小谷野敦 「すばらしき愚民社会」

   [新潮社 2004年8月15日初版]


 雑誌「考える人」に連載していた「大衆社会を裏返す」に加筆し、改題したもの。
 とんでもないタイトルであるけれども小谷野さんというのはいい人なのだろうなあと思う。政治ができそうもないひとである。自分は若いころは(といってもまだこの人40歳を少し過ぎただけ)こういう考えでいたけれども今が考えを変えたということをはっきりと書く。それも偉い。たいていの人間は若いときからの自分の考えの変遷を一貫して有機的な連続であるようにいう。若いときたくさん馬鹿なことを考えた、というのは誰でも経験する当たり前のことであると思うけれども。

 本書で小谷野氏が論じていることは、最近のわたくしの関心と重なるところが多いので、少し丁寧に読んでみたい。<  >内は小谷野氏の論。地はわたくしの感想。

 <インテリゲンチャはいつの時代でも数千人から数万人である。>
 石川淳だったか、日本中で自分の読者は千人もいないというようなことをいっていた。

 <一昔前、大衆作家とされていた司馬遼太郎も、今ではそれを読むのは知的な人間である。>
 司馬遼太郎が知的とされるようになったのは、後年、日本をめぐるエッセイを書くようになってからではないだろうか? 小説だけを書いていたら、現在のようなあつかいはうけていなかったのではないだろうか?

 <大学生がバカになったのではない。バカも大学にくるようになったのである。>
 インテリゲンチャが日本全体で数万しかいないなら、大学生の中にインテリがわずかしかいなくても当然である。まあ、インテリが利巧と限らないことはいうまでもないが・・・。

 <河合隼雄は「母性社会日本の病理」で、能力でひとを評価するのは父性的な西欧であるのに対して、能力にかかわらず平等に扱うのが母性的な日本であるとした。しかし、平等主義あるいは母性は日本古来からの考えだというのは間違いではないか。>
 これは本書の論点のひとつである精神分析的考えは歴史を考えない思考法であるという批判に通じる。ニーチェフロイトがそういう非歴史的見方をもたらしたという。日本人はいつの時代でも同じというのは変で、明治の日本人も江戸時代の日本人も現在の日本人とは違うはずで、平等主義などというのは戦後の考えに過ぎないという。確かにそうではあるとは思うが、同時に西洋と東洋は違うのも事実であろう。もちろん、現在の西洋とギリシャ・ローマとはまったく違う。要するに一神教というのがきわめて特殊な考えであるにもかかわらず、一神教文化が世界を席捲したということの問題である。
 「坊ちゃん」は明治の作であるが、清という母性の典型を描いている。遠藤周作の「沈黙」の神も許す神であり、母性的な神である。
 また渡辺昇一の「日本史から見た日本人」は歴史をふまえた日本人論である。それで覚えているのが、西欧ではひとは神の前に平等だが、日本では和歌の前で平等であるというような指摘である。勅撰集に、身分が低くてもいい歌を詠みさえすればおさめられる。この和歌の前で平等ということは連綿として続いているのだろうか?
 また歴史の法則性を信じたヘーゲルとその亜流を批判したポパーは正しいと小谷野はいう。しかし結果としてポパーの主張はポストモダンの「やけくそ」哲学を生んだという。
 これは決定的に重要な指摘である。近代は確かに大きな問題をかかえて時代だったのであり、それゆえ、ポストモダンの近代批判は意味をもつのであるが、ポパーのような真性の近代擁護者であっても、科学技術を素朴に信じこむような批判精神をもたない近代信者を批判しているという点で、近代批判の側にくみいれられてしまうという点である。
 ここでも大衆とインテリの対立がでてくる。大衆はポパーがいうような真理への探求などという意味で科学を信じるのではなく、科学がもたらす技術の果実を信じているだけである。科学技術が進歩し続けるがゆえに歴史は進歩していくと無邪気に信じているものがいたら、<インテリ>がそれを肯定するということはまずないであろう。

