小谷野敦 「バカのための読書術」

  ちくま新書 2001年1月20日初版



 最近歴史関係の本を少し読んでいるのは本書の影響もある。バカは歴史を中心に読書をすべきというのが本書の主張である。
 ところでここでバカとは、哲学とか数学とか抽象的なことが苦手というひとのことなのだそうである。それで自分は哲学とか数学とか抽象的なことが苦手だろうかと考えてみる。一時期、数学基礎論のような本を面白がって読んでいた時期があり、数学自体はいたって苦手でありながら、数学とはいかなるものかというようなことを考えるのは嫌いではない。哲学は苦手で、高校のときだったか、はじめてプラトンイデア論を知って、なんとばかばかしいことをいっているのだろう思った記憶があるから、筋金入りのただもの論者である。かつて一度も来世だとか霊魂だとかの存在を信じたことはない。宗教心ゼロであり、超越的なことに関心がなく、およそ哲学には不向きな人間である。
 いままで哲学関係の本を読んで少しでもわかったような気がしたのはポパーのものだけである。哲学を専攻しているひとからみると、ポパーはほとんど哲学者ではないかもしれない。わたくしのプラトン理解もカント理解もすべてポパー経由である。
 とすれば、わたくしは十分にバカであることになる。
 それで、バカはいきなり思想にとりつこうなどとしてはならない。事実につけ、というのである。現代の思想家などは存外歴史的事実をしらないから、思想で議論せず、事実で議論したらさしで勝負できる、まず歴史を勉強せよという。
 だから、たとえば、岸田秀河合隼雄の本はいくら面白くても「学問」「科学」ではない、あるいはユングはカルトであるという。そういう本でなく、精神医学の本、中井久夫のエッセイなどを読めという。わたしは岸田も河合も中井もみな読んでいるけれども、たしかに岸田や河合のものはあまりにうまく物事を説明しすぎる点が要注意という気はする。
 小谷野の基準でいうと養老孟司の本などはどう評価されるのだろうか? 小谷野がいんちきという中沢新一なみだろうか? 小谷野の梅原猛評価は微妙である。その「水底の歌」は学問的には、すなわち事実につくという点では、落第のようである。しかし、それにもかかわらず小谷野は梅原氏への親近感を隠さない。養老の本も、事実につくという点からいえば、穴だらけであろう。それにもかかわらず、養老の書くものには太い筋が一本通っている。梅原の本は読んでいないが、その著作をつらぬく何かがあるのであろう。事実についた本が往々にして無味乾燥であるのは、そこに何にも筋が通っていないことが多いからである。岸田の本も河合の本もそして中沢の本も、そこに筋がある。著者の顔が明確に見える。そういう本のほうが読んで面白いのである。
 書きたいことがあっても、その書きたいことを優先して事実を疎かにするような本は学問ではない。書きたいことは、あることが事実どうであったかということだけの本は、学問ではあっても面白くない。書きたいことがあり、しかも自分の見解に反する事実への目配りもわすれないという本がベストなのであろう。しかし、事実にあまりに拘泥すると、太い巨視的な主張ができなくなってしまう。しかし、そうはいっても、最近の本はあまりに事実への配慮にかけているものが多い。それが小谷野が本書を書いた一番の理由なのかもしれない。

(2006年5月7日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


バカのための読書術 (ちくま新書)

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