上野千鶴子 小倉千加子 富岡多恵子 「男流文学論」

   ちくま文庫 1997年9月24日初版 原著は1992年1月初版


 いやーあ、面白かった。もっと早く読むのだった。風評では、フェミニズムの論客3人が、男性作家をあたるを幸いなぎ倒す。後には死屍累々。というような話だったので、怖い、怖い、近づくのはよそうと思っていた。でも読んでみれば、そんなに怖くはなかった。

 吉行淳之介編:
 まずのっけから、小倉が、うちのとうちゃんと同じくらいの年齢の吉行が、うちのとうちゃんなんかまじめに一生懸命働いているのに、女遊びばかりして、しかもそれを小説にして、立派な文学者などといわれているのはゆるせない、といいだす。非常に態度がはっきりしているのだけれど、上野の態度は微妙である。頭では批判しているが、どうももてる男というのがきらいではない、というのが透けてみえる。吉行は女嫌いなのである、というのが三者の共通の意見なのだが、上野は、吉行が女好きになって、自分のところにきてくれたらいいなあというようなところがどこかにある。女嫌いとは、女を劣るものとみて、一人前のものとはみていないということなのだが、吉行が自立?して、女を対等のものとしてみてあつかう真人間になれば、相手してあげんでもないのに、という感じである。もっとも吉行の小説を読めば、上野のようなタイプの女性に関心をもつとは思えないのだが(それにしても、どうして吉行は宮城まり子ような女性とああなってしまったのだろう? 不思議)。この本で紹介されている奥本大三郎の言が面白い。吉行を愛読する女性などというのは、猟師の鉄砲にとまる小鳥のようなものである。至言。
 吉行の態度の基本は、相手を完全に支配して、相手からは一切の介入をゆるさない、という関係なのだが、その男女関係を入れ替えて、女が男を完全に支配して、相手には自分の自我には指一本ふれさせず、ただ快楽でのみ関係するというようなことを、どう考えるかであり。富岡ははっきり否定的である。そういうものからは深い快楽は得られないと。上野も否定はしているのだけれど、どうもそれは頭での否定であって、体はそうでもないのではないかなあ、という感じがする。総じて、この本で、上野の言が一番観念的・理念的で頭でっかちな感じ。富岡は小説の実作者の生理みたいなものがあって、うまくいえないが何か変という感覚が鋭い。小倉はわからないこと関心のないところには口をださないという態度が潔い。上野なんかはあらゆることに常にはっきりとした意見があるのである。

 島尾敏雄編:
 わたしは島尾敏雄を読んでいない(「死の棘」を四分の一くらい読んで挫折)。
 上野によれば、「私があなたを愛したようにあなたは私を愛してくれたことがあるの」というのは、あらゆる女が男を問い詰めるときのセリフなんだそうである。富岡も私もそんなこと言ったかな、といっている。ぼくもそんなこといわれたかな? 
 上野は、20年くらい前には自分もそういう恋愛をしたかなといい、10位年の間に、そういう古典的恋愛から脱近代まであっという間にかけぬけてしまったという。最後のほうにある上野と小倉による、偽島尾と偽ミホの模擬戦は抱腹絶倒である。二人とも役者やのう。ここで小倉がミホを非常に客観的な目でみているのが面白い。男も男なら女も女。

