内田樹 「街場のアメリカ論」

  [NTT出版 2005年10月31日初版]


 最近、こんな面白い本を読んだことがない。内田氏は本当に頭のいい人であるなあと思う。感嘆しきりである。かなり多くの部分を精神分析的な見方に負っており、精神分析的見方の切れ味というのを改めて認識させられた。あまりにうまい説明というのは、どこか胡散臭いものであり、そもそも精神分析による説明というのは個人にかんする限りほとんどいんちきであると思うけれども、集団心理を説明する上ではまだまた有効なのだろうかと感じた。題名の通りアメリカ論なのであるが、日米関係論、あるいは米国を論じることで日本を照射するという姿勢が一貫しているので、同時に日本論でもあるという構造になっている。
 それぞれの章ごとに詳しくみていきたい。
 
 「まえがき――自立と依存」
 日本近代史150年は一貫して「対米関係」を軸に推移してきた。日本は「アメリカにとって自分は何者であるか?」という問いによってアイデンティティを確認してきた。日本にとって明治以前には自己確認するための他者は中国であった。たとえば江戸時代の鎖国は清が海禁政策をとっていなかったならばなかったのではないか? 19世紀に入りアヘン戦争、アロー戦争、太平天国の欄によって清朝が瓦解しようとしたのをみて、このままでは日本も清国と同じ運命をたどるとして明治維新への動きがはじまったことは誰でも知っている。なぜそう思ったのか? 日本は列強の動向に詳しく通じていたわけではない。その時はじめて自分は清国に似せることを国是としてきたことを意識化したからである。つまり、清の没落をみて、日本のアイデンティティという主題を意識させられることになった。「日本らしさ」が危機に陥ったというようなことではなく、「日本らしさ」という主題がそこではじめて意識化されたのである。1853年にペリーがきた。その時、日本は千年来のロールモデルである清を見限り、アメリカをこれからのロールモデルとすることにしたのである。ロールモデルとはそれと自分はどう違うかという形で自己確認をするときの参照枠である。本書で著者がおく仮説は、日米関係の本質は現実の水準ではなく、欲望の水準で展開するというものである。加藤典洋の「アメリカの影」はその点を指摘した著書であった。現実と心情のねじれである。依存しながら反発するという関係である。親米的政策は反米的感情をともない(右翼&保守)、反米的政策は親米的感情をともなう(左翼陣営)。
 最近の保守の動きを「軍国主義の復活」と懸念する人たちがいる。しかし日本軍国主義の復活をもっとも歓迎しないのは米国である。この点、日本の左翼とホワイトハウスは利害が一致する。
 小泉首相靖国参拝にどうしてブッシュ大統領が抗議しないのだろうか? 靖国に祀られているのは30万米兵戦死者に対する責任を問われて処刑されたものたちである。それは靖国参拝アメリカの国益にかなっているからである。アメリカからみれば日本と中国・韓国は仲が悪いほうがいいのである。アメリカは日本がアメリカに依存しなければいけないほどは弱く、アメリカの世界戦略を補完しうるほどは強いという中途半端な国であることを望んでいる。アメリカにとって日本は平和国家であると同時に軍事国家でもあるべきなのである。
 こういう矛盾した要求に対しては、①臨機応変に優先順位を選択するというやりかた、②矛盾を否定して従属を絶つ独立志向、③二つの要求に同時に応えるべく人格乖離で対応するという3つの対応がある。日本はもっとも知的負担の少ない最後の③である発狂ソリューションを選択したのである。「親米は反米」「反米は親米」というマクベスの魔女の呪いである。
 現在の言論界の主流は「アメリカへの従属なしに、アメリカからの独立はありえない」というねじれたものである。これはアメリカが押しつけたものではなく、日本が自分で選んだ結果である。これからアメリカを論じるわけであるが、自分内田がどんなにいいたいことを言い、アメリカの悪口を言っても、アメリカは歯牙にもかけないだろうということを前提にしている。それは従者のメンタリティーであり、「気楽」な批判である。自分はアメリカを救わなければならないという感覚をもっていないのである。保護者の感覚はないのである。つまり倫理的にはかかわれないのである。せめてもの救いは、自分がそうであるということの病識を持っているという点であろうか?
 
