榊原英資「新しい国家をつくるために」
[中央公論社 2001年12月25日 初版]
榊原氏は、自分の意見を状況によって変えるのではないかと思えるところがあるので、ちょっと信用できないところがあるが、かって自分はこう主張していたということをはっきり書くという点ではフェアなひとかもしれない。
9・11の事件により、アメリカの一極支配は終り、世界は「経済」の時代からふたたび「政治」の時代へとかわったという。
したがってアメリカのみを視野にいれていたいままでの日本のやりかたを根本的にあらためる時がきている。
その場合の最大の問題が日本の政策決定プロセスにおいて、政府と与党の二元的な政策立案という先進民主主義国家としては異常な形態(閣僚となっていない議員は法律的に議員立法のかたち以外では立法にはかかわれない。これは1960年ごろに完成したシステムなのだが、自民党の政務調査会、部会といったものが立法に深くかかわっているのは、法律的には一切根拠をもたない)をとっていることである。それの是正がない限りは日本の根本的な変革はなしえない。政党はプライベートなものであり、政府はパブリックなものである。日本ではその峻別がまだなされていない。
市場主義(差別につながる)と民主主義(平等を希求する)は本来矛盾する。それをなんとか取り繕ってきたのが、社会民主主義的福祉政策であった。しかし、それが危機に瀕している。
市場主義と民主主義がわれわれに残された二つの価値であるが、それはかってマルクス主義がもっていたユートピアへの期待はみたすことができない。
日本は、鎌倉時代に「宗教改革」を、室町時代に「ルネサンス」を体験し、江戸時代に農業を通して「勤勉革命」を達成していた。
江戸時代の日本人は、「庭園国家」で幸せに暮らしていた。それは高度成長によって最終的に滅びた。
高度成長のような急速な社会変化は通常大きな社会不安を引き起こすものである。それがなしですんだのは、「土建国家」によって、地方の雇用と経済が都会から大きな遅れをとらないですんだからである。しかし、そのシステムが腐食しつつある。
榊原氏が主張するのは、日本的なシステムをある程度残したグローバル化という綱渡りのような行きかたである。ヨーロッパはグローバル化の波に全面的には参加せず、半身の構えで参加している。日本もそのような形で、半身の構えでグローバル化に向っていくべきであるというのだが・・・。
確かに日本では、グローバル化への全面参加か拒否かである。その中間という行きかたははなはだ難しい道である。それを言論の力で成し遂げることが果たして可能なのであろうか?
(2006年3月21日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyazaより移植)
- 作者: 榊原英資
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2002/01
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