中谷厳「痛快!経済学」(文庫版)

  [集英社文庫 2002年1月25日文庫版初版 1999年3月原版初版]


 今さらこういう本を読んでもという気もするが・・・。1999年3月にでたマンガ版?の改定版。前著は読んでいないが、この3年の間の日本経済の動向をふまえて、増補・加筆したものらしい。
 明確な構造改革派の主張である。日本の官僚主導の戦後体制は先進国へのキャッチ・アップの過程では有効であったが、日本が先進国になってしまった現在においては、もはや桎梏でしかない。戦後体制がキャッチ・アップがスムーズに進行するためにもうけたさまざまなマーケットへの制約を廃止し、マーケット・メカニズムが十全に活力をもって働く国へ日本を変えていく以外に、日本の再生はない、というものである。
 クルーグマンの本のように、インフレ・ターゲットの導入といった具体的な提言があるわけではない(構造改革を断行すべしというのは、確かに提言ではあるが、クルーグマンによれは、それはきわめて先に実現されるかもしれない長期的な目標であって、今日の状況に対する具体的な提案ではない) したがって、「(デフレ状況から脱却しなくてはいけないが)財政赤字をこれ以上大きくすることは避けたいし、金融政策もすでにゼロ金利で、手のうちようのないところまできている。社会を効率化するためには、構造改革を断行することが不可欠だが、それがデフレを加速するようなことがあっては元の木阿弥である。「構造改革」か「景気対策」か?、ではなく、双方に目配りができる新たな政策論が求められている」などというほとんど、何もいっていないに等しい結論になっている。つまり、ここにあるのは総論であって、各論はない。

 著者は盛んに、日本のような社会主義的平等社会においては、働いても働かなくも得られるものはそんなに変らないのだから、イノベーションへのインセンティブが働かず、社会が停滞すると説く。
 しかし、戦後復興期、日本人はそのような社会主義的平等社会で死に物狂いで働いてきた。そのことは人間を労働へと向わせるものが、決してよりよい収入やよりよい生活というものだけではないことを示している。「エトス」の問題である。「ミクロ経済学」も「マクロ経済学」も「エトス」の問題にはまったくかかわれない。
 おそらくケインズの徒である小室直樹氏の本が説得的であるのは、氏が同時にウエーバーの徒でもあって、「エトス」の問題から、片時も目を離すことがないからである。ある時期、飯田経夫氏がいっていたように、経済学の論理だけをつきつめていくと、自分の欲望をどんどん追求していけばいい、あとはマーケット・メカニズムという「みえざる手」が自動的にうまくやってくれる、というだけになってしまう。しかし、いうまでもなくアダム・スミスは「道徳情操論」の著者でもあったわけである。
 戦前の、日本の資本主義は、現在のものよりもはるかの剥き出しの弱肉強食の資本主義であった。しかし、そこでの会社員にとって、職場は故郷に帰るまでの一時的な場であり、いずれ故郷で田畑を耕すというのが本来の生きかたであった。まだ会社は「共同体」にはなっていなかったのである。しかし戦後期(あるいは1940年ごろから?)、会社は共同体になってしまった。そしてそれが共同体であるがゆえに、ある時期は非常にうまく機能したし、また昨今においては腐敗の温床にもなってきているのである。
 そして構造改革の問題は、それが規制を緩和し、マーケット・メカニズムが機能するようにする動きであると同時に、1940年体制がつくりあげてきた「共同体」をも破壊しようとする動きもであるという点なのである。「共同体」は<生きがい>の預け先でもあり、、また<既得権>そのものでもあった。
 本書の冒頭に、経済学のイロハである「希少性」と「トレード・オフ」のことが説明されている。資源は有限であり、あるものを得ようとすれば別のものをあきらめなくてはいけない。多分日本の現状もそういうことであって、構造改革をしようとすれば、いまのわれわれにこころよく思われている何かを失うことと引き換えにしてでなければ、それを実現できないのである。少なくとも、戦後有効に(あるひとにとっては桎梏だったかもしれないが・・・)機能してきた会社という共同体を破壊し、それは機能集団に変えていくことが要請される。
 それでは<会社>が保証してきた「共同体」に参加しているという意識と、それが保証していた<生きがい>はどこにいくのか? そこにでてくるのが<個人の自立>と<自己責任>ということである。ひとは<自立した個人>として<自己の責任>において<自己の生きがい>を自ら探していかなかければいけない、ことになる。
 ミルトン・フリードマンの主張と、それにもとづくレーガンサッチャーの「小さな政府」路線は、単に経済の効率という観点からだけの問題ではなく、福祉国家が、国家に依存する自立しない個人をつくっている、それは間違った方向だとする見解が、その根本にあったはずである。
 経済学としてのフリードマン説は中央銀行の機能をほぼ否定するようなものであるから、現在の主流の経済学からはほぼ否定されているようにも思われるが(クルーグマンの本などを読んでいるかぎりそう思える)、それでもその主張がそれなりの力をもつのは、それがエトスにかかわる部分をもつからなのであろう。
 そして、日本人の「共同体」にかかわるエトスが江戸時代から連綿として続いているものであるのだとしたら、それを破壊できるのか?、それが破壊されたあとはどうなるのか? あとにはアノミーだけが残るのか?
 構造改革のあとの日本にでてくるのは、<自立した個人>なのか<独裁者を待望する大衆>なのか?