 <東大入学者の親の職業の7割が医師弁護士大会社管理職などによって占められている。貧乏人は東大に入れないなどといわれる。しかし、これは金の問題なのか? 遺伝はないか? 親が金持ちだと教育に投資をすれば子供は自動的に有利な進学ができるとするのは、教育万能論ではないか? 親が知的に優秀だと子供にも優秀なものがでる確率が高いというだけではないのか? 誰でも大学にいける世の中であれば、親の知的能力を受け継いでいる子供のほうが有利なのは当然で、そうなれば豊かな社会ほど階層移動がおこりにくくなるのは当然である。遺伝というものがある限りヒトは生まれた時から平等ではない。>
 これは社会生物学、進化生物学にかかわってくる問題である。少なくとも親が大金持ちだと子供は誰でも東大に進学できるということではないようである。故にお金だけが子供を決定できるわけではない。また親が優秀なら子供が優秀とも限らない。一対一対応はない。それならこれは統計的に見ていくしかない。真実は遺伝もあり環境もありなのであろう。それなのに日本ではあまりに遺伝の問題がないがしろにされているのは事実であろう。

 <日本が中国から輸入しなかったものには、科挙、宦官、纏足、易姓革命道教などがある。> 
 小谷野も言うとおり科挙を輸入しなかったことがその後の日本に非常に大きな影響を与えたことは確かであろう。なぜそうなのか? 能力などはどうでもいいと思っていたのだろうか?
 
 <福沢諭吉勝海舟は米国にいって、米国は出自に関係なく能力によって人材が抜擢される国だと思った。そして多くの日本人がその後、西洋を平等な世界だと思ってきた。大正初期にフランスにいった島崎藤村はそこが階級社会であることに驚いている。福沢や勝は米国の上流階級を覗かせてももらえなかったのである。日本人は西洋幻想をもっているのである。>
 わたくしも西洋幻想をもっているなあと思う。なにしろ文明開化の吉田健一にいかれた人間だから。でもその吉田健一ウッドハウスの小説などを好み、「瓦礫の中」などでも主人と使用人という身分なんてことを書いた人間である。平等という西洋幻想は自分にはないと思うが、個人という西洋幻想は歴然とある。

 <西洋の貴族は「地主」である。日本では地主貴族は平安までである。戦国以降地主は農民=武士である。徳川でも大名や旗本は徴税権をもっていただけである。こういう奇妙な形態は世界に類例がない。版籍奉還廃藩置県があんなに簡単にいったのはそのためである。日本が階級を認めたがらない背景にはこうした歴史があるにちがいない。階級あるいは階層をみとめないのは日本の病根である。>
 ジェントリイ・郷紳がいないとうことは日本に真の反権力が生じにくい一つの原因ではないか? 恒産あれば恒心ありで、大きな土地をもっていれば権力に容易に屈することなく生きられる。「室町以降が本当の日本」といわれるのは農民=武士が土地を自分のものとしたからなのであろうが、それがほんのささやかな土地であったことが問題なのであろう。

 <かつては民衆になど政治はまかせられないという議論があった。なぜバカに選挙権を与えてもいいのかという議論がでなかったのか? それは貧富や性別の差という問題に隠れてたのである。貧しいものに選挙権を与えていいのか? 女性に選挙権を与えていいのか? という問題の緊急度が高く、バカにまでは議論がおよばなかったのである。インテリは反自民、大衆は自民であれば、自民党が今でもなんとかもっているのは大衆が選挙権をもっているからである。アカデミズムでは左が多数、大衆では右が多数。日本の問題は知識人用のメディアと大衆用のメディアがわかれていないことである。>
 これは本当に大問題であって、いかにブッシュをインテリが嫌おうとも、民主主義の制度によって再選されるかもしれないのである。キリスト教的美徳、家庭道徳をまもり、ホモセクシャルフェミニズムからアメリカを守るために。自民党を倒すためには、社民党制限選挙を主張すればいいのである。民主主義は単に最悪ではないだけの政治制度であるのかもしれない。しかし参加者を限ればもう少しましな制度になるかもしれないのである。プラトン的な貴族政治への志向がマルクス主義の悲惨に通じたというポパーの指摘はきわめて重要であり、何が正しいかを知っていると思う人の政治は恐ろしいことは、フランス革命からロシア革命までの歴史が証明した。しかし、それは民主主義が望ましいということをしめすものでは決してない。それはやむをえず採用している制度なのだということなのであろう。市場原理などと同じように。

