東谷暁 「誰が日本経済を救えるのか!」

 [日本実業出版社 2002年2月10日初版]


 えらく大袈裟なタイトルの本であるが、内容はさまざまなひとの説く日本経済再生論を比較検討したまっとうなものである。別に誰の説が日本経済を救えるといっているわけでもない。みなに考えるための視座を提供するという低い姿勢で貫かれている。そこから先考えるのは皆さんの仕事ですよ、というわけである。

スタートは1989年から1990年にかけて行われた日米構造協議。これはこの頃の米国の経常赤字を減らすために、日本にもっと米国製品を買わせようとしたものである。「構造改革」の議論はここからはじまる。
 日本はすでに1987年の前川レポート内需拡大を公約していた。それが一向に実現しないために日米構造協議がもたれた。
 それならば、
1)当時のアメリカの経済が悪く、日本がよかったのは構造によるのか?
2)その後アメリカの経済がよく、日本が失われた10年になったのは構造によるのか?
3)そもそも、経済のよしあしは何でみるのか?

 バブルはいつでもどこでもおきるものであり、バブルが崩壊するといつでもどこでも不良債権は生じる。したがって、不良債権の処理は、バブルの処理の一貫としてどこの国でもおこなわれる。不良債権処理は「構造改革」とは関係ない。
 1992年にすでに不良債権処理の必要性は指摘されていた。しかし、銀行の失敗を国が肩代わりするのはおかしいという議論がおきた。
 1996年のわずか(?)6850億円の住専問題での不良債権公的資金導入による処理が世論の猛然たる批判をあびたため、公的資金の導入はしばらくタブーになってしまった。
 問題:国が経済危機に陥ったとき、政府は何をすべきか? それはどの程度?
 「小さな政府」は経済が順調に推移し、国際情勢が安定しているときにのみなりたつのではないかという考えが大勢になりつつある。

 先進14ケ国の政府予算/GDPは
 1870   8.3%
 1913   9.1%
 1920  15.4%
 1937  18.3%
 1960  28.5%
 1980  43.3%
 1990  46.1%
 1996  47.1%
 であり、1990年代に「小さな政府」が実現されているという一般的理解は正しいとはいえない。
 
 1997年11月 橋本首相は「財政構造改革法」を通過させた。
 その同じ月に山一証券北海道拓殖銀行が破綻し、金融の「システミック・リスク」が生じた。
 1998年、橋本政権は崩壊し、小渕政権は「財政構造改革路線」を間違いと断じて、財政出動をもっぱらおこなった。
 2000年になり、財政出動の効果に陰りがみえてくると、ふたたび、財政構造改革が評価されるようになった。
 小渕・森政権のころ、盛んに「IT革命」ということがいわれた。これは1999年にアメリカ商務省から発表された「イマージング・デジタル・エコノミーⅡ」の影響が大きい。しかし、ここでの「ITをたくさん使用している産業の生産性は一向に向上していない」という指摘は無視された。
 2000年になり、「IT革命」のめっきがはげると、「インフレ・ターゲット論」がでてきた。
 ここでは中央銀行がどの程度通貨の供給量をふくむ金融政策を有効に実行できるかという問題がでてきている。

「財政構造改革
 これは「レーガノミックス」と深くかかわる。
 「レーガノミックス」が「小さな政府」によって財政赤字を解消したというのはまったくの「神話」である。レーガン政権はサプライサイド派とマネタリストという経済に対するスタンスのまったくことなる二つの経済学派を採用した。
 レーガンは「サプライサイド派」のなかでも減税を主張するラッファーの意見を採用したが、失敗し、政権の後期には増税にふみきっており、さらにそのあとのブッシュ(父)政権でも、クリントン政権でも増税策がつづき、その結果として財政赤字が解消してきているのである。
 レーガン時代のFRB議長のボルカーは、任期後半、通過供給量をハイ・ペースで増やしたが、これはマネタリストの政策に反するものであり、またマネタリストの予想に反してインフレをまねくこともなかった。
 レーガン政権は軍事費を増やして減税した。さらに通貨供給量も増やした。これは実は「ケインズ政策」そのものである。「理念としてのレーガノミックス」と「現実のレーガノミックス」は全然ちがうものである。
 橋本政権での「財税構造改革」は、少なくとも、まったく柔軟性を欠いたものであった。致命的であったのは景気減速時の停止条項がなかったことである。
 それならば、1997年からの経済危機は橋本政権での「財政構造改革」実施によるものなのだろうか?
 それが関係していることは確かである。問題はそれがどの程度なのかという点である。

