内田樹「レヴィナスと愛の現象学」

  せりか書房 2001年12月15日 初版


 著者の「「おじさん」的思考」を読んで、読んでみる気になった。
 この本を読んで、「「おじさん」的思考」を読んだときには、カソリックかと思ったレヴィナスユダヤ教に依拠していることがわかった。依拠しているというよりユダヤ教のラビであるのかもしれない。
 著者によれば、本書はレヴィナスの弟子である著者が師であるレヴィナスにささげる賛歌ということになる。その点で、これはレヴィナスを批評的に紹介するものでもなく、著者の個性を主張しようとしたものでもなく、著者がみたレヴィナスの像をなんとか言葉にしようとしたものなのである。
 実はそういうスタンス自身がレヴィナスの思想の実践なのであると著者は考えている。
 3部からなる。「師弟論」「他者論」「エロス論」である。
 すでに述べたように、著者はレヴィナスの弟子であると自称している。弟子であるというのはある種の選択をした結果である。レヴィナスを師として完璧であるとするという選択である。レヴィナスは師として完璧ではないかもしれない、しかし、それでもあえて完璧であるとみなすという選択をする、そういう飛躍、跳躍の結果である。そのような選択をすることで、批判的に見ていたのでは見えなったものが見えてくることがある、そういうことである。
 ここで師を神とおきかえれば、これはそのまま信仰つながる。「「おじさん」的思考」を読んでレヴィナスカソリックを思ったのも、そういう思考法が透けてみえるからなのであろう。著者はそういうやりかたをレヴィナスから学んだ。そしてそのやり方でレヴィナスを読む。それはどう考えても研究者のやりかたではなく、弟子のやりかたである、というのが著者が弟子を自称する理由である。
 さらにはここにはユダヤ教における律法学習の伝統がからんでくる。
 師弟関係とは「私の理解も共感も絶した知的鏡位がある」という「物語」を受け入れる、という決断であり、換言すれば、師事するとは「他者がいる」という事実それ自体を学習する経験なのだという。ここで師弟論が他者論につながる。
 師とは弟子によって多様によまれうる書物のようなものである。
 それはユダヤ教の「タルムード」の注解にもつながる。「荒れ狂う牛がもたらした損害は誰が賠償するのか」といったことに対する注解は一定ではなく開かれている。そこではすべてのことは思考されうる。合意をえることではなく、すべてのことを議論し考えつくすことのほうが重要である。しかしそれは恣意的なものではない。ユダヤ教の注解の伝統に則っていなければならない。それも師からの「口伝」に依らねばならない。 「至高」のものは「説明」の内にはなく「運動」の内にこそある。
 レヴィナスのによれば、「主体」と「他者」は同時に生起する。「主体」が「他者」に会うのではなく、ある出来事の内で同時に生起するのである。その人のことを認識も知解もできないという自覚が「他者」を出現させる。
 不在の神になお信を置きうる人間を成熟した人間と呼ぶ、とレヴィナスは書いている。救い主が現れることを待望したり、歴史がいずれ正義を実現すると期待するものは責任をもつ主体にはなれないのである。
 「ひとはいかにしておのれ自身の外へ出て、他者と出会うことができるのか」というのがレヴィナスの生涯の問いであった。
 「書物」について考えてみよう。「書物」についていくら視覚的に観察し、想像してもても「書物」のもつ意味を十全に認識することはできない。「書物」は読まれないかぎり、その意味を開示しない。
 「視線は殺し、歌は生かす」。見ることは支配し、権力をふるうことである。「見る」のではなく「聞く」ことが重要である。「聖書」において、預言者の前に現れる主は「聞こえる」が「見えない」。「みすがた」は見えないが、「みことば」はきこえる。「創世記」においても、光より先に音がある。「そのとき神が「光あれ」とおおせられた。すると光ができた。」
 神を同定しようとしてはならない。神が人間にとって意味があること、「神をめざす」ことができるということが重要なのである。
 神にできないことは、一つは神を恐れることであり、もう一つは「人間の犯した罪を取り消すこと」である。その責務は果たすために、人間は神に召還され、「私はここにいます」と応える。
 最後の「エロス論」はレヴィナスが「男性中心主義」であるとするフェミニストからの非難への弁明のような部分である。
 等格な他者との間にはモラルは構築できない、なぜなら先に身を引くという行為がモラルをつくるからである。そこには自分がされたたくないことは他人にもしない、という「合理的」なロック流の道徳観しかでてこない。
 しかし正義と倫理は異なるのであって、「私たちは全員すべてについて、おたがいに対して、罪を負っています。そして私は他の誰よりも罪が深いのです」(『カラマーゾフの兄弟』)の言葉は、そこからはでてこない。
 このような関係の比喩として「男」と「女」が用いられているのであり、現実の男女の関係についてレヴィナスは語っていないというのが、著者の弁明である。
 しかし、わたくしがここで理解した限り、レヴィナスが「女性」という言葉で言おうとしたものものは、ドストエフスキーにおける「スラブ」、何らかの「無垢なるもの」、罪の意識に汚染されない絶対的な善、といったものに近いのではないかという気がした。

 この本で読んだ限りにおいても、レヴィナスというのがスケールの大きな思想家であることは間違いないように思われる。思想家というより倫理家であろうか。レヴィナスフッサールハイデガーという二人の哲学者を自分の思想の敵手とみなしたようである。しかしフッサールハイデガーも倫理家という印象はない。むしろレヴィナスは肌触りとしてはニーチェあるいは実存主義哲学者に近いような印象をうける。
 近代的というようりもむしろ古代的な印象をあたえる思想家である。
 フッサールとかハイデガーあるいはポストモダンの思想家というのがどうも苦手である。なんだかどうでもいいことをひたすら議論しているように思えてならない。そのなかでレヴィナスという思想家はちょうどいい補助線を引いてくれるのかもしれない。


2006年7月29日 HPより移植