 小泉首相靖国参拝になぜブッシュ大統領が抗議しないのか、というようなことは考えたこともなかった。考えてみればそうである。あそこに祀られている人の多くはアメリカによって殺された人たちである。その慰霊をすることはその犠牲の原因であるアメリカを批判することにも繋がるはずである。しかしそんなこと考えたこともなかった。現在の主流の見方によれば今次大戦で死んだ日本人は一部軍国主義指導者による無謀な戦争の犠牲者なのであって、悪いのは日本の軍事指導者であり、アメリカ軍ではないのである。広島長崎があれほど言われながら、それを落としたのは米軍ではなく日本軍国主義であるかのようである。そもそも占領軍がなぜあのように歓迎されほとんど抵抗をうけることがなかったのかである。「敗北を抱きしめる」という奇妙な心理に陥ったのはなぜなのだろうか。なぜ、「拝啓マッカーサー元帥様」の大量の手紙が書かれたのだろうか。
 本居宣長などを見れば、日本が幕末になってはじめて清国をロールモデルとしていたことに気がついたというのは問題があるような気がするが、明治維新後に中国をロールモデルとすることをやめたというのは事実であると思う。そこで今度はそれをアメリカに乗り換えたというのは内田説であるが、西欧をロールモデルとして選択したとするのが多数意見であろう。アメリカをロールモデルとしはじめたのは戦後というのが一般的な見方ではないだろうか。しかし、その点に関しては、以降の論の展開を待つ必要がある。
 
 第一章「歴史学と系譜学―― 日米関係の話」
 1861年〜65年に南北戦争があった。明治維新が1868年。もしアメリカで南北戦争がなかったら。日本はアメリカの植民地になっていたのではないか? フランスのナポレオン三世徳川幕府と結んだ。イギリスは薩摩と組んだ。1853年というもっとも早い時期に開国をせまったアメリカは南北戦争のため1861年以降ほとんど日本に介入できなくなった。ペリー、ハリス以降、日本と米国はあまり良好な関係ではない。
 フランスは普仏戦争(1870〜71年)でナポレオン三世が没落してから植民地経営の余力がなくなっていく。第二次世界大戦ではフランスはヴィシー政権時代は枢軸側であった。フランスと日本は戦争初期には協力関係にあったのである。戦争開始直後、インドシナ半島シンガポールまで進出する過程で、日仏間では戦争が行われていない。それはアメリカが支配するフィリピンまで一歩のところまで日本フランス同盟がせまっていたことを意味する。
 アメリカはフロンティアが消滅したあと、アメリカスペイン戦争(1898)でフィリピン・グアム領有、ハワイ併合という西への拡大傾向をもっていたにもかかわらず、日本には有効なかかわりを今次大戦以前にはもてなかったのである。
 
 太平洋戦争開始以降えらく順調にインドシナに侵攻していったのを見てなんとなく不思議に思いながら、それ以上深く考えたことがなかった。フランスとの同盟関係などということにはまったく理解が及ばなかった。これも目から鱗であった。南北戦争がなければ日本はアメリカの植民地になっていたのではないかという大胆な主張も、考えたこともなかった。なんとなく、日本は中国よりその時点においては“進歩”していたから日本は植民地化されずにすんだというような理解であったように思う。まさにこれは、中国から西欧へのロールモデル転換という動きをそのまま受け入れていただけということを示しているのかもしれない。
 
 第二章 「ジャンクで何か問題でも?―― ファースト・フード」
 スローフード運動はイタリアのピエモンテで発祥した。これは、同地での「北部同盟」の「北イタリア独立運動」とかかわっている。そもそもここは1920年代にムッソリーニファシズム運動が生まれた土地でもある。「自然食」運動は反近代、反都市、反資本主義、反市場主義と関連する。ジャガイモがヨーロッパに広がったのは17世紀。これはヨーロッパ伝統の食文化ではない。
 