 <近代批判がさかんである。しかし、前近代をわかって近代を批判しているひとはきわめて少ない。明治期、農村は近世を色濃く残していた。>
 江戸を視野にいれない近代批判は不十分ということである。丸山真男はあるいは多くのインテリは戦争で農村とであって、こりごりして前近代に嫌悪観をもった。戦前の支配者は、その当時の農民が政治に参加し一票をもつなどということは想像だにできなかったであろう。
 当時なぜか一番大事なことのように思われていた国体の護持というのも天皇制擁護もさることながら、貴族支配、元老支配という形態以外の政治形態を想像さえできなかったということが関係しているであろう。大衆は愚かであって、それに政治をまかせたらどうなるかわからないとう恐怖感がそこにはあったであろう。
 そういう点で、丸山真男と戦争当時の支配階級は似たような認識をしていたのかもしれない。丸山真男はインテリは信用したかもしれないが、大衆はまったく信用していなかったであろう。
 
 <現在は哲学・社会学・心理学といった非歴史的な学問に人気がある。精神分析は戦前から紹介されていたが、多くのひとが関心をもつようになったのは、1977年の岸田秀の「ものぐさ精神分析」以降である。これはフロイド派であるが、ユング派では河合隼雄が90年代以降カリスマ的な文化人になっていった。ポパー精神分析がなにごとをもうまく説明できるがゆえに眉唾なのだとしている。自分(小谷野)も、高校から大学にかけて、岸田や河合の大きな影響をうけた。しかし岸田や河合の説の面白さと説得力こそが多くの謬見をもたらすのだとかんがえるようになった。岸田のエッセイ「私の原点」は精神分析的な自己理解によって、脅迫症状から解放されるという見事な症例提示になっている。だがこれは精神分析的な枠組みを用いなければ説明できないものなのだろうか? 問題は親は無条件に子供を愛するものであるというような思い込みを岸田にもたせた近代社会のほうにあるのではないか? 最近では精神疾患は薬物治療が原則になっている。精神分析やカウンセリングは「話をきいてあげる」程度の意味しかもたないのではないか?>
 わたくしも精神分析やカウンセリングに多大の興味をもっているのでここの部分は他人事ではない。岸田の「私の原点」は最初に読んだときに、まるで手品なように鮮やかな説明だと思った記憶がある。小谷野は岸田が治ったのはプラセーボ効果ではないかといっているが、こんなに鮮やかな効果をもつプラセーボなど考えられない。あるいはプラセーボ効果であるとすれば、フロイト説はきわめて優秀なプラセーボなのである。
 おそらく精神分析が有効なひとというのが多くはないが存在するのである。一時岸田と組んで精神分析啓蒙を精力的にしていた伊丹十三もそうであろうし、養老孟司もそうであろう。
 臨床医学は結果よければすべてよしの世界である。フロイトの用いた説明の枠組みはほとんどすべてが誤りなのであろう。しかし、誤りではあっても、それにもかかわらず治る人がいるということ、それがフロイト説が現在にいたるまですたれていない原因なのであろう。
 あることが自らの認識によってわかったと思えること、それはとても強力な力をもつらしい。ここで大事なのは自らがそう思うということであって、他人からこうではないかという説明を与えられることは何ら力をもたない。そして自分から納得するための枠組みとしてフロイト説は強力に機能することがあるのである。
 精神分析やカウンセリングは「話をきいてあげるだけ」なのかもしれない。しかし、臨床の場においては「話をきく」ことはきわめて有効な力をもつ。河合氏の著作は、話をきく技術についてきわめて多くのこと教えてくれる。
 若いころ、話をきく技術などということを考えもしなかったころ、生齧りの精神分析で何人かの患者さんの精神状態をこじらせてしまった苦い経験がある。患者さんの病歴をきくと何かいかにもフロイト的に説明できそうなのである。親との関係、生育暦、いかにも問題はそこにありそうである。そういうことを一生懸命にきいていく。そうすると患者さんはどんどんと悪くなっていくのである。一生懸命にやればやるほど悪くなっていくというのは泥沼であって、そういう苦い経験をすることによって、患者さんとの距離のとりかたということを少しずつ学んでいった。
 現在でも、患者さんの多くは精神疾患はカウンセリング的な何かが治療の主体であると信じていて、精神科の治療において薬物療法が主体になっていることに何かわりきれない感じをもっているひとが多い。そして精神科受診のかたわらカウンセリングにも通い、(偏見かもしれないが)多くの場合悪くなっいくのである。自分が現在のような状態であるのはもう取り返すことのできない過去に起因するという説明をカウンセラーという他者から与えられることはまず治療効果をもたず、通常症状を固定化あるいは悪化させる。

