村上龍「だまされないために、わたしは経済を学んだ」 

  [NHK出版 2002年1月30日初版]


 村上龍が、金融問題などを論じていることには、あちこちから「あいつは何をやっているんだ?」というような評があるようである。福田和也も「作家の値うち」で<証券アナリスト>みたいと揶揄している。
 その村上が主宰している経済?メール・マガジン「JMM」に収載された短いエッセイの1999年と2000年の分をおさめたものである。
 ここでの村上の姿勢は一貫していて、それは、自分にはこういうことがわからない、という疑問の表明である。もちろん、「集団としてのシステム」を「個人として生きること」に優先させる「日本的システム」への嫌悪感をバネにしてきた村上であるから、基本的スタンスははっきりしているが、あえて文化的な回答(例:不良債権処理が遅々として進まないのは、日本的システムと日本人の歴史的特性による)を避け、経済という事実の問題への知識によって理解できる部分はないだろうかという姿勢を貫いている。
 その基礎には、金融・経済システムが変ると日本人の意識も変るのではないか、逆に日本人の意識が変ると、日本の金融・経済システムも変るのではないか、という問題意識があるのであるが、そのシステムを変えることのできないもの、日本人にとって運命的なものとは見ないという姿勢ははっきりしている。スキルと知識によって何らかの変化をおこすことができるのではないかという、楽天的でもある見方である。村上は日本がどうなるか?ではなく、日本をどうしたらいいか?という発想をするひとなのである。だから、村上個人も、これが自分のためだけに、自分がだまされないためにやっているものなのか、それとも一種の政治運動あるいは民衆啓蒙運動をしているのかが、よくわからなくなっているのかもしれない。どこかで、村上が、そういうことをしているのなら、なぜ政治家にならないのかと質問されて、少しうろたえて、小説を書くほうが有効だと思うというような返答をしていた場面もあった。
 本書には、日本の<世間>(つまり義理人情の世界)の(大部分のひとにとっての?)快さと、(義理人情の世界を欠く)アメリカ人の寂しさとそれによるフロンティア探求という指摘がある。日本が、「競争社会」のスタートラインにさえつけないひとと、明確な意識をもって「競争社会」に参加していくひと、あるいは危機感をもつひととそうでないひとに二極分解していくのではないか、という指摘もある。(日本にくらべれば、ずっと貧しい)キューバのひとたちが個人的にもっている快楽と、そういうものをもてない日本人という指摘もある。無謀なことをできる男と、それができない女という指摘もある(村上のマッチョイズム?)。自分が今のようであるのは、<きっかけ>を掴めなかったからだという自己弁護がある社会では、リスクをとる人間はなかなかでてこないという指摘もあり、<世間>全体から受ける罰という暗黙の制裁がある場所では、リスクがとれないという指摘もある。
 村上とすれば、もし日本が二極分解していくとしたら、危機感をもつ層に入り、自分でリスクをとって生き残る道を選ぶ、ということなのであろう。
 本書の指摘で重要と思われるのは、日本は昔よりもはるかにいい時代になっているのに、なぜそれを指摘するひとがいないのだろうという疑問である。高度成長がなんでも駄目というのではなく、その時期に得られたものもきわめて大きいのだ、という当たり前のことをいう人がほとんどいないという不思議。つまり、経済活動がすべてではないが、経済活動を通じてしか得られないものもまたあるのだということである。しかし、それはまた「悲しい豊かさ」でもあって、アメリカ人の寂しさにも通じるものである。ヨーロッパの豊かさあるいはキューバの貧しい?豊かさとも、それは決定的に対立する。
 村上によれば、あるギャップが存在することがある芸術分野が生まれるためには必要であり、そのギャップが埋まるか、あるいは消失すると、その芸術も消滅してしまうのだという(たとえば、近代日本文学は、国家と個人の間のギャップから生じたが、近代化が終了することにより、そのギャップがなくなり、それによって、近代日本文学の役割は終わった)。この見方は、クラシック音楽の運命ということについても示唆的である。表現したい何かと表現できることの間にギャップがある間はその芸術は生命をもつが、表現手段が表現したいことを追い抜いてしまったとき、それは終焉する。現代音楽はきわめて多くの表現手段をもつが、それは何を表現するためのものでもなくなってきている。
 それから、あるシステムは決して普遍的・永続的なものではなく、かりにそれが駄目になっているように見えるとしたら、それは実態のほうが変化してきているのだという指摘、すなわち、日本の<共同体>システムも、単にシステムとして駄目になってきたというのではなく、日本の社会が変ってきたのだと見るべきであるという見解、それはただ同じことをどちらから見るかという違いに過ぎないかもしれないが、後者のほうがあるかに柔軟な対応を可能にすることは間違いないように思われる。


(2006年3月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • 村上龍は「愛と幻想のファシズム」を書いたあたりかた一生懸命に経済学を勉強はじめたらしい。村上龍が書く経済論?に関心があるのは、素人が経済を勉強する場合の可能性と限界のモデルを氏が提示しているからかもしれない。(2006年3月19日付記)