 これまた知らなかった。どうもわたくしは自然食運動とか環境保護運動というのが嫌いなのだけれども、これは運動をしている人の顔つきとか声、言い方が嫌いということでもあると思う。なにか偉そうにわかったようなことをいいやがってという感じである。禁煙運動家、市民運動家が嫌いな理由も同じ。これが右翼に通じるということは言われてみれば納得である。一つ、理論武装ができた。
 
 第三章 「哀しみのスーパースター―― アメリカン・コミック」
 アメリカン・コミックのスーパースターはみな同じ。主人公は例外なく特殊な能力をもつ白人男性。そのスーパーな本性をみせることを禁じられ、市民的な偽装生活を送ることを余儀なくされる。活躍しても誤解され、メディアからバッシングされる。そこにかわいい女の子がでてきて、ヒーローの無私の美しい心を知りはげましてくれる。これはアメリカの国際社会の中でのセルフイメージなのではないか?
 では日本のヒーローは? 無垢な子供しか操縦できない巨大ロボットである。「鉄人28号」以来の伝統である。巨大ロボットは軍国主義で、少年は戦後民主主義。要するにシビリアンコントロールの主張。
 
 最近「Mr.インクレディブル」というDVDを買ったが、言われてみれば内田氏のいうとおりの設定である。特殊な能力をもつ人間が白人男性がマスコミに叩かれ、しがない市民生活を強いられ・・・。しかし、これがアメリカの軍事戦略擁護の話であるとは思わなかった。「鉄人28号」はりアルタイムで読んだが、またしても、これが戦後民主主義擁護の話であるとは思わなかった。少年雑誌に載るから少年が主人公であるとばかり思っていた。浅墓である。情けない。
 
 第四章 「上が変でも大丈夫―― アメリカの統治システム」
 アメリカのような国はそれ以前にはどこにも存在しなかった。「理念先行型」の国なのである。他の国では、孔子以来常に理想は過去にあると語られてきた。しかしアメリカはその唯一の例外なのである。アメリカの政治システムは、人間の愚かしさがもたらす災厄をいかに最小化するかということを組み込んでいる。
  
 この部分は比較的既知であった。小室直樹の「憲法講義」などで読んだ話と共通点が多かった。
 
 第五章 「成功の蹉跌―― 戦争経験の話」
 アメリカにとって戦争は(国家と同じように)具体的な経験の問題ではなく理念や物語のレベルの問題であった。
 アメリカのさまざまな戦争での戦死者数
 南北戦争62万人(ただし8割が病死)
 第一次世界大戦 5万3563人(全世界では1300万人)
 第二次世界大戦29万人(全世界では7千万人? 日本の戦死者は3百万人)
 (広島長崎での死者30万人)
 真珠湾でのアメリカの死者3000人。
 東京大空襲 死者10万人、被災者100万人。
 真珠湾以外にはアメリカ領土への攻撃はなかったので、太平洋戦争でのアメリカの非戦闘員の死者は、ほとんど真珠湾での死者に限られる。
 歴史上、自国領土内で、アメリカの正規軍が他国の軍隊に攻撃されて死者を出したのは二回しかない。一回目はスー族によるカスター将軍の第七騎兵隊の殲滅。二回目が真珠湾

 ベトナム戦争での死者5万8千人(南北ベトナム人の戦死者 100万人)
 イラク戦争での米軍の死者 1500人(今年の夏まで)
 
