橋本治 「ひらがな日本美術史6」

  新潮社 2004年10月25日 初版

 
 その最終章「弥生的ではないもの」のみ。
日本の美術をつらぬくものは、弥生的なものである。弥生的なものとは、うっとうしくないもの、優美なもの、ごつごつしていないものである。縄文的なものはついに日本の主流とはならなかった。東の縄文と西の弥生が並存していた時期もあったが、結局、西が日本の文化をずっと担っていくことになる。鎌倉の東国武士文化も京都の貴族文化に吸収されてしまう。
 江戸は例外で、京都と江戸と中心が二つできた。江戸も基本的には弥生であるが、どこかに縄文の過剰を残している。
 日本では、弥生からずれるものは”変”と認識される。そして、”変”なものは排斥されず、弥生的なものに吸収されていく。弥生文化は日本の坩堝である。なんでもそのなかに溶かし込んでしまう。
 京と江戸という二つの中心があったからこそ、明治に江戸で西洋を受け入れることができた。しかし、そこに流入したものがあまりに膨大であったため、坩堝は坩堝として機能しなくなった。弥生的なもの、日本的な坩堝は古臭いものとして廃棄されてしまうのである。だから、北斎や広重がヨーロッパの画家に影響を与えるが、近代の日本の画家には影響を与えないという変なことがおきる。明治のはじめにおいて、西洋は膨大な”変”であったはずなのである。その”変”を今までの自分のありかたに位置付けることをせず、”変”ではなく正しいのだと思い込むことによって、それまでの自分の美意識を捨ててしまった。なんという愚かなことをしたのだろうか!

 以上の橋本の立論は、直接には美術について論じたものであるが、もちろん、日本の文化全体にかかわる。要するに明治のはじめにおいて、西欧と日本をくらべれば、どう考えても、日本のほうが洗練していて、西欧が野蛮であったのだから、その洗練を捨てるということはまことに愚かなことであったのである。
 洗練とは、ともすれば瑣末主義や無気力に通じるものであり、野蛮はその底に若さと生命力を宿しているものであるから、うまくやれば、弥生文化の若返りができたかもしれないのである。
 さて、それでは、西欧文明とは縄文的なものなのだろうか? 吉田健一ならヨーロッパ18世紀は弥生、19世紀は縄文というであろうか? 本来、たおやめぶりはますらおぶりには勝てないはずなのである。だから西欧においてはますらおぶりが主流であった。日本はますらおぶりがどこかでたおやめぶりに敬意を払うという特異な文化であったのかもしれない。中国では武は常にいやしいものとされ、文官の儒教教養がつねに優位にたってきた。日本は中国と西欧の中間にいるということなのだろうか?
 日本的なものの核心は弥生的なのであるという断言をためらいなくしてしまうところが橋本治である。



(2006年5月7日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

ひらがな日本美術史 6

ひらがな日本美術史 6