 マスコミの論調の傾向は、
 92年−96年中ごろまで、財政出動
 96年中ごろ−97年中ごろまで、財政再建
 97年後半から 景気対策

 実は、財政赤字が問題かどうかは経済学者の間でも考えが一定していない。
 国債は右手が左手にお金を貸すようなものといわれる。それは国債がほとんど国内で購入されているからである(国外は6%くらい)。つまり、国の内部の金の動きに過ぎないということである。銀行が一般のひとからお金を集め、それを企業に貸すように、国が民間からお金を集め、それでなにかの事業をしているのだからというものである。
 ただ、通常は民間が事業をおこなったほうが効率がいい。だから、不況の場合のみ、国債の大量発行は正当化される、という議論がある。
 しかし、国債は後の世代から税金をとって償却される。後の世代にとっては、先の世代が自分たちのお金を使って、自分たちの意見をきかずに、自分の好みで事業をおこなっているという問題がある。

 国債を大量に発行すると、長期金利が上がる。
 「債権とは、将来にわたり一定の額の支払いを約束する証書である。毎年a円の支払いを約束する債権があったとする。今年のa円、来年のa円、再来年のa円の価値が同じでないことが問題である。ここで利子率が問題になる。もし利子率がiであると仮定すれば、1年後のa円の価値は、(1+i)a円となる。とすれば、現在の1年後のa円の価値は、[1/(1+i)]a円となる。以下2年後、3年後・・・について無限等比級数ができる。それを解けば、無限の将来までにもらえる債権からの利益は、数学の計算で、1/i であることが示せる。これは無限に支払いを続けるという特殊な債権であるが、有限の期間までの支払いであっても、利子率と債権の価格が反比例することはわかる。つまり、国債を大量発行すると国債の価値(価格)が下がり、長期金利は上がる。(吉川洋マクロ経済学」第2版)」
 この仕組みによって、国債の大量発行は、金利の上昇を生み、民間が資金を調達しにくくすることによって、民間の投資機会を奪う。
 投資家は、国債を有限期間保有する。国債が安くなれば、その売買による収益率はあがり、長期金利はあがってしまう。
 毎年支払われる利子による収入を、インカム・ゲインという。資産価値の上昇による収入をキャピタル・ゲインという。
 長期債権は満期まで保有すれば、安全資産である。それを短期間で売買すると利子率の変動によりキャピタル・ゲイン(ロス)が生じる。短期債権は安全資産ではない。
 
 しかし、いままでのところ、国債発行額の上昇によっても長期金利は上昇していない。それは需要以上の通貨が市場に供給されていたためであり、今後景気が回復してくると、長期金利は上昇するという見方がある。

 通常、国債負債残高とGDPの比が問題にされるが、日本とアメリカはヨーロッパとことなり、社会保障費を税ではなく、保険料として別に徴収している、この保険料を国の資産と考えれば、日本の国債負債残高は他国とくらべても問題にならないレベルであるという議論がある。しかし、社会保障費はいずれ国民の戻されなければいけないものなのだから、この考えは間違いを導くものである。

 「非ケインズ効果」
 最近、ヨーロッパ諸国では、国の財政赤字が増えると個人消費が落ち込み、財政赤字が削減されると景気が上向くという、ケインズの予想とは反する「非ケインズ効果」が観察されている。
 これが成立する条件としては、
 1)政府予算の歳出削減の規模が大きく、増税の規模が小さい。
 2)歳出削減が、総花的ではなく、社会保障補助金、公務員給与や定員が削除を中心におこなわれることであるといわれている。
 こういうことが行われていると、もともと国民はこんな財政赤字はいずれ破綻するにちがいないと不安に思っていたので、来るべきものがきた、もう財政出動で救ってもらうことはできないのだという「強い姿勢」が生まれる、これが効果を生むのだとされている。
 しかし、今までのところ、この効果がでているのは、経済規模の小さいスエーデン、デンマークアイルランドなどにおいてである。大国についての経験はない。これらの国においては福祉政策が充実しており、普段の生活の相当部分が国によってまかなわれていた。その場合財政出動が減れば、個人はそれらを自分で用意しなければいけなくなるから、政策が個人消費の増加に直結する。

