養をえることで人は、人智の限界を知り、あきらめることを知るのであろうか? (2006年3月11日付記)


ドイツ教養市民層の歴史 (講談社学術文庫)

ドイツ教養市民層の歴史 (講談社学術文庫)