 アメリカ=スペイン戦争の発端とベトナム戦争でのトンキン湾事件は似ている。
 アメリカは19世紀末の拡張期に数十年で巨大な植民地帝国となっている。
 アメリカには戦争で勝った相手と同盟してきているという歴史がある。例:ドイツ・日本。冷戦後のロシアとの関係もそうなりつつある。その歴史の過程でアメリカは相手を打ち負かせば、打ち負かした相手は進んで同盟を求めてくるという経験を得た。戦争をしたほうが戦争をしないより効率がいいことを学んだ。外交が手詰まりになったら戦争を選ぶようになった。しかし、それが成功したのは相手が古典的な国民国家であった場合である。テロリスト相手では通用しないのである。
 トーブによれば、アメリカは反ユダヤ主義で没落する。彼によれば、いずれアメリカで組織的な反ユダヤ主義暴動がおきる。その主体は黒人白人の失業者、ホームレスなど貧者下層階級などであり、その不満の矛先をユダヤ人にむける。支配階級層はその動きをむしろ歓迎する。不満が自分たちにむかうのを回避できるから。迫害されたアメリカのユダヤ人はイスラエルにむかう。すでにその兆候は今回のハリケーン「カトリーヌ」被害でみられた市民意識の崩壊に見えている。またトーブによれば、アメリカの新しいパートナーはロシアとなり、それにカナダが加わって北半球ブロックができ、EU、東アジア共同体と鼎立することになる。トーブによれば、アメリカとロシアは、アメリカ独立戦争ロシア革命というヨーロッパに対抗して生まれた理念国家という似た出自をもち、世界史的使命を自覚しているカウボーイ/コサックの国家であり同盟の素地があるのである。
 
 ここを読んで、アメリカの戦死者がいかに少ないかをあらためて知った。ヨーロッパは第一次世界大戦での膨大な死者でこりごりし、それにより厭戦、嫌戦となり、結果としてそれがナチスドイツの台頭をゆすることになったわけであるが、アメリカもベトナムでこりごりし、あとは遠方からミサイルを撃ち込むような戦争しかできなくなってきている。
 ここで紹介されているトーブの本に興味をひかれたので読んでみようかと思ったが参照文献によればまだ翻訳されていないらしい。誰か翻訳してくれないだろうか? 本書でも言及されているトッドの「帝国以後」(これは養老孟司の紹介でよんだ)もアメリカの没落を予言した本である。そういう本を読みたがるのは、わたくしの気分の根底にアメリカ嫌いがあるからなのであろう。たぶん本書を面白いと感じるのも同じ理由からである。
 誰かが吉田健一アメリカに対する態度を評して、そういえばそういう国もあるな、しかたがないから黙認してやろうというような感じといっていた。吉田健一が論じるアメリカとは、ニューヨークの場末にあるホテルの地下のバーはいい、とかそういう話だけなのである。わたくしはアメリカにいってみたいという気が全然ない。いくならヨーロッパである。これはわたくしの中に根強くある偏見による。
 三島由紀夫が、どこかで、日本の上流階級が度しがたいのは、その英国信仰と支邦趣味といっていた。わたくしは上流階級ではないけれども、そういう度しがたい人間であることは間違いない。林達夫の「新しき幕明き」の「戦前、戦中、私はある大学でアメリカ合衆国史を講じていて、当時としては公平至極に歪曲しないアメリカのすがたの開明に努めたものだが、その日(敗戦・・・引用者)以来私はぴったりアメリカについて語ることをやめてしまった。もはや私ごときものが出る幕ではなくなったからである。日本のアメリカ化は必至なものと思われた。新しき日本とはアメリカ化される日本のことであろう――そういうこれからの日本には私は何の興味も持つことができなかった。私は良かれ悪かれ昔気質の明治の子である。西洋に追いつき、追い越すということが、志ある我々「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下がることは、私の矜持が許さない。」という部分など、昭和の子であり、志はないとしても洋学派であるとは思っているわたくしとしても同感、同感なのである。わたくしは自分を「文明開化」の子であると思っていて、アメリカに文明があるとは思えないのである。それにしても「洋服乞食」という言い方は凄い。
 これからカウボーイとコサックが世界を席捲するのかと思うと暗澹たる気分になるが、ロシアというとスラブ−ドストエフスキーという方向をすぐに発想してしまうわたくしとしては、ロシアは歴史と文明をもつ国であるとも思う。もっともドストエフスキーの著作から世界に冠たるロシアといった文章を見つけ出してくることはいたって容易であろうから、愛国者ドストエフスキーとしてすぐに利用されてしまうのかもしれないけれども。
 