 谷崎潤一郎編:
 論じられているのは、「卍」と「痴人の愛」。わたくしはどちらも読んでいない。
 上野は谷崎が霊肉分離という発想をしている点できわめて近代的な人間であるという。女という精神においておとる性に、肉体において屈服するという構造。
 上野の仮定では精神において男女は平等である。しかし谷崎においては、女は劣る性というカテゴリーとして捉えられているから、男女の間での本当の交渉、相互の影響のし合いというものはない。男が変わるとしても、女の精神によって変わるのではなく、女の肉体によって変わるのである。馬鹿にしているではないか! わたしたち女は精神において男とかかわりたいのだ! わたしたちはペットではない! 人間なんだ! 人間同士として、男とセックスしたい!
 でもね、と小倉はいう。そういう男の弱みを利用して、男と精神的に関わりたいなんて子供みたいなことはいわずに、優雅に暮らしている女人がいる。われわれよりああいう人たちのほうが、よっぽど真実をわかっているとは思いません? たまたまわたしは不幸なことにフェミニストなどというものになってしまった。なって全然幸福ではない。女は本当は不幸であるという真実を知ったという自負はあっても、現実にその不幸を生きざるをえない人間と、そういう不幸にうすうす気づいてはいても、そんなものはないようなふりをして、女の幸福は綺麗なおべべを着ることと割り切って、幸福ではなくても幸福なふりをしているひと、どちらが高級だろうか? と。
 フェミニズムって日本の自然主義文学みたいなものだろうか? 本来の人間というのはこんなに殺伐としたものなのだ、幸せな人生をおくっていると思っている人間はみな真実に目覚めていない人間なのだ、ということをいうための文学。究極の余計なお世話?
 それで問題は本当に男女は平等なのだろうかということである。性差というのは生物学的なものであるが、その生物学的なものが男女の差を決めているのだとしたら、恋愛あるいは一般の男女関係の位相というのも、大幅に生物学的なものに根拠をもっているのだとしたら、それを後天的な文化的な装置によってどれだけ修正することが可能なのだろうかという問題である。男女は白紙で生まれ、男女差というものはすべて後天的に文化によって植えつけられるものであるにもかかわらず、その文化によって植えつけられたことを事実であるかと誤認し、男が女よりすぐれている、精神は男のものであると男が思っているとしたら、男は馬鹿である。しかし、生物学的根拠によって男が優れているのだとしたら・・・。まあ、ここで優れているという言葉を用いるからおかしくなる。男女は異なったものである、違ったものである、というなら、そうとうに議論可能な論である。男女にはなんら差がなく、文化によって差があるように思い込まされている、というのがフェミニズムの地盤なのだが・・・。

 小島信夫編:
 論じられるのは「抱擁家族」。これは読んでいる、というか、江藤淳の「成熟と喪失」を読んで、そこで紹介されている小説として読んだ。
 ここでの上野ははじめて鎧兜を脱いで、江藤淳へのオマージュを語る。すくなとも「成熟と喪失」時代の江藤への。江藤は男流作家ではないのかな? なんかここでの上野はひとが変わったみたいに男に同情的。
 ここで小倉のいう専業主婦の無残さ、というのがポイント。専業主婦の無残は芦屋の優雅な奥様と対照される。専業主婦でも自立への意思をもつひとは芦屋の夫人に、全面的に夫に依存しているひとは無残な主婦に。
 いみじくも小倉がいう。上野は不真面目の薦め、自分は自活の薦め。上野はもともと無残な専業主婦になるような下々のものには興味がないのである。このひとは、だから、本当は頭がいい男というのも好きなのだと思う。というか上野千鶴子って男だなあ、と思う。だから男遊びも否定しないだろうと思う(自立した男女間の遊び)。吉行や島尾や谷崎が否定されるのは、彼らがみな、自立していない女性を相手にしているからなのである。真面目な主婦は小倉に、不真面目な主婦は上野に。そこで富岡が茶々。なんで一人でいるひとがいないの? おっさんを捨てて一人におなり! 小倉いわく、そんなことようしませんねん。

 村上春樹編:
 論じられるのは「ノルウェイの森」のみ。なんで「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が論じられないのだろうというのが疑問。
 ここでは富岡対上野・小倉連合軍。上野・小倉連合軍「女はみな現在病気にかかっている。社会がつくった病気であり、男が作った病気である。だから男が癒す義務がある。」 それに対して、富岡は何いってるんだ、甘えるんじゃない。連合軍「いえ、女は甘える権利があります。」
 でも上野は、村上の描く男の子が相手のいやなことをしないという点を評価するのに対して、小倉はそういう男の子は人生に根本的に不真面目だと考えるし、富岡はそういうクールさ自体を否定し、熱くない人生など何が面白いのだという。
 この部分を読むと、小倉千加子は道徳的な人だなあと思う。