 本書を読んでいて一番なるほどと思ったのは、「日本でなぜ不良債権問題が早期に解決できなかったのか?」という問題の説明である。政府・金融機関の責任者・政治家は「しばらくがまんしていれば、そのうちに日本経済も回復するだろう。そうなると地価や株価も上昇するだろう。そうなれば不良債権も自然と消えるはずだ」と思っていた。しかし、不良債権が残っているうちに、地価や株価が上がりだすと、すぐに不良債権を持っている金融機関や一般企業は、手持ちの土地や株を売って不良債権を少なくしようとするから、あっという間にその売り圧力で、地価や株価は下がってしまう。したがって不良債権が処理されない限り、株価や地価は決してあがらない、のだそうである。この説明がどの程度の整合性をもつのかはわからないが、もし本当だとすれば、日本を運営しているひとたちは、大蔵省(財務省)の高官も銀行の首脳も、だれも経済がわかっていなかったのだということになる。わたくしだけではなかったわけだ。
 しかし、この説明もなんとなく後知恵ではないかという気もする。今の日本を運営している世代の誰も、それまで自分が生きてきた時間の中で、土地が値下がりするという経験はしていなかったわけである。だからちょっとあがり過ぎだなと思っていたとしても、そのあがり過ぎの分が少し下がることはあっても、まさか現在のような状態にまで下がることは誰も予想していなかったのではないか?
 つまり、現在の日本の状態は「経済学」にまた一つ追加された新たな難問であるのかも知れないのであり、それに対する本当の解はまだ誰ももっていないのかしれないのである。クルーグマンのいっているのも、おそらくはそれに対する一つの仮説的な提案である。ある仮説のもとに行動してみて、そこで得られた結果によって、はじめて、その仮説が正しかったかどうかがわかる。その結果は仮説を裏付けるかもしれないし、その誤りを指摘するかもしれない。しかし、仮説をもって行動することによって、今までわからなかった何かが、とにかく明らかになってくるし、そこからまた次の行動へのヒントもでてくる。
 そして仮説をもって行動することは責任をともなうが、なにもしないことによって、ある結果になったとすれば、それは運命であることになり、責任は生じない。
 ここでもまた、丸山真男的な「どうするのか?」と「どうなるのか?」の対立が生じているのである。


(2006年3月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • この当時、村上龍などの影響もあって、構造改革派の経済論を読んでいた。今から思うと、日本的ムラ社会への嫌悪と、構造改革派の人間観の浅薄さへの嫌悪の双方が交じりあっているようである。(2006年3月19日付記)

痛快!経済学 (集英社文庫)

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