 第6章 「子供嫌いの文化―― 児童虐待の話」
 アメリカは新教徒の国であり、新教徒は原罪意識が強いから、人は生まれながらに罪人なのであり、子供は無垢であるとか純真であるとかいう子供観はなく、子供を殴って肉体から悪を追い払うことは宗教的に容認され推奨されていた。
 1962年、小児科医のヘンリー・ケンプが「打撲児症候群」を発表した。それによれば子供の死亡、怪我の相当数が親による虐待による。
 バダンテールは「母性という神話」で、ヨーロッパ中世の親子関係が我々が想像するものとはまったく違っていて、親は子供を自分の私有物のように考えていて、子供を殺す権利をもっていると思っていた、としている。だから、ルソーの提出した「無垢なる子供」という概念は革命的なものであった。ヨーロッパで子供は保護されるべきものということが常識となったのは、ごく最近のことである。
 それに対して、日本は世界でも例外的に子供を甘やかす国である。幕末に日本にやってきた西洋人が驚いたのは、親が子供を甘やかすことと、若い女性の性的放縦であった。
 アメリカには子供嫌い映画の伝統がある。最近では「宇宙戦争」と「チャーリーとチョコレート工場」。これは子供は邪悪だという信憑がアメリカでは続いていることを示す。
 アメリカのウーマン・リブが画期的だったことの一つは、母親が「子供がかわいくない」と公言しはじめたことである。「母性愛は幻想」なのであり、「子育てに縛られるのはもういやだ」といいはじめた。「子供はかわいくなく」「配偶者を愛してもいないし」「親は嫌い」だと誰はばかることなくいうようになった。
 欧米では子供は親の自己実現を妨害しない場合にのみ保護をうけることができるという考えが根強くある。無条件ではなく、条件つきなのである。
 フェミニズムによれば、欧米の文化には「女嫌い」の伝統が伏流しているのであるが、フェミニストをふくめた欧米の知識人には「子供嫌い」について考えようとする姿勢はあまり見られない。たとえばハーバート・スペンサーは、子供の体型は未開人と共通したものがあると書いている。「子供は醜悪な獣のようだ」という感覚が欧米で市民権をえていた時代があるのである。
 
 「風と共に去りぬ」で、レッド・バトラーが滅茶苦茶に子供をかわいがるところがあって妙に印象に残っている。これはアウトサイダーであったバトラーが、自分はよくても子供はインサイダーでなければ可哀想だと考えて姿勢を変えるようになる、そのためのエピソードでもあるのだが、スカーレット・オハラが「子供なんかかわいくない」「邪魔な存在」ということを公言しているので目立つ。スカーレットは建前を笑い、本音をつらぬく人間として設定されているので、この当時のアメリカ南部社会でも、本当は「子供は邪魔」であったのであろう。南部貴族社会では子育ては乳母の役目であり、自分で子育てなどはそもそもしないのであるが。
 「宇宙戦争」も「チャーリーとチョコレート工場」も観ていないが、「チャーリー・・」のダールの原作でも、確かにでてくる子供はチャーリーを除けばいやなやつばかりである。これはダールが子供むけに書いた本だから、こういういやな子供でいると罰せられるぞ、というメッセージを発信しているのであろうか? 「マチルダ」の最初のところでも、馬鹿な子供を天才と信じている困った親がいると嘆いたあと、それでもまだそれはいいので、もっと困った親は子供のことに全然関心がない親だとして、マチルダの話に入っていく。そして最後の場面で、まことに困ったマチルダの親と兄をおいてマチルダはハニー先生と暮すようになるのであるが、両親は育てる子供が一人減って助かるという感じなのである。
 日本が世界でも例外的に子供を甘やかす国であるのは何故か、というのは大変な問題であるし容易に解答がでないものであろうが、内田氏は、日本では子供たちには「一種神聖なもの」が宿っていると信じられていたからという網野善彦説を紹介している。原因が何であれ、事実としてそうであるのであり、その点欧米と大きく異なるのであれば、精神分析学の適応が日本と欧米では大きく異なるはずである。幼児期の親子関係が成人以後の対人関係を大きく規定するというのが精神分析的の基本的な見方であるから、西欧出自の精神分析をそのまま日本に応用することなど不可能になる。だから「甘えの構造」が書かれることになるのであろうが。
 自分のことを考えても、精神分析に興味をもつようになったのは、女房の子育てをみていて、こいつは子供が嫌いなのかなと思ったのがきっかけである。それで精神分析学と動物行動学の本を読み始めた。なぜそのときフェミニズム方面の書物が視野に入ってこなかったのかは不明である。その時は、子供はかわいくなくて当たり前といった方面の論は全然読む必要を感じなかったためであろうか。子供はかわいくて当たり前という日本の底流を無批判に信じていたのであろう。それでは今自分は子供をどう見ているのだろうか? 「奥さんに何か不満でもあるんですか」「ないね」「女性を一文なしにして放り出すなんてひどいじゃありませんか」「いけないか」「だって、どうやって暮していきます?」「私は十七年間あれを養ってやった。今度は一つ自分の力で食ってみるのもいいじゃないか」「もう奥さんを愛してないんですか」「ああ、全然」「お子さんたちは可愛くないですか」「小さい時は可愛かったが、今は大きくなっている。とくにどうとも思わないね」「そんなことで恥ずかしいと思わないんですか」「思わないね」「世間ではあなたのことを犬畜生といいますよ」「いわせておくさ」、というのは竹内靖雄氏の「世界名作の経済倫理学」の中のモーム「月と六ペンス」の紹介の一部であり、主人公ストリックランドの意見でありわたくしの意見ではないが、まあこれをもって代用しよう。わたくしも犬畜生なわけである。竹内氏のよれば、「月と六ペンス」は大人が(そして大人だけが)読んで楽しめる小説なのだそうであるが。
 
