吉田武「虚数の情緒 中学生からの全方位学習法」

  東海大学出版会 2000年2月20日初版


 基本的には数学論、数論の本であるが、それにとどまらない変な本である。著者の「オイラーの贈り物」は数学書としては稀な3万部をこえるベストセラーになったのだそうであるが、eのiπ乗が−1になるというオイラーの法則、対数の底であるeと円周率πそれに虚数単位のiの3つを結びつけた法則を述べたその本にくらべてもさらに変っている。
 とにかく複雑な数式をたくさんふくむ1000ページに喃々とする本の版下を全部自分でつくったというのだから、それだけでもかわっている。
 なにしろ現在の若者のこころに灯をつけようというのである。志をもたせようというのである。今の大人の堕落をなげき、若者の知的頽廃を慷慨し、その若者に数学を通して、なにかをおこさせようとするのである。とにかく著者が愛してやまない数学の魅力を伝えずにはおくものかという気迫が本書には満ち溢れている。
 まず、人生論の説教からはじまる(若者はここで逃げ出さないだろうか?)。個性とは何か、青年よ易きにつくな、生きがいとはなにか、子供とはなにか、民主主義とは何か、文明とは文化とは、読書の意味、「科学」と「技術」、物理と数学、文系と理系、宇宙と人類の歴史、それらが独特の東洋文化、日本文化の称揚とともに語られる。これを読んで意気に感じる若者がどのくらいいるか、おじさんが何か言っているというような感想が大多数ではないだろうか?
 そのあと数論がはじまる。自然数、整数、有理数(著者のいう有比数)、無理数(著者のいう無比数)、実数、虚数(著者のいう想像数)と次第に数の概念が拡張されてゆく。
 本書の眼目は、虚数という2次方程式が常に解をもつために導入された「想像上の数」が、量子力学という現代物理学の最先端の記載において不可欠のものとなっているという驚きにある。(シュレーデインガーの波動方程式には i が含まれる。)
 さて、著者のいう「虚数の情緒」とは数学には美しさがあるということである。数学は単なる論理ではなく、そこに美しさがあるというのである。つまりそれはひとの感情にうったるのだという。しかし、虚数はそのような感情に訴えるものがもっとも乏しい数ではないかという、なにしろそれは「想像上の数」であり、現実に対応するものがなんら認められないように思われるからである。
 しかし、虚数は実在するものか否かという問いはつまらないものであるという。そういうのは西洋的な悪しき二分法的発想であって、東洋的見方による多元的な見方では、そういう単線的な見方でなく、「調和と包摂」によって虚数を丸ごとそれを楽しめるのだという。
 最後は物理学と数学の関連が論じられる。力学の初歩からはじまり、やがて相対性原理から量子力学にいたる道がしめされ、量子力学において虚数がその根底にすえらえることになる。そこにあらわれる「相補性原理」なども二分法を脱した「虚数の情緒」なのであるという。

 養老孟司氏がどこかで、数学者にとっては数学の世界というのは抽象的な思考の産物ではなく、具体的な手触りをもった実在物なのであると書いていたが、本書を読むとまさにそうなのであるなあと思う。
 吉田氏はしかるべく学べば誰にとっても数学とはそのようなものになると信じているようであるが、数学の世界を実在であると感じ取れるひとが数学者になるというほうが実態に近いのではないだろうか?
 ここに述べられている、「可付番式の無限」とか「カントール対角線論法」とかは大分前にデイヴィスの「ブラックホールと宇宙の崩壊」で読んでいたので、特に新味はなかったが、デイヴィスの本ではじめて読んだときは、なんとも奇妙な感じがしたものだった。
 量子力学についても、ファインマンがいろいろ紹介されているが、これもファインマン自身の本のほうがずっとわかりやすいように思う。
 科学や数学の啓蒙書についてはどうも欧米のほうが優れた書き手がたくさんいるように思われる。
 さらに本書では、数学と物理学の啓蒙の過程で、ときどきニュー・サイエンス風のデカルト主義批判みたいなものが顔をだす。そういう点でも奇妙な印象の本である。

 虚数は数学の歴史の上においては16世紀くらいからあらわれ、本格的に論じられたのは19世紀以降であるという。人類の歴史の大部分は虚数をしらなかったわけである。カントは虚数をどのていど知っていたのだろうか?


2006年7月29日 HPより移植