 三島由紀夫編:
 「鏡子の家」「仮面の告白」「禁色」をとりあげている。わたくしは後の二つは途中で挫折して最後までは読んでいない。村上春樹で「ノルウェイの森」をとりあげるなら、なんで「永すぎた春」とか「美徳のよろめき」とかをとりあげないのだろう、というのが疑問。
 富岡の「三島は結婚がいやだったから死んだ」説。これは本当だろうと思う。結婚についてたかをくくっていたが、実際に結婚してみたらそんな甘いものではないとわかった。それで死んだ、という説。小倉は肯定的、上野はぶんむくれて反論。上野は愛情にもとづく結婚なんて下々のすることで、貴族ははなから結婚にそんなものを期待していない。そうだとすれば、たかだか結婚などというもので死ぬなんてことはありえないという。女はそんな純情ではありません、と。
 ここで小倉は上野を貴族主義者であると批判するのだが、それは民主主義が善という多数の了解に安易に乗っかっている批判ではあるが、上野の立脚点の危うさをついている。間違いなく上野は貴族主義者ではあり、駄目な女にはえらく冷たい。もちろん、貴族主義をどう評価するかというのは大問題であり、貴族主義であるから悪いなどということはアプリオリには言えないのだが・・・。
 
 この本が出版されたのが1992年1月だから、対談は1991年であろう。(あとから考えれば)バブル経済が破綻し、失われた10年がはじまろうとしていたころである。アッシー君とかミツグ君などというのがいわれたのはその前あたりであったろうか? 逆玉なんて言葉もあった。そのころの若者たちは今どんな生活をしているのだろうか?
 上野は、20年くらい前のウブな自分が、10位年の間に、古典的恋愛から脱近代まであっという間にかけぬけてしまったという。そのあとさらに15年という時間が経過している。自分のことを考えても、わたくしの二十歳台には、適齢期などという言葉があり、女は25歳を過ぎたら婚期を失したということになっていた。三十歳を過ぎても女が平然と(では本当はないかのかもしれないが)独身を謳歌している(のでは本当はないかもしれないが)のとは、隔世の感がある。日本は変わった。あるいは少なくとも何かが壊れた。その破壊にかんしてフェミニズムは何がしか寄与するところがあったかもしれない。
 吉行について三人とも、吉行が女嫌いであると批判する。その吉行に「春夏秋冬女は怖い」という本がある。副題が「なんにもわるいことしないのに」である。自分は何にも悪いことをしているわけではないのに女が怖い、なぜなんだろう、というわけである。この本を上野は徹底的に批判しているけれども、吉行のために弁護すれば、ここで吉行がいっていることは、男は後ろめたい生き物であって、女は後ろめたさを感じない生き物なのである、ということだけなのではないだろうか? だから女はつよく、男は怖い。
 わたくしはあなたを愛しているのに、あなたはわたしを愛していない!なんて論理的には滅茶苦茶としかいいようのないことを女が平気でいえるのは、女はたとえ自分が正しくないときでも自分のことを正しいという思い込みをできる存在であり、男は自分が正しい時であっても、自分の正しさが信じられない存在であるからである。
 そのどちらが高級であるかといえば、もちろん男が高級であって、しかし自分を信じられる人間と自分が信じられない人間が戦ったら、自分が信じられる人間のほうが強いにきまっているから、男は必敗の定めにある存在でもあるのである。しかし必敗の定めから抜け出す道はなにかないだろうか、ということで男は知性を用いてさまざまな理論武装をするのである。そのような理論で身を鎧うことによって、ようやく男は女の前にでていけるようになる。だから、男はこれら理論に自信をもっているわけではない。自分の身をまもるための方便だと思っている。それを本書は容赦なくあばくわけである。あんたの理論はいんちきだ!というわけである。いんちきであることは本人が先刻承知なわけである。しかし、そのいんちきなしには生きていけないほど、男とは弱い存在なのである。なんてことを三島由紀夫が「第二の性」でいっていたが、本当かな? 男はあらゆる理由づけを総動員して、男性優位社会という既得権をまもろうとしているだけであるのかもしれないし、後ろめたいふりをしているだけかもし。なにしろ男は頭がいいから。