 第7章 「コピーキャッツ―― シリアル・キラーの話」
 1950〜60年代に「うちのママは世界一」というテレビドラマで描かれた専業主婦の母親像というのは、この時代に「暖かく受け容れる母親」が現実には定着していなかったためではないか。これはあるべき母親像の宣伝教育番組だったのではないだろうか? それは第二次世界大戦中に男たちが戦場にいき、その間隙をうめるかたちで社会進出した女性を家庭に呼び戻すためのものだったのではないだろうか? その結果生じた抑圧的な母によってシリアルキラーが生じたのではないか?
 
 「うちのママは世界一」は見た記憶はないが「パパは何でも知っている」というのは覚えている。原題が「Father knows best 」であって、うまい訳だと思った。これまたアメリカの理想的家庭を描いたものであったのであろう。いうまでもなく奥さんは専業主婦であったと思う。わたくしも中学高校時代にそういうものを見て洗脳されたのであろうか?
 日本での戦争中、戦場にでた男たちに変わって女が働くようになり、戦後それを家庭に引き戻すためにさまざまな宣伝が行われたというようなことがるのだろうか? どうもそのようなことがあったとは思えない。これまた日本とアメリカの違いなのであろうか? それともアメリカの教育宣伝番組に日本人もまた乗せられたのであろうか? 
 
 第8章 「アメリカン・ボディ―― アメリカ人の身体と性」
 人間は自分自身が取り込まれているジェンダー構造については主体的決断や自己決定によってはほとんど何も変更することはできない。
 性差というのは生物学的「事実」であるとともに、社会構築的「幻想」でもある。そういういたって錯綜したものであるはずなのに、アメリカの欠点はこういう問題にも理念先行で、わけのわからない曖昧な領域を残すことをしないことである。
 
 性差とジェンダーが生得的なものであるか文化的なものであるかは根源的な問題であるから軽々しく論じることはできないし、ほとんど人間とはどんな存在であるかを問うに等しいと思うが、アメリカ由来の言説がいたって理念先行で曖昧な余地がない議論であるのは、アメリカ的なディベート感覚、あるいはスポーツ感覚といったものも影響しているのではないかとも思う。自分が本当にそうであると信じているかということより、自分はこの言説陣営で自己のキャリアを形成していくことに決めたといった選択の問題も大きいのではないかと思う。
 人間は自分自身が取り込まれているジェンダー構造については主体的決断や自己決定によってはほとんど何も変更することはできないという説を、人間は自分自身が生みおとされた環境によって決定された構造については主体的決断や自己決定によってはほとんど何も変更することができないと拡張することができるかどうかが問題である。本書のような本が書かれる前提としては、何がしかの変更が可能であるということがあるはずである。国といったものは文化的なものであって、生物学的生得的な基盤を持たないものであるから。しかし、社会生物学的にみれば人間がある種の集団をつくるのは人間という種に生物学的な基礎をもつのであり、国というものもその延長にあるのであれば、何がしかの生物学的な基礎をもつのだということになるのかもしれない。
 