 いずれにしても、財政赤字があまりに巨大になると、国債の発行自体がしにくくなる。
 2001年の累積負債は666兆円となり対GDP比120%でイタリアを越えた。

 「財政出動のやりかた」
 大雑把に、減税と公共投資がある。どちらがいいのか。減税が景気に有効であるのは、減税分が消費されるときだけ。
 これについては「合理的期待形成」理論というのがある。いまや人々は政府の意図を見抜いているので、減税しても、いずれまた増税さ、と思うので効果がないというもの。
 今までケインズ経済学は、消費をきめるのは現在における所得水準であると考えた。しかし、将来にわたった所得の予想が現在の消費を決めるという見方がでてきた(フリ−ドマンらの議論)。これが事実なら、将来が悲観的であれば減税には全然効果がないことになる。
 それなら公共投資のほうが実際にお金が動くだけましという見方がでてくる。
 もう一方では、将来の悲観的見方を除去することが大事だから、社会保障や福祉についての明るい未来イメージをつくる方向の政策が大事という議論もでてくる。

 「公共投資は有効か?」
 ケインズが強調した「乗数効果」はかっては10倍になるなどといわれたこともあるが、現在では1.2倍程度といわれており、ほとんどないという人もいる。(乗数効果が失われた状態が不況なのであるというひともいる)
 ケインズは基本的に不況を均衡からの一時的な逸脱と考えたが、それは基本的に新古典派の経済学では、ひとはモノの向うと仮定されているので、需要不足はありえないとされているからである。この考えでいえば、不況に対する対策は「構造改革」しかないことになる。
 しかし、ひとがモノばかりでなくカネにもむかうとしたら? 
 不況とは、ひとがモノよりもカネにむかうようになった状態をいうとするひともいる。
 景気の回復のためには、ふたたび人の気持ちがモノにむかうようにならなければいけない。そうなるために必要なのは、魅力的な製品の開発などであり、財政や金融の政策ではないという意見がそこからでてくる。
 だから何十年かして今のバブル崩壊の痛手を知っているひとがいなくなれば、自然に景気はよくなるのかもしれない。バブルの周期があるのはそのためかもしれない。
 事実として日本は90年代に減税を続けてきたが、景気は一向に回復せず、個人の資産は増加している。そろそろ歳入の増加すなわち増税が必要な時期にきているのかもしれない。
 財政赤字の対策として増税をおこない、一方でそれを財源として公共投資をおこなうというような綱渡りのような政策しか今はないのかもしれない。

 「金融政策の有効性?」
 クルーグマンの「お札を刷れ、インフレ・ターゲットを設定せよ」の議論がある。
 この議論の前提は、日本人が将来のほうが収入が減り、経済が厳しくなると考えているということがある(なぜなら、これから日本では人口が減っていくから)。
 その状態で日銀総裁がこれから日本はインフレになるぞと宣言したら、本当に消費が増えるだろうか?
 マネタリズムの前提には、経済成長のトレンドと通貨供給量は比例するという過去のデータがある。しかしケインズ学派は、通貨供給量の増加は結果であって原因ではないという。またこの両者の関係は皮肉なことに、マネタリストが有力になってから、かえって崩れてきている。
 問題は中央銀行がつねに金融市場の需要を意図的に作り出せるかということである。つまり、金融のおける「セイの法則」がなりたつか、供給が需要を作り出すか、ということである。これは17世紀以来議論のある経済学上の未解決の問題である。大きな服をきせたら、それにあわせて子供はすぐに成長するだろうか?