 「死の刺」において、島尾はうしろめたい。しかしミホは自分のうちに後ろめたさを感じていない。自分には島尾を撃つ権利があると思っている。すべての男が女房が怖いのは、男が後ろめたいのに、女房は自分が正しいと信じられるからである。「春夏秋冬・・・」によれば、遠藤周作は夫婦喧嘩をすると、「弱いものいじめをするな」と叫ぶのだそうである。
 ここでとりあげられている作家の中でただひとり谷崎だけは後ろめたさを感じない人間なのだと思う。そして村上春樹の小説では、でてくる女性がすべて後ろめたさを感じている(自己肯定をできない)という点で他の作家のものとは異なる。だから村上の小説の女性は男に侵入してこない、たいへん男にとっては扱いやすい女なのである。デタッチメントとかいうのかな? フェミニズムから嫌われる女だけれど。
 ここで取り上げられている作家はすべて、マッチョの匂いがしない。いくら三島がボディビルをしても、村上がフルマラソンを完走しても、マッチョとは縁もゆかりもない。もともとフェミニズムとはマッチョ的なものへのアンチとしてでてきたのではないだろうか? ずっと昔にはフェミニストといえば女性にやさしい男という意味であった。そういう意味でならここに取り上げられた作家はみなフェミニストである。しかし、そのやさしさこそが女性を抑圧するものである、ということになれば、一転して、かれらは論難の対象となってしまう。マッチョは本を読まない。フェミニストのいうことなど馬耳東風。だから、フェミニストは本を読むひとを相手にせざるをえなくなる。女房をなぐる蹴る。博打と女に散財して家にはまったく金を入れない、奥さんが内職でほそぼそと生活している、などという状況はフェミニズムの対象とはならない。とくに上野はまったくそういう状況に関心をしめさない。小倉のみがそういう状況こそが問題ではないか、フェミニズムは明後日の方向にむいているのではないかという危惧をもっているようにみえる。富岡は究極のところ作家として、関心があるのは自分のことだけであるように思える。
 小島信夫のところで、上野が江藤淳伊藤整・安岡正太郎の鼎談を評して、みな女房を別人格とは思っていない、なんという野蛮といっている。そういうことをいえば、独立した人格同士の孤独という問題がそこから先にでてくるわけだが、はたして多くのひとにその孤独にたえるだけの強さがあるのだろうか? 富岡はみんなもっと孤独になれ!というのだが、そういうのは一部の本当に強いひとだけに可能なことであるという反論がきそうである。
 そして孤独になりうる前提としての経済的独立ということがある。村上龍フェミニストというひとはいないだろうが、村上が最近いっているのは、経済的に自立しうるだけの技術・手段をもたない人間はこれから徹底的に不利であるということである。作家を斬ったりするよりもよほどそういう提言のほうが有用でありそうな気がする。しかし、はたして村上龍の言葉がどこまで女たちに届いているのか? それもまた疑問であるが・・・。
 本書の最後はセックスなどというのは大したものではない、という三人の確認でおわる。近代は余りに性に比重を置きすぎていた時代であり、その近代はやっと終わろうとしているというのである。しかし、そうだろうか? どこかで橋本治が、性という問題についてはまともな答えをだした人間はまだだれもいない、と書いていた。セックスというものが大したものではないということになると、女は自己肯定の最大の根拠を失うのではないだろうか? 自己肯定できない女というのは、男にとって怖いものではなくなる。それが女性にとって幸福なことであるとも思えないのだが・・・。不幸になっても真実をとるというこことなのだろうか?

 2004・11・26付記:まったくの思い込みで小倉氏の名前を間違って覚えており、誤記していたことに本日気がついて、訂正した。著者の名前を間違えるなど、軽率の極みである。失礼の段、小倉氏にふかくお詫びもうしあげる。


(2006年5月7日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


男流文学論 (ちくま文庫)

男流文学論 (ちくま文庫)