 第9章 「福音の呪い―― キリスト教の話」
 「神またはユニバーサル・スピリットの存在を信じる」人の割合はアメリカでは90%台にもなる。これだけ信仰心の篤い先進国はアメリカだけである。
 宗派としては、
 プロテスタント58%
 カソリック25%
 ユダヤ教 2%
 その他 7%
 
 1631年にニューイングランドに入植した人たちはそこに理想の「聖書国家」をつくろうとした。彼らは入植して6年目には大学の設立を用意しはじめている。まだ開拓の木の切り口が生々しいころである。彼らは知性的に卓越した少数の教養人による国家を夢見た。ハーヴァード大学の初期の卒業生の半数は牧師になっている。
 それがフロンティア拡大期に崩れた。開拓時代にアメリカ人の信仰心は急激に衰微する。この時、それを阻止するために生まれたのが福音主義である(1720年にはじまる「大覚醒運動)。無学ではあるけれども宗教的情熱に駆られた人びとがキリスト教布教の前衛となった。そこで求められたものは知性ではなく、話術とパフォーマンスである。そこでもっとも急成長したのはメソジストである。
 ホーフスタッターによれば、「アメリカの精神」とは近代初期のプロテスタンティズムを鋳型として形成されたもので、高遠な学問や思弁的理性を軽んじ、大衆の心情に直接触れ、その日常の生き方にダイレクトに影響をあたえるような実践的な知識と技術に価値を付与する傾向をもつ。それをホーフスタッターは「反知性主義」と呼んだ。
 福音派とは宗派ではなく信仰の態度あるいは強度についての形容である。キリストによって生まれ変わったという自覚をもち新訳聖書を文字通りに解釈し、積極的に迷える人々の魂を救うことと社会全体の救済に関心をよせるような人びとをそのように呼ぶ。
 2004年のギャロップ調査によれば、アメリカ人の41%が自分を福音派であると答えている。
 なぜアメリカ人は過剰なまでに宗教的なのか? トクヴィルによれば、それはアメリカでは政教分離が徹底しているからである。政界に聖職者がいないのである。であるから宗教が特定の政治勢力と結びつかない。
 
 ここに描かれた福音派のような人々こそがわたくしのもっとも嫌いな人、つきあいたくないひとである。わたくしの描くアメリカのイメージはそこに起因するのであろうと思うし、アメリカが好きになれない理由もそこにあるのであろうと思う。わたくしのイメージによれば愛国婦人会のおばさん方がちょうどそういう人間たちである。そういう人たちが少なくなってくることこそが文明化というのであろうと思っているので、日本はアメリカにくらべればよほどの文明国であると思っている。わたくしは唐様で書く三代目のほうが好きであって、粗野な行動家というのが苦手である。わたくしが嫌ったってアメリカが消えてなくなるわけではないので、困るのであるが、まあ、あるものは仕方がないのである。宗教というのは嫌なものだなと思う。19世紀よりも20世紀のほうが宗教色が強くなるなどというのが信じられない。
 
 第10章「メンバーズ・オンリー――社会関係資本の話」と第11章「涙の訴訟社会―― 裁判の話」は省略。
 
 「あとがき」で、風穴のあいた文章はなかなか腐らない、ということを言っている。風穴は地下水路でもよくわからないところでもいいそうであるが、とにかく理路整然とは異なる何か訳のわからない何かがない文章は時間がたつとすぐに駄目になるということである。丸谷才一の「輝く日の宮」などはどうもそういうものではないかと思った。村上龍の最近の小説にもその嫌疑がある。村上春樹の小説はわけのわからないところがたくさんある。それがいいのであろう。
 
