熊野純彦「レヴィナス入門」

  ちくま新書 1999年5月20日初版


 内田氏の論がまさに弟子としてのレヴィナス論であるとすれば、第三者によるレヴィナス論である。内田氏の描くのが躁状態レヴィナスであるとすれば、欝状態のレヴィナスである。
 歴史の中のフランス5月革命の同時代者としてのレヴィナスである。
 ここでの議論はフッサールハイデガーの(わたしには一番つまらない部分に思える)議論の地平でのレヴィナスを論じる。
 内田氏の本ではほとんど最初から最後まで主役になるユダヤ教は本の最後の数ページでようやく現れるに過ぎない。
 しかし内田氏の本を読んだあとではユダヤ教を抜きにレヴィナスを論じることはできないようにわたくしには思われる。
 レヴィナスはいたって倫理的な思想家であるように思われるが、倫理はある種の非合理の上にでなければ打ち立てることができないように思われる。そういう非合理を前提している点においてレヴィナスは近代的な思想家ではないのである。おろらくロレンスやニーチェなどの系譜につながる思想家なのだと思われる。
 宗教の本質が「不合理ゆえに我信ず」ということにあるとすれば、問題はわれわれが不合理を本当に信ずることができるか、という点に帰着するように思われる。
 不合理は、ある種の跳躍なしには受け入れることはできない。宗教は跳躍を必要とする。
 現代の人間がそのような跳躍をすることでできるかだろうか? そこのところを問うことなしにレヴィナスの論を議論することは、ある種の不毛にいきついてしまうようにわたくしには思われる。


2006年7月29日 HPより移植