 「IT革命?」
 問題はITの普及によって生産性が向上したかである。
 コンピュータの普及は生産性の向上にはまったく結びついていないとするものが多い。
 コンピュータの普及により生産と資源配分を完璧に決定できるようになるという議論があるが、もしそれが本当であれば、社会主義の計画経済がうまくいくはずなのである。それがうまく機能しないからこそ(人間は神様ではないからこそ)、市場経済が次善の策として生まれてきた。
 グリーンスパンは、一時期アメリカの経済成長をバブルではなく実態をしめすものと考えていた。確かに統計からすれば実態以上でバブルであった。しかし、統計がおかしいのではないかと彼は考えた。アメリカの物価統計が物価上昇を高くみつもりすぎているのではないかと考え、95年以降の数字を修正した。その結果急に生産性が向上したような数字になったのである。
 生産性が向上したのは、IT関連産業だけであり、そのITの普及は他の産業の生産性をまったく向上させなかったのである(低下させたという議論さえある)。
 2000年4月、インターネット関連株の暴落。
 2000年秋、情報機器チップ製造企業の株の暴落。
 2001年1月、通信産業の不良債権露呈。テレコム・メルトダウン
アメリカ中にはりめぐらされた光ファイバーは現在の需要の5−20倍といわれている。これへの投資は当然、現在では不良債権となっている)

 「構造改革?」
 小泉首相:(ことに財政面において)自らを律する社会を作ること。
 麻生政調会長:高コスト体質の是正。
 竹中経済財政担当相:自立自助でがんばれる社会にすること。
 平沼経済産業相:新規産業をおこすこと。

 かって「構造改革」とは議会主義と福祉政策のよる民主社会主義のことであった(江田氏)。

 現在の「構造」の用法は、田中角栄氏が「構造汚職」と批判された、政治家・企業・官僚が共通の利害を追及する仕組みに近いかもしれない。
 構造不況業とは、建築業や造船業などの生産性が低く、また開発途上国に太刀打ちできない業種をいう。
 かって「日本式経営」は株主よりも社員のための経営をおこなう人本主義(資本主義ではなく)と主張され賞賛されたこともあった。
 1940年体制による日本の行きかたは、「資本主義をこえる日本」を作ったと賞賛されたこともあり(かっての榊原英資氏)、現在の閉塞を生み出しているとするひともある(野口悠紀雄氏)。
 極端な「構造改革論」は日本の社会風土全体を変えるような議論となる(中谷厳氏)。
 現在の公共投資(土建国家的)への批判者は、福祉といった方面への政府支出を主張するが、日本の政府支出が急激に増加しているという現実をみる必要がある。(91年の38%から、2001年には46%になろうとしている。(スエーデンが50%強で、重福祉国家スエーデン近づきつつある。アメリカは30%程度。つまり日本では、公共投資以外の政府支出も増加しつつある)

「生産性の高い経済を作るには?」
 不景気には一時的な景気循環による停滞と、生産性自体の低下の両方がある。
 本当の経済の発展をきめるものは、生産性だけである。
 しかし、生産性を決定する要素にはきわめて多くのものがあり、それをどのように組み合わせればいいのか明快な答えは誰ももっていない。
 一企業についてなら、生産性を向上させる方法は具体的に提示できる。社員ひとりひとりの生産性をあげる。収益の高い分野に特化していく。間接部門を減らせるならば減らす。高い収益部門にさらに投資をしていくなどである。
 サプライサイド派は基本的に勤勉な働き者の経済学なのであり、働いたものが報われるほうにしようという理念がある。経済を活性化させるものは人間の意欲や競争であるとする。これはシュンペーターの「イノベーション」にも繋がるし、ケインズ自身も経済を活性化させるものは、アニマル・スピリット(血気)だといっている。
 しかし、個々の企業にいいことが社会全体としていいとはいえないというのが、ケインズの出発点であった(合成の誤謬)。
 サプライサイド派の政策は仮に有効であるとしても、長期的にであり、目先の需要不足への解決策とはならない。
 本当は経済が好調な時に、サプライサイド派的なことをしておくべきであったのである。しかし、政治というのはそういうことをさせないものである。
 現在、生産性をあげるために生産性の高い分野へのシフトとしてソフトウエアなどのサービス部門へのシフトが主張されている。しかし、ソフトなどの分野でも生産性が高いのはごく一部だけである。基本ソフトをおさえているとか、特別な技術をもつ場合に限られる。
 サプライサイド派の主張が本当に正しいといえるのは、「構造改革」によって生産性が高い産業が将来、創造される場合だけである。
 日本のサービス産業の生産性は低いとされており、それへの移行が日本の活性化につながるとはいえない。