 <若いころは、小此木啓吾の「シゾイド人間」だの、フォン=フランツの「永遠の少年」だのを読んで、自分のことがわかったような気がした。>
 まるでわたくしのことのようだなあと思う。だれでも若いころはそうなのかもしれないが、外界に適応できない他人とうまくかかわれないというコンプレックスがあって、自分が分裂症型の気質であって永遠の少年であると考えると、その原因がうまくわかったような気になるのである。
 そういう認識の多くは単なる自意識過剰の産物に過ぎないのであって、他人は自分のことになど少しも関心をもっていないという事実がわかってくると、コンプレックスの相当部分は消えてしまう。

 <現在の大衆社会の特徴はバカも意見をいうようになったということである。>
 なにしろ、わたくしごときがホームページを作ってるわけだから。

 <現在のインタネットの掲示板ではまじめになってはいけないというような風潮がある。これは徳川時代の町人の「うがち」や「ちゃかし」に通じるものであって、狂歌や川柳が時代の風刺になっていたと思っていた町人文化の系譜である。彼らは自らを公共的なものとみなす思想を知らなかったので社会を変えられなかったのである。>
 橋本治の「江戸にフランス革命を」で詳細に論じられている点である。野口武彦の本などでもそうであるが、それら町人にとって政治というのは誰か別のひとがやることであって自分の問題ではないでのある。そして現在すべての成人が選挙権をもっている状態となって、政治が自分のことになったことになるのかである。相変わらずインターネットを見る限りにおいて他人事ということなのであるが。

 <芥川龍之介の「藪の中」では、さまざまな言い分が示されているが、そこでおこったことは一つなのである。中立な言説はありえないということは、中立な言説であろうと努力しなくてもいいということではない。>
 養老孟司がNHKは神か? という議論に通じる。NHKは公正で中立な報道に努めます、などというが何が公正で何が中立化どうしてわかるんだという。小谷野は「意見」には中立はないと認める。しかし事実の報道においては中立たらんとつとめるべきであるという。何をとりあげるかという選択の時点で「意見」ははいってくる。何を先に報じ、何を大きく報じるかとうことについても「意見」がはいってくる。だから何を事実とするかについても中立ではありえない。しかしある報じる事実の提示の仕方においては中立であろうと努めるということはありえるであろう。現在、価値の相対という主張のもとであまりにも恣意的な意見が氾濫していることへの反発としての意見であろう。