 とにかくこれを読んで自分がアメリカを嫌いな理由が自分なりに整理できた。内田氏もいうようにアメリカはわたくしに嫌われてもそんなことは歯牙にもかけないし、そんなことではびくともしない。つまりわたくしとは何の関係もない。それがわたくしと関係してくるのはアメリカが日本という国に影響する限りにおいてである。
 しかし、それならそもそも日本がわたくしと何か関係があるのかということがある。わたくしは子供に甘い文化のもとに産み落とされた。そのことをかっては自明のことと思っていた程度には“日本”に侵食されている。だから日本と関係ないはずはない。柳田国男が「先祖の話」で書いたような日本人の死後観を、それを信じないにしても美しいとは思う。川端康成島木健作の追悼文を美しいと思う。《かえっていく古の山河》などというものはどこにもないにしても。でもそれは国という形をとっていない日本である。国民国家としての日本とは、ほとんど関係がないような気がする。アメリカはそのきわめて人工的な国家成立の過程からいって個人が国家と無縁でいることがきわめて困難である。そういう国家の形、国民国家もまたわたくしにはきわめて煩わしいものと感じられる。
 本書を読んで感じたのは、日本人にとって日本という国家の存在感は希薄であり、われわれにとってもずっと存在感がある国家とは実はアメリカなのであり、われわれにとって存在感がある国家が自分の国ではないという気安さが、日本の言論を随分と軽いものとしているのではないかということである。自衛隊反対という議論も、そうはいったって日米安保条約があるさという認識とワンセットになっている。それが明確な形で露呈したのは湾岸戦争の時に日本が兵は出さないが多額の戦費はだす、という選択をしたときである。わたくしは朝日新聞が戦費供出反対の大キャンペーンを始めると思っていたところ、そういう動きがまったくないどころか、戦費をだすことについて日本としての最適の選択のような議論まであって仰天した。それまで朝日新聞はあらゆる戦争行為に反対し、戦争ではない手段によって紛争を解決することを社是としているのだと思っていたので、湾岸戦争についても、そういう形での紛争解決には反対であり、そうであれば当然そこに戦費をだすべきではない、という議論が展開されるものとばかり思っていた。ある事態においては紛争を解決する方法として戦争という手段をとることは否定しない。しかし、自分はそこには人としては絶対に参加しない。ただし金をだすことが他のひとが行う紛争解決のための戦争に役にたつのであれば、それを否定することはない、というのはあまりに無茶な議論である。ここにあるのはアメリカに対する途方もない信頼感である。世界の警察はいて欲しいのである。自分は警察官にはならないが税金は払ってます。誰が見ても世界の警察をできるのはアメリカさんしかいませんよね。よろしく! これでアメリカが怒らなかったらどうかしている。
 そういう奇妙な感覚を非常にうまく救い上げたものとして、本書はきわめて説得力のあるものであった。ただし、明治から戦前までアメリカが日本にあたえた影響ということに関してはほとんど議論がなく、明治以降一貫してアメリカが日本のロールモデルになってきたという論を裏打ちするものが乏しいように思った。
 本書の最初のほうで加藤典洋氏の「アメリカの影」が言及されている。そこで加藤氏は主として江藤淳の「成熟と喪失」を論じるのであるが、そこで江藤が提出している「治者」の道と「個人」の道を、鴎外の道と漱石の道でもあるとしている。その分裂をもたらしたものはいうまでもなく明治における西欧受容であるが、その二人にアメリカが大きな影響を与えたようには思えない。それに較べれば、天心の「茶の本」などはずっとアメリカを意識したものあろう。明治以降、日本が西欧に発信しようとするとその相手はアメリカということになったのであろうか? 戦前においても英国やドイツよりもアメリカのほうが大きい存在にみえていたというようなことがあるのだろうか?



(2006年4月1日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

街場のアメリカ論 NTT出版ライブラリーレゾナント017

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