加藤隆「一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ」

  講談社現代選書 2002年5月20日初版


 ユダヤキリスト教的な全能の神が存在すると仮定する。その神のおこないは人間の理解を超えているはずである。そうであるなら、神というものについて、人間があれこれと考えて議論することに何か意味があるだろうかという疑問が、当然生じる。神について人間が議論すること自体、人間の驕りではないだろうか? しかし、そういう議論が驕りではないかと考えること自体が人間の驕りではないか? と考えること自体人間の驕りではないか?・・・以下、無限退行。どうも神についての議論というのは自己言及のパラドックスにどこか通じるものがあるような気がする。
 加藤氏の本はこの本をふくめて3冊読んだが(他に、「『新約聖書』の誕生」(1999)「福音書=四つの物語」(2004)いづれ講談社選書メチエ)、どれも一見、学術書のような本でありながら、引用文献、参照文献の紹介がないという一種異様な本で、ひたすらキリスト教についての自説を展開していく。 氏には、自身にとってのキリスト教の姿がはっきりと見えていて(著書から見ると氏は自身をクリスチャンとしていいのであろうと思うのだが、そのことについて著作中に一切言及していないのはアンフェアなように思われる)、それこそがキリスト教であるとしているのは確かなのだが、それにもかかわらず、イエスは神なのだろうかというようなことを書いている以上は三位一体説に疑問をもっているのも確かで、正統のクリスチャンともいえないようである。
 著者も述べているように、9・11事件以来、一神教への(多くは否定的な?)関心が高まっている。この事件は自分のみが正しいと信じるもの同士の衝突であるという観点から、わが神のみ正しとする一神教が諸悪の根源ではないか、一神教こそが世に厄をもたらすものではないかという見解が大きな流れになってきた。しかし、そういう関心から本書を読むと肩透かしをくう。9・11が政治的な背景をもっていることはいうまでもないが、ここで論じられることはひたすら神学的な議論なのである。
 あとがきで著者もいっているように、神学とは神について人間が論じるものであるが、それが根本的にあさっての方向を向いている議論なのではないかという疑問が最後まで消えなかった。それは神を信じない人にとってはどうでもいいことであり、また信仰をもつ人にとっては賢しらに過ぎないのではないかという疑問である。
 キリスト教ユダヤ教から生じたことはいうまでもない。ユダヤ教ユダヤ民族のための民族宗教であり、その神はユダヤ人を助け、ユダヤ人を救済するはずであった。しかし、出エジプトはいざ知らず、バビロン捕囚でもその後のローマ支配においても、神は動かなかった、介入しなかったのである。ただただユダヤ人のためにある神であるはずなのに、ユダヤ人の苦境にたいして何もしてくれなかった。通常ならユダヤ民族はそれまで崇めていたヤーヴェ神を捨てるはずである。しかし、ユダヤ人はそれをしなかった。神が動かなかったのは、自分たちの信仰が足りなかったためである、という実に奇妙なかたちで、神を動かなかったことに納得するという行動にでたのである。加藤氏もいうように、自分たちの民族を助けてくれる神というのは現世利益の神である。しかし、神との契約という奇妙な考えを発明したことにより、ユダヤ教は現世利益の宗教からワンランクアップした。
 しかし、信仰が足りなければ助けない、信仰が十分であるなら助けるというのも、加藤氏のいうように現世利益の変形である。そしてこれは『神の前での自己正当化』という、加藤氏がこの本のキーワードにしている、加藤氏によれば、宗教としてもっとも忌むべき行動につながる。わたくしはいい人間であるから、信仰に篤いから、神は自分を救済してくれるはずだ、あいつは悪い人間だから、信仰の薄い人間だから、神は見捨てるはずだ・・・。これは神がどのような行動をとるかを人間の側が操作できるという考えである点で、神の前での人間の思い上がりであり、救われる人間とそうでない人間を分けるという点で、根本的に宗教に反する態度である。
 そこにイエスが現れたと加藤氏はいう。神の介入が目前にせまっていることを告げるために。神がまさに介入しようとしているのは、人間が善なる存在になったためではない。人間は一向に変わっていないにもかかわらず、神の一方的な善意として介入しようとしているのである。とすれば、神は善きものだけを救うなどということはない。すべての人間を救うのである。このことによってキリスト教は、ユダヤ民族のための宗教であるユダヤ教の一分派から、普遍的な人類のための宗教になったと、加藤氏はいう。ユダヤの神は知らん顔をしていたが、イエスの説く神は人間の面倒を見ることにしたのである。神とは契約する必要はないのである。