<真実は複数ありうる。中立的な言説は存在しないというのが、ポストモダンのやけくそ哲学である。> 
 このやけくそ哲学というのは、ある評論家がドゥルーズらがあのような主張をやけくそでしなければいけないほど西欧近代は悲惨なのだといったことをいったことからの小谷野氏のポストモダン哲学へのあてつけである。
 ソーカル・ブリクモンらの「「知」の欺瞞」などを見る限り、ドゥルーズらは何をいっているかさっぱりわからない。わたくしもなんだかわからないままドゥールーズ・ガタリの「千のプラトー」とかを買った。まだ本棚のどこかにあるはずである。たしかに全然わからないけれど(翻訳が悪いのかもしれない)、それでもドゥールーズ学者であるらしい丹生谷貴志の本などを読むと何となくドゥールーズのいいたかったことというのもわかるような気もする。ヨーロッパ西洋近代の傲慢への批判なのである。これは吉田健一がヨーロッパ19世紀の野蛮といったものともどこかで通じるものである。
 現代において、大衆は近代を根本のところでは肯定している。一方インテリの左は近代の抑圧の否定という方向で現体制を批判する。問題はそういうインテリの議論がどのくらいの力をもつかということである。
 20世紀前半はマルクスの世紀であった。レーニンスターリンもインテリだった。ポルポトもインテリだったらしい。ポパーは世界のことがわかると主張するインテリが世界に悲惨をもたらしたとする。インテリが世界を先導するという思い込みから解放されることが肝要だという。インテリが何か正しいことを知っていて、みんなはそのあとについていけばいいという考えこそが廃棄されなければいけないという。世界を動かしてきたのはごく少数のインテリであり、それが傲慢に世界を指導するという間違った思い込みを捨てることが大事であるという。
 しかし同時に、相対主義を主張して世界のことはわからないとするものをも、また批判する。世界に正しいことはある。しかしその正しいことをわれわれは正しいと知ることはできない。だが、何が正しいかをしることはできないとしても、正しいことがあるという共通認識のもとで、正しいことを目指すという目標を堅持しなくてはいけないという。
 ポストモダンは、普遍的に正しいことなど何もないという。文化に相対的であるという。
 事実はひとつであり、それに対する正しい言説もひとつである・・・現在の多数意見? 科学者?
 事実はひとつであるが、それに対する言説についての当否は誰も確定できない・・・ポパー
 ポパーの場合はそうではあっても、正しいことがあるという。
 事実というようなものはない。あるのは様々な見方である・・・ポストモダン
 ポストモダンというのはアンチであって、何かを否定しようとするものではあっても、何かを積極的に作ろうとするものではないとすると、インテリの大きな悪には結びつかないのかのしれない。しかし、プラスのものを何も提示しない思想は、根底において空虚である。もちろん、空虚であるということをもって、その言説を否定することはできないわけだが・・・。

 最後の「「禁煙ファシズム」を斬る」は省略。わたくしも禁煙ファシズム反対の側にいるのでいいたいことはいろいろあるのだが、ここでの小谷野氏の議論はかなり滅茶苦茶であるので、それにそった議論はしない。反禁煙論というのは、喫煙しないものが展開したほうが説得力があるように思う。

 小谷野氏は新近代主義者を自称している。近代を否定するポストモダンの論者に対して、あらためて近代を擁護しようということらしい。それでポパーを称揚するわけであるが、現在ポストモダンに対して一番否定的である科学の側(たとえばドーキンス)などから見ると、ポパーもまた反対陣営つまりポストモダンの側にいるように見えるらしい。
 ポパーのいうサーチライト理論、つまりわれわれが見るということは積極的な行動なのであって、外界の刺激がわれわれの中に入ってくるという受身の行動(バケツ理論)ではないという主張自体が、事実を事実としてみとめず、事実を見るものに依存するとする相対主義と通じるものとされてしまう。
 というか認識論ということ自体、事実自体をみとめず、事実が認識に依存するという主張として相対主義に道をひらくものとされてしまうのである。とすればほとんどあらゆる哲学の否定である。あるいは人文科学のほとんど全否定である。ウットゲンシュタインはほとんどあらゆる哲学をたわごととして否定したのかもしれないが・・・。
 一方、人文科学の側で、小谷野氏にしろ、内田樹氏にしろポパーを旗標にするひとがでてきている。本来ポパーは自然科学の側の人間である。なにかどこかで食い違いがおきてきているのだろうか?