不良債権はなぜ処理できない?」
 80年代から金融の自由化が進行し、銀行は「なりふりかまわない」経営を強いられるようになっていた。そのため土地への傾斜を強めていった。それを支えるものは土地は上がり続けるという神話だけであった。
 株の場合には、1)インフレなしの経済成長、2)時代の先端をゆく技術革新、3)優れた企業システム、という意識が永遠に続く繁栄という錯覚を生んだ。これは2000年のアメリカと同様である。
 金曜緩和は資産インフレの必要条件ではあっても十分条件ではない。
 1992年の「総合経済対策」でも、不良債権処理が検討されており、公的資金導入さえ検討されている。しかし、結局うちだされたのは、「共同債権買取機構」であった。これで10兆円程度の不良債権が扱われ、3兆円程度が処理された計算になる。しかし、それはまったく不十分な金額であった。もっとも、それでも住専処理で問題になった6850億円よりもずっと多いが。
 この問題については、小林慶一郎氏らの「日本経済の罠」が説得的である、と東谷氏はいう。。
 問題は、日本に底力がなくなってきているのかという点である。小林氏は不良債権の処理がなされれば、日本は底力はあり回復できると考えているのに対し、底力がなくなったと考える人たちは、「構造改革」をしなくてはいけないと主張するわけである。
 東谷氏は、小林氏の企業組織や産業組織の信頼の回復の主張に与しているようである。それにより事業に積極的にとりくめるようになることがすべての出発点であるという。

 本書を読んでかなり問題点が整理できた。要するに魔法の弾丸はないわけである。
 よく、病院に「先生、注射一本打って早く治してくれ」というようなひとがくる。どうもわれわれは経済について、注射一本的な特効薬があると思っているのかもしれない。
 当たり前のことであるが、明日のことについては本当は誰にもわからないわけである。人間の一生というのは一回限りである。同様に人間の歴史も一回限りである。過去の経験から何ほどかのことを推理して、ある種の予断をもってことのあたっていくのは人間の生き方の基本であるが、その予断が正しかったかどうかは、行動してみてはじめてわかるわけである。経済学というのは、過去の経験から未来に対しある種の予断をもつための方法ではあるが、その予断が物理学的な正確さをもつことは決してない。
 さて、今の医療においていかんともしがたい問題として、老化の問題がある。本書を読んでいて、もう日本がすでに老いの季節に入っているのに、老化を俺はとめてみせるという類の議論が相当であるのではないかという印象をもった。もちろん、そういう生物学的推測は過大にしてはいけないのであろうが、本当に若返るためには、現在をまったくしらないひとが現役になるまでまたなくてはいけないのかもしれない。そして、またバブルが繰り返すのかもしれない。

(2006年3月25日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • 最近、なんだか日本の景気も少しよくなってきているらしい。それがいったい何故であるのかということがあまり議論されているようにはみえない。不況にときには、その改善策と称するものが次ぎから次へと提示される。本当は景気が回復した時点で、それが何故なのかということを検証しなければいけないはずなのであるが・・・。一番、わからないのがこの間の動向に日銀がどうかかわったかである。単に速水氏の経済観が間違っていて、まっとうな福井氏にかわったことで回復したのだというようなことであろうか? 速水氏の一番の問題は、どうも氏は最先端の経済学の動向にはうといにもかかわらず、日本かくあるべしという道徳観についてはえらく確固たるものをもっていたらしい点にある。そしてその道徳観というのは、いわゆる構造改革派にどこか通じる信念でもあるように見える点である。(2006年3月25日付記)