 しかし、イエスが伝えたのは、神の介入が行われる、神の国が目前にせまっているというよい知らせ(=福音)、情報だけである。はたしてイエスがいったように、神が本当に介入したのかはわからない。2000年の歴史のキリスト教は、イエスが伝えた「神」の介入のその「神」が、ユダヤ教の神であるヤーヴェであるのかどうか、あるいはイエスがいったように、もう神の介入が始まっているのかどうかという点について、答えを出していない。教会は、どんな神かはよくわからないが、もうすぐ神がきますといい続けて、2000年が経ってしまったのかもしれないのである。イエス使徒たちは、この福音を伝道し、使徒を継いだ教会がまたその福音を伝え続けて2000年がたってしまった。
 加藤氏は、この福音の伝道の便宜のためにイエスは神格化され、精霊などというものが発明され、教会が権威化されたのだという。本当は、イエスは神が介入するということを伝えにきただけの人であり、イエスのいう神とはヤーヴェ神とは別の神である。使徒や協会を権威化するための聖霊などというものは存在しない、というのが加藤氏の理解するキリスト教のようである。三位一体というわけのわからないもののない、きわめてすっきりした一神論である。
 しかし、ここで最初にもどる。加藤氏のいうこともまた『神の前での自己正当化』ではないのかということである。加藤氏は自分の描くイエス像、キリスト教像が正しいと思っている。しかし、加藤氏は神ではない。人間である。人間である加藤氏が神について、あることを正しいと主張する。そのこと自体が『神の前での自己正当化』であり、傲慢なのではないかという疑問が否応なしに生じてくる。加藤氏の書いている本の内容が、加藤氏が書いているという行為自体を批判するという構造が生じてきてしまうのである。自己言及のパラドックスをどうしても避けることができない。加藤氏の書いていることが、壮大な不毛にみえる所以である。
 そもそも神が存在するとしても、それが介入するかどうかはそれはすべて神の思し召しである。人間が思い煩ってどうなることでもない。そうであるなら、なぜその福音を伝えることが必要になるのだろうか? もしもマルクス主義の説が正しく、生産力の増大により自然に共産主義社会となるのであれば、あくせく資本主義打倒の運動などする必要はないではないかという議論があるが、それと同じで、神が介入するのであれば、われわれがどうであろうと介入するのであるから、そのことを広く伝えようと伝えまいと同じことなのではないだろうか?
 しかし、われわれが何をしようと神は知らん顔というのでは人間は心もとないのである。こうすれば神は自分の方を向いてくれると思わなければ、不安なのである。なぜならば、人間と神は無関係なものではないからで、神とは人間の頭が作ったものだからなのである。
 神とは人間が作ったものであるとするならば、『神の前での自己正当化』はどうやっても避けることはできない。そして加藤氏が『神の前での自己正当化』を何よりも否定すべきものであるとするのは、そうしなければ、神は人間がつくったものであることになってしまい、神が人間に従属するものとなってしまうからである。
 加藤氏は、一点、神の絶対性を守ろうとする。それは神もまた人間の頭脳がつくりだしたものであるという当たり前のことをどうしても認めようとしないからである。そうすれば、どうしても最後の最後で、<不合理ゆえに我信ず>という方向にいかざるをえない。ユダヤ教の歴史からキリスト教の歴史を、きわめて理性的・論理的に論じていながら、一点、神がいるということを信仰から前提しているため、飛躍がおきる。そうすると、キリスト教が現在のような形になったのはさまざまな偶然によるものであり、なんら必然性をもたないという、誰でも納得できる議論可能な立論と、そうであるから現在の教会のありかたはなんら必然性をもたないのであり、まったく別のキリスト教信仰がありうるという、キリスト教信仰をもつもの内部にしかかかわらない議論が、木に竹を接いだような形ででてきてしまう。
 現代西欧社会はキリスト教の圧倒的な影響のもとで成立している。われわれがこういう本を読むことに意義があるとすれば、それは、その巨大なキリスト教を相対化してみることのできる視点をうることでできるという点にある。とすれば、こういう本を書くひとはキリスト教信仰の外にいる人でないと具合が悪いのではないだろうか?
 それにしても、信仰を論じるとどこかで悪人勝機説とつながっていくのだなということを強く感じた。現在の教会において、洗礼ということをどう説明しているのだろうか? それをすることで、神が聖霊を通して介入することになっているのだろうか? 南無阿弥陀仏と一回でも唱えれば往生できるというようなものなのだろうか?
 

(2006年5月7日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)

一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)