スーザン・ソンダク「この時代に想う テロへの眼差し」

 [NTT出版 2002年2月5日初版]


 前の福田氏の本と違って、きわめて重い印象の本である。ここにはほとんど全世界を相手に独りで闘っているようなひりひりした剥き出しの個がある。シニックなものは微塵もない。世界のすべてに異を唱えるが、ただ反対するのではない個。
 ソンダクをかろうじてささえているものは、ヨーロッパの作家たちの歴史に自分がつながっているという意識であるように思う(これはヨーロッパ中心主義、エリート主義という批判をうけることを彼女は十分に承知している)。この点でクンデラにも通じるところがある。
 ヨーロッパの残した最善の遺産としての<多様性>の擁護。<多様性>は民主主義にもつながるものであるが、それならば、<文化>や<文学>に民主主義はあるのかという彼女の問いかけ。ぎりぎりのところでの<近代>の擁護・・・女性を解放するものは<近代>しかない。
 ここに収録されている大江健三郎との往復書簡における大江健三郎のだらしなさ! 本当に個を尊重するというのは、批判すべきことは批判するということであるのに、ただ相手にお世辞をいうのが個を尊重することであると思っているような大江の態度! あなたも<反>としてたたかっている、自分も<反>としてたたかっている、したがってわれわれは体制に埋没しないたたかう知識人として同志である、といった大江の能天気な言葉。
 それへのソンダクの苛烈な反撃。「ボスニアでのミノシェビッチの行為と、日本がアメリカに加担しようとしている事態とを、同じファシズムというような言葉でくくるというのは、あなたは言葉に鈍感なのではないのか! 戦争をおこさせまいと思うことが、アウシュビッツを作ることがあり、アウシュビッツを阻止しようとすれば戦争しかない、という事態もありうるということをあなたは考えたことがないのか? 今の日本のような先がみえない社会では普通のひとがナショナリズムに逃避するのは正常な心理という部分もあるのではないか? 後から来たものが、さきにいるものより良いという根拠は何ですか? そもそもあなたは文学を信じているのですか? あなたはものごとを単純に見ていませんか? あなたは文学でエクスタシーを感じることがありますか?」 ことごとく大江のボデーにあたっている。
 9月11日の事件は<文明>対<野蛮>のたたかいではなく、<近代>と<近代からとりのこされたもの>のあいだのたたかいである、<近代からとりのこされたもの>はただ<近代>をこわすことができるだけであり、そこにあるのは破壊だけである、しかし、アメリカのこの事件に対する対応は<多様性>を擁護することではなく、<心理療法>的に人心を操作し一致団結をつくろうとする方向である。そういうやりかたはテロリストの心理と実は同じものなのであり、近代に反するものなのだ。そう言う彼女は、あらゆるものにノン!というのだが、自分の言説の実効性ということについては何らの幻想も抱いていない。
 これを読むと本当に強い<個>がいるという気がする。誰も味方がいなくても、自分ひとりでもゆくという覚悟のある<個>。
 買ったままでそのままになっている彼女の小説、「火山に恋して」を読んでみたくなった。

(2006年3月13日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • ソンダクのこの文章はあとで内田樹氏が批判しているのを読んだ。しかしソンダクは内田氏のいっているようなインテリ仲間でのうけをねらって発言しているような人ではないと思う(それは大江氏のほうである)。ソンダクってなにかひりひりしているようなところがあって好き。ところで「火山の恋して」は途中で挫折。むこうの小説ってなんであんなに書き込まなければ気がすまないだろう?(2006年3月13日付記)

この時代に想うテロへの眼差し

この時代に想うテロへの眼差し