長尾龍一 「リヴァイアサン」
[講談社学芸文庫 1994年9月10日初版]
長尾氏には、わたくしが大学の教養学部の時に法学を習った。氏もまだ30代であったろうと思う。
その時から、飄々とした、どことなく仙人のようなひとであった。それ以外のことは、どんなことを習ったかもさっぱり覚えていないが、試験問題だけは覚えている。二題あって、一題が「国家は人民搾取のための暴力装置であるという考えがあるが、それに対する意見を述べよ。論旨の一貫性を評価する。内容は問わない」というもの、二題目が「あなたは、五人兄弟で、兄は一人すでに死んでいて、その配偶者と子供二人は健在。あなたの母も健在だが父が10億の財産を残して死んだ。それぞれの相続額は?」とかいったもの。
要するに、きわめて抽象的なテーマと具体的なテーマが一題づつ。
氏自身はきわめて抽象的は国家とは何かというような分野を専門にしているらしい。しかし、そういう自分の専門だけでなく、学生のこれからの役に立つ法律についても教えておこうというバランス感覚であったのであろう。
それで、この「リヴァイアサン」も国家という問題を正面から論じた原理論である。
国家批判には、①権力一般が悪なのであるから、権力である国家も悪という、アナーキスト・自由主義者の側からの批判と、②近代主権国家が世界を、国家という諸部分に分割していることを悪とする立場がある。
この本は②を主として論じる。
近代主権国家が生じる以前のユーラシア大陸では、国家(states)ではなく、帝国(empiresが支配していた。確かに帝国同士は争っていたが、帝国内にすむ人々にとっては帝国は世界そのものであった。
16世紀ヨーロッパに起源する「近代主権国家」による帝国破壊により、世界全体の秩序に責任をもつ政治主体はいなくなった。
そのことを思想的に表現したのがホッブスであって、国家をリヴァイアサンという海獣になぞらえ、可死の神であるとした。それが神であるならそれを拘束する規範はない。自然的衝動を生きるのみである。したがってホッブスによれば、国際社会は複数のリヴァイアサンの争う「人間が人間に対して狼」である「万人が万人と闘争する」「自然状態」の場であるとした。
しかしヨーロッパは一世紀以上にわたる宗教戦争の教訓から戦争を限定するシステムをつくりあげた。しかしそれはヨーロッパ内だけのことで、他の諸大陸ではリヴァイアサンとして相変わらず行動した。
17世紀に主権国家になり損ねたドイツは、19世紀にようやく主権国家になれると、16世紀的な原理で行動した。
これらの歴史を踏まえ、ケルゼンは、国家は世界法秩序の部分秩序を擬人化したものであるのにすぎないのに、その国家が自分を唯一神になぞらえて「主権」を理解していることは唯我論的国家観であるとする国家批判をおこなった。
世界史における最大の不幸は16・17世紀ヨーロッパが犯した「主権国家」創造である、というのがケルゼンにならう長尾氏の思想の根本である。
中華帝国の東端に位置して、一環して中華帝国の支配を拒んできた日本は帝国という概念になじめない民族である。
「国家そのもの」は具体的にはどこにもない。それをどう理解するかについては、それは法人などとの類推で理解するものと、「国家そのもの」は幻想であるが、なぜそういう幻想が生じるのかを心理学的に説明するものがある。人間はものごとを擬人化して考える傾向がある。自己を超越する規範があるとその背後に超越的人格を想定してしまう。
農業が成立するとどうしてもなんらかの国家的なものが要請されてくる。守城技術が古代には優勢であった。その時代には、広い土地に散在する城が権力であった(都市国家)。しかし攻城技術が発達すると都市国家は淘汰され、帝国ができる(中国でいえば秦)。
西暦1500年のユーラシア大陸は、神聖ローマ帝国、ロシア帝国、オスマン帝国、ムガール帝国、明帝国が並立していた。
16世紀神聖ローマ帝国内での宗教戦争の結果、永久に決着のつかない宗教間の争いは棚上げにして、各宗教の支配領域で住みわける動きがでてきた(アウブスブルグの宗教和議)。
また一方では、宗教を私事として国家は宗教から超然として、国家内の各人の信仰の自由を保障するという動きもでてきた。
これらの動きは宗教本来からはありえない動きである。
しかし神は「絶対的力」と「秩序のなかの力」をもち、後者は人間理性で接近可能であるという思想がでてきた。この領域あ「自然」と呼ばれ、ここでは信仰の相違に関係なく各人が接近可能であるとされた。「自然神学」「自然科学」「自然法」など。
これを徹底すると奇跡を否定する「理神論」がでてくる。神は「絶対的力」を天地創造で行使し、その後の世界は自然法則にしたがって動いているとする。これはほとんど無神論に近い。
しかしそこで作られた主権国家の長は「地上の神」となっていくのである。
カール・シュミットによれば、16世紀は神学の時代であり、宗教戦争という政治対立をうんだ。そこでひとは形而上学的「自然」という中立的立場に「政治」からの逃げ場所をもとめた(17世紀)。今度は形而上学的対立が強くなると、経験的人間に逃げ場所をもとめた(人間主義的18世紀)。最後には経験的人間を規定する経済が政治対立の中心となった(経済的19世紀)。そして20世紀にあるものは技術である。
浩瀚な本書のほんの一部であるが、国家の存在を普段ほとんど自明のものと考えているものにとっては目から鱗の指摘が多い。
現在のアメリカの行動などリヴァイアサンそのものである。何が正しいかは自分が決める。宗教戦争の16世紀に戻っているのかもしれない。かつて宗教戦争はヨーロッパ内部でおこり、それがヨーロッパ内部での主権国家の住み分けをもたらした。
現在の宗教戦争はグローバルである。もともと住み分けがおきていたのに、世界が小さくなったため、すみわけられらなくなってきている。そして、理神論とか、宗教は私事というような考えがでる余地がない。おたがいに疲れきってしまうまでいい解決策はないことになるのだろうか? 宗教の争いなのだから、世俗化する以外に解決策がないのかもしれない。世俗化をうながすものは経済の発展なのであろう。そうすると19世紀である。もうひとつは教育の普及であろう。宗教は他人が考えるものである。教育は自分で考えることをうながすものである。
そして一方、教育の普及は軽薄の普及でもあるかもしれないので、過激な争いは減るのかもしれないが、世俗化することによって、ひとは凡庸な末人になっていくのかもしれない。
9・11の犯人達はそのとき幸福だったのだろうか? サリンを撒いたとき、林郁夫は幸福だったのだろうか?