高島俊男 「中国の大盗賊・完全版」

   講談社現代新書 2004年10月20日初版 非完全版?の初版は1989年11月


 わたしが通った中学高校は変わった学校で、漢文の時間が無闇と多かった。おそらく修身の時間の代用のつもりであったのだろう。子曰く朋あり遠方より来るまた楽しからずや・・・。もちろん、明治のひとのような四書五経の教養には及ぶべくもないけれども、いささかでも漢文を学んだ最後の世代かもしれない。
 われわれの中国像というのはほとんど漢文と山水画だけによって構成されている可能性がある。巍々たる山奥にひっそりとむすばれた庵、そこで暮らすまるで仙人のような老人。国破山河在 城春草木深 ・・・。
 そういう中国のイメージを根底から覆す本である。
 中国は盗賊の国であった、中国歴代王朝の相当は盗賊が打ち立てた国であった、というのが本書の主張である。そして最大の眼目が、現代の中華人民共和国だって盗賊が打ち立てた王朝のひとつにすぎないのだよということにある。そして本書を読んでくると、本当にそうなんだなあという気になる。
 なかでも衝撃的なのが、毛沢東マルクスの本なんかほとんど読んでいないだろう、せいぜい誰かの書いた「マルクス主義早分かり」といったパンフレット程度のものしか読んでいないだろうという部分である。わたくしは読んでいないが「矛盾論」とかいう本を毛沢東は書いていなかっただろうか? 毛沢東は大インテリであるが、彼は中国歴代のインテリがそうであったように徹底的に文人であり詩を書くひとであって、思想の人ではないという。歴代の王朝を簒奪した盗賊たちは(例外はあっても)大部分粗野で乱暴で文字を解せぬものたちであったなかで、大インテリであった点は異なるが、それでも盗賊であったことにはかわりがないという。
 この本を読んで思い出すのが、ここでもとりあげたことのある岡田英弘氏の「この厄介な国、中国」(ワック文庫)である。その主張するところはきわめてよく似ている。共産主義という色眼鏡をはずしてみると、中国はまったく違った姿で見えてくるということであろう。
 この本を読んで感じるのは中国には進歩というか、あるいは少なくとも変化というものがほとんど見られないのではないかということである。違いは誰が皇帝になっているかということであって、2000年前と現在とでほとんど基本的な国の運営の仕方が変わっていないのではないかということである。もっといえば、全然国家の体をなしていないのではないかということでもある。
 日本の歴史では、平安時代鎌倉時代室町時代、戦国時代、江戸時代はそれぞれ違う仕組みのもとで運営されているということはいえるであろう。同じ律令制度のもとで運営されているといっても、そこに明白な違いを見てとることができる。しかし、中国ではそういうことがおきているようには見えないのである。
 現代ある国民国家の目で過去の歴史をみると非常な過ちを犯しやすいことはいうまでもないが、中国ほどそれがはっきりする国はないであろう。
 いくつか生じた疑問。日清戦争の時、日本が戦った清国の軍隊の実態は何だったのだろうか? 盗賊? 私兵? 今次大戦において、日本は中国を侵略したといっても、それが支配したのは、都市という点だけであり、膨大な面をおさえることはできなかった(だから駄目だった)という指摘がよくされるが、中国歴代王朝だって(あるいは現在の中華人民共和国だって)支配しているのは都市という点だけということにおいては変わりがないのではないか? 日本の歴史において、都市のまわりに城壁が築かれることがなく、お城の周囲に剥き出しで都市があったのはなぜなのだろうか? 日本でこの本に描かれたような大盗賊が発生しなかったのはなぜだったのだろうか?
 ここで描かれた中国の歴史を見ると、日本の歴史はなんと穏やかなものなのだろうと思う。


(2006年5月7日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)