小室直樹「日本資本主義崩壊の論理 山本七平”日本学”の預言」

  光文社カッパ・ビジネス 1992年4月25日 初版


 今から10年前に書かれた本。
 日本社会科学の三大不思議。1)「日本資本主義の精神」研究の不在 2)マルクシズム研究の不在 3)崎門の学からの天皇研究の不在
 1)をおこなったのが唯一、山本七平「日本資本主義の精神」であるが、社会科学の専門研究者でまともにそれをとりあげ、論じたものがいない。
 (近代)資本主義の精神は、資本主義社会においてのみ必要とされるわけではなく、社会主義体制においてもまた必要とされるのである。社会主義圏が崩壊したのは、(近代)資本主義精神を欠いてたためであった。
 ここでは資本主義とは産業資本主義のことである。たんなる金儲け主義である「前近代的「資本主義」」のことではない。
 資本主義精神の不在によってソ連は倒れた。その爛熟によっておきているのが「アメリカ病」(投資こそ資本主義の精髄であるのに、巨大な利益を投資にまわさず、トップが山分けしてしまういきかた)「イギリス病」である。
 資本主義の精神とは<勤勉の精神であり、労働を神聖なる宗教的行動とする精神>である。
 ギリシャに時代においては哲学が人間の最高の行動であった。かってベドウィン族においては労働は卑怯者のすることであり、勇者は略奪・暴行をおこなうべきとされた。
 労働は人間の自然状態ではなく、抛っておいて自然にそうなることはない。
 前近代的資本主義とことなり、近代資本主義では「金儲け」が肯定された。
 資本主義は「経営」を特徴とする。目的設定・計画・実行のワンセットである。ソ連は計画を合目的的に作成できなかったことで崩壊した。「時は金なり」というのは資本主義の精神を象徴する言葉である。旧ソ連においてはそういう発想はまったくなかった。
 近代資本主義においては、経営者は金儲け自体ではなく、経営それ自体を目的とする。

 関が原の合戦のころの禅僧鈴木正三は<農業即仏行なり>とした。
 仏教においては煩悩にとらわれた人間は<火宅>にあるが、それに少しも気づいていない、とする。これは神の国がすぐそこまできているのにそれに気づかないひとびとをみたパウロの見方にとても近い。
 カソリック教会内にあった世俗外の禁欲が世俗内に持ち込まれたとき、ヨーロッパでは、大きな革命がおきた。それまでは、修道院内で救済を保障するものは労働であったが、それは世俗外には適応されていなかった。仏教ではカソリックと異なる、僧伽内においても労働は禁止され、生活はもっぱら喜捨にたよった。したがって、すべての人間が釈迦の教えにしたがって僧になってしまえば、経済は崩壊する。これは仏教の致命的欠点であるかもしれない。釈迦は富裕階級の出身であり、仏教は富裕なひとびとのための宗教であったのかもしれない。
 鈴木正三の説はその仏教の根本的欠陥に対する挑戦なのであった。それは禅から来たものかもしれない。一心に何事かをすること自体が修行であるという考えが禅宗にはある。
 正三は利潤追求は否定したが、結果として生じた利潤は肯定した。これはカルヴィニズムとまったく同じ構造である。結果としての利潤は神の恩寵である。その恩寵は消費されず、投資されてゆく。ここに資本主義が拡大再生産をはじめる。
 しかし、一度(近代)資本主義が成立してしまうと、そこに適合するひとしか生きられなくなるから、ものとエトスがなくても資本主義は自動回転をはじめる。
 日本では、労働の絶対視がおきてしまう。また機能集団が共同体になってしまうため、会社がすべてになってしまう。かっての日本陸軍、今は会社。今の会社は昔の陸軍の内務班である。その結果、資本主義を監視するものが誰もいなくなってしまう。昔の陸軍が崩壊したように、日本の会社もまた崩壊へと暴走せざるをえない。

 本書は以下の前提で書かれている。
 1)ウエーバーが「プロテスタンティズの倫理と資本主義の精神」でいった近代資本主義のバックグラウンドとしてのプロテスタンティズムがもたらした資本主義の精神という仮説はただしい。
 2)山本七平が発見(あるいは指摘)した鈴木正三の説は山本もいうようにウエーバー説ときわめてよく符号する。
 3)したがって日本資本主義を用意してものは、ある種の変形された禅の思想である。

 ここではウエーバー説が所与の前提として仮定されている。それに対する批判の紹介といったことは行われていない。小室氏は欧米の学問をもっともよく勤勉に勉強・摂取しているひとであり、また欧米の学問のなかでも一流のものとそうでないものを峻別する能力においてもきわめて優秀なひとである。しかし氏は一度自分がこれは本物であるとしたひとに対しては無批判になる傾向があるのではないかという気がする。
 ウエーバー説がきわめて魅力的なものであることは間違いはないが、それは仮説であり、またどこかエスノセントリズムの匂いがしないでもない。
 山本氏の説がきわめて魅力的なものであり、それにもかかわらず学会でほとんど議論さえされないということははなはだ憂慮すべきであるとしても、山本氏の説がウエーバー説に合致するということをいっただけでは山本説を正しいとすることにはならないと思う。その前段にはウエーバー説の証明ということが必要なはずである。そしてハード・サイエンスではない社会科学においてはそのような証明は不可能であるから、ここでの小室氏の主張も仮説にとどまることになる。
 そういう点はあるが、何となく論理が追いにくくて明晰でないところのある山本学の紹介としては、きわめてよくできたものであると思う。
 
2006年7月29日 HPより移植